第135話-A:お前の意志で決めてくれ
新章開始からの急転直下。
こうして色々な騒動が起きながらも、今回の日本とデンマークによる国際親善試合は無事に終了。
亜弥乃たちからの熱烈なスカウトを受けて、高卒後のデンマーク行きを誘われた隼人たち高校生4人組だったのだが、隼人は引退を理由に断固拒否、静香は保留。
ネコタチペアはプロになるかどうか自体迷っているとしながらも、それでも高卒後の進路の選択肢には入れておくと、笑顔で亜弥乃たちに語ったのだった。
そして2日後の月曜日にJBL初のドラフト会議が行われ、迅の生まれ故郷の福岡県を本拠地に置く福岡ブラックファルコンズが、予てより公言していた通りに迅を1位指名。
他の9チームが競合を避けて迅を指名しなかった事から、迅の福岡ブラックファルコンズ入団が決定。年末の仕事納めをもって迅の三津菱マテリアル名古屋の退職が決まったのだった。
いよいよだ。この日本でも欧米諸国と同じように、来年からバドミントンのプロリーグが遂に開催されるのだ。
ここ数年は世界を舞台に結果を残す事が出来ず、『バドミントン後進国』と呼ばれ続けている日本ではあるが、これを切っ掛けにして世界を舞台に戦えるだけの力を身に着ける事が出来るのだろうか。
そんな騒ぎの中でも隼人は今日もいつも通りに稲北高校に通い、いつも通りに勉強し、いつも通りに部活動に精を出し、そしていつものようにクロスバイクに乗って自宅のアパートまで帰宅していた。
こんな静かで平和な日々が、これからもずっと続くのだと…そう隼人は思っていたのに。
運命の神様とやらが本当に実在するのであれば、一体隼人と彩花をどれだけ振り回せば気が済むのだろうか…。
「ただいま~。」
その日の19時。練習でクタクタに疲れ切った隼人が、今日の晩御飯は何かな~?などと呑気な事を考えながら、アパートの玄関を開けたのだが。
「お帰りなさい。隼人君。」
「んなっ…!?」
そんな腹ペコの隼人を穏やかな笑顔で出迎えたのは、まさかの予想外の人物の姿だった。
「静香ちゃん!?」
そう、練習を終えたばかりの、聖ルミナス女学園の制服を着た静香が、今まさに隼人の目の前にいるのだ。
まさかの事態に隼人は、唖然とした表情をしてしまっている。
「何で君がうちにいるの!?」
「私たちの将来に関わる、とても大事な話がありますから。だから部活が終わった後に、六花さんに車で送って頂いたんです。」
「大事な話って一体…!?」
静香と共にリビングまでやってきた隼人に対して、椅子に座った六花が穏やかな笑顔で手を振って出迎える。
仕事が終わってから、そのまま静香を送迎してきたのだろう。リクルートスーツを身に纏い、首元にネクタイを締めた、いつもの六花の美しくも凛々しい姿だ。
そして六花の隣の席には、相変わらずの無気力で無表情の、黒衣の暴走の果てに心が壊れてしまった、聖ルミナス女学園の制服を着た彩花の姿も。
「おう、お帰り。隼人。」
「父さん!?」
さらに美奈子が鼻歌を歌いながら夕食を作っているキッチンから、玲也が次々と料理が乗った皿を運んできたのだった。
美奈子の手作りの料理を、次々とテーブルに乗せていく。
いつもなら今ぐらいの時間だと、丁度仕事から帰ってくるかどうかといった頃合いのはずなのだが。
その玲也が、既に仕事を終えて帰宅しているのだ。
「今日はやけに早いんだね。一体どうしたの?」
「お前たちに話さなければいけない大事な話があってな。だから今日は社長の許可を得て、定時で上がらせて貰ったんだ。」
先程、静香も言っていたが、大事な話とは一体何なのか。
何故か静香がアパートにいるし、六花と彩花まで一緒だし、玲也が残業せずにこんなに早く帰ってきているし。
