第126話-A:ブラック、好きなんですよ
僕も大好きだ。
隼人と静香が、デンマーク代表との国際親善試合の1日限定で、日本代表に加入。
この衝撃的なニュースはインターネットを通じて、瞬く間に全世界を駆け巡った。
翌日の9時に稲沢市役所で行われたデンマーク代表の記者会見においても、記者たちから隼人と静香の件に関しての質問が殺到する騒ぎになってしまった。
そして稲北高校と聖ルミナス女学園にも記者たちが殺到する事態になってしまったのだが、隼人も静香も
「あくまでも自分たちが日本代表に加入するのは、デンマーク代表との国際親善試合の1日限定である。」
「試合が終わったら問答無用で代表を抜ける。それ以降の事は本当に知った事じゃない。」
という事を、記者たちに対して徹底したのだった。
そして大勢の記者たちが一斉に隼人に対してカメラを向けるという異様な雰囲気の最中においても、稲北高校バドミントン部は今日の練習においても1人の怪我人も出す事無く、無事に滞りなく練習を終えたのだが。
部員たちが練習後の掃除や片付けを終えて、制服に着替えて体育館の外にやってきた、まさにその時だった。
「やほ。」
私服姿の亜弥乃が、突然隼人たちの前に姿を現したのである。
「亜弥乃さん!?何で!?」
全く予想もしなかった人物の登場に、思わず唖然とする隼人。
そんな隼人に対して亜弥乃が、穏やかな笑顔で軽く右手を振る。
記者たちも突然の亜弥乃の来訪に慌てふためき、一斉にカメラのフラッシュを浴びせたのだが。
「一体どうしたんですか!?わざわざこんな所まで!!」
デンマーク代表の滞在先のホテルが、稲北高校のすぐ近くにあるという事は、隼人も六花から聞かされてはいたのだが。
だからと言って、まさか亜弥乃がわざわざ稲北高校に訪れるなんて思っても見なかったので、部員たちの誰もが唖然としてしまっていたのだった。
そんな亜弥乃に対して記者たちの誰もが、一斉にカメラのフラッシュを浴びせたのだが。
「どうしても君と2人きりで、誰にも邪魔されずに話したい事があってね。」
その無数のカメラのフラッシュにも全く怯む事無く、亜弥乃が突然隼人の右手を右手で掴んだのだった。
「そういう訳なんで須藤監督。ちょっとだけ隼人君を借りますね。」
「借りるって…!!ちょっと、羽崎さん!?」
「用件が済んだら、すぐに返しますから。それじゃあ隼人君、行こっか。」
「なるべく早く帰って来るのよ~~~~~~~!?」
有無を言わさず亜弥乃に連行され、右腕を優しく引っ張られる隼人。
そんな2人の姿に記者たち全員がスクープだと大騒ぎになり、美奈子たちをほったらかしにして慌てて2人の後を追いかける。
一体全体何が何だか全然意味が分からないといった隼人だったのだが、その騒動の最中において亜弥乃に連行されたのは、稲北高校の目の前にある個人経営の喫茶店だった。
ここは店長の拘りで特に内装に力を入れており、まるで店内に入った途端に異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を感じさせる、落ち着いた雰囲気の幻想的な店だ。
立地条件の良さもあって稲北高校の生徒たちからも絶大な人気を誇る店で、放課後に立ち寄る生徒たちも割と多い事で有名なのだが。
「いらっしゃいませ~。…ええと、お客様、大変申し訳ございません。当店は団体様でのご利用はお控えさせて頂いておりますので…。」
メイド服を着たバイトの稲北高校の女子生徒が、隼人と亜弥乃の背後にいる大勢の記者たちに対して、引きつった笑顔を見せたのだった。
隼人と亜弥乃の2人きりの会談。そんな格好のスクープを見逃してたまるものかと、一斉に追いかけて来たのだが。
当たり前の話なのだが、こんなに大人数で一斉に押しかけたのでは、店や客の迷惑になってしまうのが目に見えている。
店内でくつろいでいる大勢の客たちも、一体何事なのかと怪訝な表情で記者たちを見つめていたのだが。
「私たち2人だけです。この人たちは関係ありませ~ん。しっしっ。」
それ位の事は言われなくても察しろ、とでも言わんばかりのウザそうな表情で、亜弥乃は大勢の記者たちに対して「110」と入力されたスマホの画面を見せつけながら、無理矢理店から追い出したのだった。
記者たちも警察沙汰にされるのは流石にまずいと思ったのか、それとも店に迷惑は掛けられないと潔く引き下がったのか、全員が大人しく店から出ていく。
それでも店外の駐車場で全員が一斉に待機しており、カメラを構えながら2人が店から出るのを、今か今かと待ち構えているのだが…。
「2名様ですね。こちらの席へどうぞ。」
バイトの女の子に案内されて、それぞれ向かい合うように席に座る隼人と亜弥乃。