何だか隼人は、妙な胸騒ぎがしてしまったのだが。
「取り敢えずうがいをして、手を洗ってきたらどうだ?皆、腹が減ってるだろうから、積もる話は晩飯を食べ終わってからにしよう。」
「あ、うん。分かったよ。」
かくして隼人、美奈子、玲也、六花、彩花、そして静香の6人で、テーブルを囲んで夕食を食べる流れになってしまったのだった。
料理から溢れるとても香ばしい匂いが、練習で疲れ切った隼人の食欲を刺激する。
「頂きま~す。」
もう我慢出来ないと言わんばかりに、隼人は美奈子の手作りのシーザーサラダを口の中に放り込んだ。
食事をする際は今の隼人のように、まずは野菜から先に食べる事が健康維持の秘訣だとされている。
理由は作者も知らん。
そんな隼人の食べっぷりに、静香が心からの笑顔でクスクスと小さく笑ったのだった。
「それで父さん。さっき静香ちゃんも言ってたけど、大事な話って一体何なの?」
「あのな隼人。落ち着いて俺の話を聞いてくれ。」
「うん。」
全員が夕食を食べ終わった後、美奈子が淹れてくれた食後のコーヒーとデザートが、次々と隼人たちの前に並べられる。
だが次の瞬間、玲也の口から、隼人が全く予想もしなかった、とんでもない事実が語られたのである。
「実はな…今日、社長から俺に、スイスへの転勤の話が来たんだ。」
「…はああああああああああああああああああああああああああ!?」
まさかの玲也の言葉に、思わず隼人は椅子から立ち上がってしまったのだった。
スイスへの転勤…静香が言っていた大事な話とは、まさにこの事だったのだ。
そして勤務中にスマホに玲也から電話が掛かってきた六花もまた、こうして仕事が終わった後に静香を隼人のアパートまで連れて来たのである。
当然だろう。静香は1日限りとはいえ隼人とダブルスのパートナーを組んでおり、今では隼人とは互いに名前で呼び合う程の仲になっているのだから。
「取り敢えず隼人。落ち着いて椅子に座りなさい。」
「う、うん…て言うかスイスへの転勤って、一体何で!?だってミズシマ商事のスイス支社は、テロ組織のせいで取り潰しになったんじゃないの!?」
「その事なんだがな、実は…。」
かつて玲也がスイスで勤務していた、ミズシマ商事のスイス支社。
だが第5話においてテロ組織に、突然レアメタルの無償譲渡を強要されてしまう。
このままでは社員たち全員の身の安全が保証出来ないという理由から、ミズシマ商事は所持していたレアメタル全てをスイス政府に託した上で、スイス支社を取り潰す決断をする。
そうして玲也には名古屋にある本社に転勤…事実上の緊急避難をして貰う事になり、これにより隼人と美奈子は、彩花や六花と4年近くも離れ離れになってしまった。
しかしそのテロ組織は、お馬鹿な構成員のしょ~もない凡ミスがきっかけとなって拠点が丸裸になってしまい、通報を受けたドイツ軍の制圧行動によって上層部全員が戦死。
生き残った末端の構成員たちも全員がドイツ軍によって拘束され、これをもってテロ組織は壊滅する事となる。
ここまでなら、これまで熱心に本作を読んで下さった読者の皆さんにとっては、既に周知の事実なのだが。
そのテロ組織が壊滅し、スイスでの業務活動における安全が確約出来た事、さらにスイス政府からの熱心な懇願もありサポートの確約も得られた事で、ミスジマ商事の社長がスイス支社を復活させる決断をしたらしいのだ。
そこでスイスでの実績も経験も充分な玲也が、復活したスイス支社の支部長として任命される事になった、という事らしい。
事実上の平社員から幹部への大出世であり、当然ながらスイスに転勤すれば、今よりも給料が段違いに上がる事になるのだが。