この店の評判に関しては隼人も知ってはいたが、部活で忙しい上に喫茶店自体にあまり興味が無かった事から、実際に訪れたのは実はこれが初めてだったりする。
亜弥乃に促されてメニューを開くと、まさに喫茶店の王道や定番とも言うべき、豊富な内容のメニューが記載されていたのだが。
「私が奢ってあげるから、何でも好きなのを頼んでね。」
「いや、それは流石に悪いですよ。自分で頼む分は僕が…。」
「遠慮なんかしないの。お子様は素直にお姉さんに奢られなさい。そもそも君を無理矢理この店まで連れて来たのは私なんだからね?」
遠慮しがちな態度を見せる隼人に対して、亜弥乃は意地悪そうな笑顔を見せたのだった。
そう、理由はどうあれ、隼人を無理矢理この店まで連れて来たのは亜弥乃なのだ。
だからこそ、ここでの代金は隼人の分も含めて、全て自分が支払うのが礼儀だと…そう亜弥乃は考えているのだが。
「…分かりました。では遠慮なくご馳走になりますね。」
「はい、よろしい。」
そんな亜弥乃の気持ちを察した隼人は、穏やかな笑顔で即答したのだった。
自分の分は自分で払いたいのは山々だが、折角亜弥乃が善意を見せてくれているのだ。
別に大した金額では無いのだし、亜弥乃の善意を邪険にするのもどうなのかと、そう隼人は思ったのである。
2人共注文する品物を決めた後、亜弥乃がテーブルに設置された呼び鈴を鳴らすと、バイトの女の子がメモ帳とボールペンを手に慌ててすっ飛んできた。
「ご注文はお決まりになられましたか?」
「じゃあ僕はホットのエスプレッソをブラックで。亜弥乃さんはホットのアールグレイのストレートでしたよね?」
「ホットのエスプレッソのブラックと、ホットのアールグレイのストレートですね。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい。それでお願いします。」
「かしこまりました。少々お待ち下さいね。」
バイトの女の子が爽やかな笑顔で、カウンターの向こう側の調理場にいる店長に対して呼びかける。
注文を終えた後、改めて隼人が店内を見渡してみると、成程確かに大勢の稲北高校の生徒たちで賑わっているようだ。
他の一般の客もいるのはいるのだが、やはり稲北高校の目の前にあるという立地条件の良さもあるのだろう。
それにこの幻想的な雰囲気の内装と、店内に溢れる爽やかなコーヒーの香りが、練習で疲れ切った隼人の心を癒してくれる。
また今度、時間が空いた時にでも1人で来てみようかなと…そんな事を隼人は考えていたのだった。
「君くらいの年頃の男の子が、コーヒーをブラックで飲むなんて珍しいね。うちのチームのスコットじゃあるまいし。」
そんな隼人に対して、穏やかな笑顔で語りかける亜弥乃。
「ブラック、好きなんですよ。バドミントン部やクラスメイトの皆からは、変態だって笑われましたけどね。」
「そうなんだ。私は砂糖とミルクを入れないと飲めないんだけどね。」
「そういう人も別に珍しく無いですよ。」
そう言えば六花が、以前彩花が隼人を真似てコーヒーをブラックで飲んでみたら、うええ言いながら悶絶したとか笑いながら隼人に語っていたのを、隼人は今になって思い出したのだが。
「まあそれは置いといて…そろそろ本題に入ろうかな。」
亜弥乃は穏やかな笑顔で、隼人の事をじっ…と見据える。
「もう君も聞いていると思うけど、私は今度の日本代表との国際親善試合に、シングルス1で出場する予定なんだ。」
「そうですね。内香さんは日本代表を舐めているのかって、新聞の記事で記者が怒ってましたよ。」
亜弥乃だけではない。内香はシングルス3名、ダブルス2組をどの順番で出場させるのかを、1ヵ月近くも前から事前に公表してしまっているのだ。
普通なら絶対に有り得ない事であり、この新聞記者のように「日本代表に対する舐めプだ」と言われても仕方が無い事だ。
非公式の国際親善試合だからというのも、当然あるのだろうが。
「私はその親善試合で、君か静香ちゃんのどちらかと戦いたいって思ってるの。」
「そんな事が人払いをしてまで、僕と2人きりで話したい事だったんですか?」
「確かにそれもあるけど、単純に君と一度、誰にも邪魔されずに2人きりで話がしたいなって思ってたんだよ。」
意地悪な笑顔を見せながら、あっさりと隼人に語った亜弥乃。
そう、本当にマジでそんな事の為に、亜弥乃は隼人とこうして2人きりになったのだ。
まあ他のお客さんもいるので、厳密には2人きりとは言えないのだが…。
だが亜弥乃の気持ちも分からんでもない。隼人はそんな事を考えていたのだった。
そりゃあ、大勢の記者たちが見ている目の前で、隼人か静香のどちらかと戦いたいなどという、ある意味では宣戦布告とも取られかねない発言をしよう物なら、それこそ記者たちが大騒ぎになってしまいかねないからだ。
隼人とて折角の機会だから、世界ランク2位の亜弥乃とシングルスで戦ってみたいという気持ちは、まあ無くはないのだが。
「私たちとの試合の1日限りとはいえ、君が選手として試合に出てくれる事が決まったんだからね。今日の記者会見の時に記者たちから話を聞かされた時は、私は飛び跳ねて喜んだよ。」
「喜んで頂いたのは山々ですけど、オーダーを決めるのは僕ではなく監督ですからね?僕の意思でどうこう出来る代物じゃないですよ?」
「まあ、それはそうなんだけどね。」
そう、例え隼人本人が亜弥乃との対戦を希望しようが、実際にオーダーを決めるのは隼人ではなく監督なのだ。
こればかりは監督の裁量次第なので、隼人の立場では本当にどうしようもない。
「取り敢えず亜弥乃さんの希望に関しては、僕の方から監督に伝えておきますよ。そもそも鶴田監督の後任が誰になるのかさえ、僕はまだ聞かされていないんですけどね。」
「聞いてるよ。鶴田監督、クビになったんだって?」
「選手たちを大量離脱させた事の責任を取らされたとかでね。」
しかも六花から聞いた話だと、何と恋人と別れる事まで強要された女子大生の選手までいたんだとか。
隼人も一度だけツルピカ頭と話をした事があったのだが、いつかこういう事になるのではないかと感じていたのだ。
確かに指導能力は優秀かもしれないが、日本代表を世界の頂点に導く事に固執するあまり、他人への配慮という物が全く出来ていない、周りが全然見えていない人物。
隼人はツルピカ頭に対して、そんな印象を抱いたのだから。
どれだけ指導能力が優秀だろうが、そんな人物に心の底からついていきたいと願う選手が、果たして何人いるのだろうか。
選手の大量離脱を招いて、然るべきと言うべきだろう。
「お待たせ致しました~。ホットのエスプレッソのブラックと、ホットのアールグレイのストレートですね。」
そうこうしている間に、バイトの女の子がトレーの上にコーヒーと紅茶と、それと豆菓子が入った2つの子袋を乗せて、隼人と彩花の席にやってきたのだった。
とても香ばしい香りが、隼人と亜弥乃の周囲を包み込む。
「ご注文は以上でよろしかったですか?」
「「はい。」」
「ごゆっくりどうぞ~。」
バイトの女の子が立ち去った後に、差し出されたコーヒーを隼人が口に含むと、エスプレッソ独自の強い苦みが隼人の口の中に広がる。
そしてただ苦いだけではなく、微かに広がる酸味と香り。
「…美味いな。」
そんな素直な感想が、隼人の口から飛び出したのだった。
たまに隼人が自販機で買っている缶コーヒーや、いつも美奈子が食後に淹れてくれているパックタイプのドリップコーヒーとは、風味が段違いだ。
豆の品質の良さは勿論あるだろうが、店長の腕が余程素晴らしいのだろう。
ただ適当にコーヒーを淹れるだけでは、折角のコーヒーの風味が死んでしまうという事は、隼人も以前聞かされた事があるのだが。
だからと言って、まさかここまで風味に差が出る物なのかと。隼人は正直驚いていた。
「…うん、本当に美味しいね。いつもお母さんが淹れてくれる紅茶とは段違いだよ。」
「デンマークの紅茶って、やっぱり日本と全然違うんですか?」
「ルプトンの紅茶なら、デンマークでも普通に売ってるよ。」
「まあ世界的に有名なブランドですからね。」
「それ以外は、確かに日本とは全然違うかな。」
そんな他愛無い話をしながら、コーヒーと紅茶を堪能する隼人と亜弥乃。
ふと、隼人が窓の外を見ると、店の外の駐車場で相変わらず記者たちがカメラを構えながら、2人が店から出るのを今か今かと待ち構えていた。
この後、亜弥乃と2人で店を出た瞬間、記者たちに質問攻めされる事になるのは想像に難しくない。
週刊誌とかで亜弥乃との熱愛発覚だとか、全くの事実無根な記事を書かれそうで、正直怖くはあるのだが。
だがそれでも隼人は、心の底から思う。
非公式の親善試合とはいえ折角の機会なのだから、亜弥乃と全力で戦ってみたいと。
世界ランク2位のトップランカーの前に、自分の力がどこまで通用するのか…全身全霊の力をぶつけてみたいと。
勿論隼人が言っていたように、あくまでもオーダーを決めるのは、ツルピカ頭の後任となる監督だ。
亜弥乃と戦えるのかどうかは監督の裁量次第になるので、隼人本人の意志では最早どうにもならない事なのだが。
それでも今度の土曜日のデンマーク代表との国際親善試合は、果たして誰と戦う事になるのか分からないが、全力で真剣に楽しんでやろうと。
目の前の亜弥乃を見据えながら、隼人はそんな事を考えていたのだった。
次回、決戦前夜。