それでも社長は玲也に対して、スイスへの転勤に関しては決して強要では無く、あくまでも玲也本人の希望を尊重すると告げたとの事だ。
理由はただ1つ。今の隼人には稲北高校において、駆のような仲のいい友達が何人かいるだろうし、もしかしたら既に隼人に恋人が出来ているかもしれないから。
それを会社側の都合で一方的に引き離してしまうのは可哀想だと、そう社長が判断したのだ。
それに今回のスイスへの転勤は、玲也に日本に来て貰った時とは事情がまるで違う。
あの時は事実上のスイスからの緊急避難だったのだが、今回は日本から緊急避難をしなければならない事情など何も無いのだから。
だからこそ社長は玲也に対して、どうしたいのかを決めて欲しいと告げたらしいのだ。
日本に残るのか、スイスに戻るのかを。
「だから隼人。今回のスイスへの転勤の是非については、お前に全ての決断を任せようと俺は思っている。このまま日本に残るのか、それともスイスに戻るのか。どちらを選ぶのかはお前の意志で決めてくれ。」
「いやぁ、そんな事を急に僕に言われてもなぁ…。」
「突然こんな事を言われて、びっくりしたよな?お前だって戸惑うのは当然だよな?こんな事になっちまって本当に御免な?」
とても申し訳無さそうな表情で、玲也は真っすぐに隼人を見据えた。
「ただ社長からは、年末の仕事納めまでには決断して欲しいと言われたよ。」
「年末の仕事納め…となると12月27日の金曜日だよね?猶予は2カ月ちょいか…。」
「そうだ。そしてスイスに戻るのであれば、当然六花ちゃんと彩花ちゃんにも一緒に来て貰う事になる。そうなれば六花ちゃんにはJABSを辞めて貰う事になっちまうけどな。」
とはいえ六花はシュバルツハーケンでの選手時代に、億単位の年俸を稼ぎ出している。
仮に無職になった所で、余程の無茶な贅沢さえしなければ、別に彩花を食べさせる程度なら何の支障も無いのだが。
「じゃあもしかして、今日、静香ちゃんに来て貰ったのは…。」
「そうだ。その時は静香ちゃんにも一緒に来て貰うっていう話になったんだ。勿論彼女のお母さんにも事情を説明して、既に了承を得ているよ。」
静香が六花から事情を聞かされた際に、その時は一緒にスイスに連れて行って欲しいと、無礼を承知の上で六花に対して頭を下げたらしいのだ。
彩花や隼人、それに六花とも、こんな形で離れ離れになってしまうのは絶対に嫌だから。
もし6人でスイスに行くという話になった場合、静香は六花が継母として引き取るという事で、既に六花と様子との間で話がついているらしい。
将来、静香が立派なプロのバドミントン選手になった時に、そのチームのスポンサーとして朝比奈コンツェルンが名乗りを上げる事を条件としてだ。
とは言え玲也も言っていたが、スイスへの転勤は決定事項ではないし、社長から強制もされていない。
あくまでも最大限に考慮されるのは、玲也の意志…そして玲也は隼人の気持ちを最大限に配慮し、隼人にその決断を委ねたのだ。
日本に残るのか、それともスイスに戻るのかを。
「とは言え時間的な猶予は、まだ2カ月ある。お前自身がどうしたいのか、お前がどっちで暮らしたいのか…それを最優先で決めてくれて構わない。」
「…僕自身が…どうしたいのか…。」
何の前触れもなく突然究極の選択を迫られてしまった隼人は、当たり前の話だが困惑の表情を浮かべてしまっていた。
美奈子が淹れてくれた食後のブラックコーヒーを、ゆっくりと口の中に入れる隼人。
そのブラックコーヒーからは、いつも以上の苦さを隼人は感じていたのだった…。
当然ながらJABS名古屋支部は、六花が退職するかもしれないとかで大騒ぎになる訳で…。