大事なのはストーリー性ですかキャラクター性ですか?
お友達のエッセイで、新人小説家に“ストーリー性とキャラクター性、どっちを重視しますか?”と質問したところ、“ストーリー性”と答えた人は、ことごとく消えていった、なんて話を読みました。
ストーリーもキャラクターも、物語を構成する重要なファクターですが、キャラクター性を追求する方が成功しやすい、という論旨に聞こえます。
実際、鷹羽も、キャラクター性の強い作品の方が世に受け入れられやすい=書籍化しやすいのではないかと思っています。
本来論でいえば、両者は不可分のもので、どちらか片方だけで存在するのは難しいんですけどね。
一応、どちらかだけで存在することは可能です。
たとえば、ポケモンを考えてみましょう。
アニメではなくゲームで、自分が愛用しているモンスターに愛着がありませんか?
ゲームで戦闘に使い、育成しているだけで、そこにストーリーなんてありません。
でも、自分が使うことで、無機質なゲーム画面の中のイラストは命を持ちます。
“思い入れ”という名の付加価値です。
そこに何もストーリーがなくても、十分にキャラクターは成立します。
一方で、ストーリーも単独で成立し得ます。
小説なら、キャラクターに名前を付けず「王子」「公爵令嬢」「ヒロイン」などと書いたとしても物語は成り立つからです。
ただし、この場合、キャラクターが記号として存在するため、読者からは感情移入しづらいという副次的効果が生じます。
小説という“絵”のない媒体においては、「ボンキュッボンの美女」という、甚だ抽象的な表現が許されます。
実写ドラマにおいては役者という具象がいるわけですし、アニメ・漫画においても“絵”によって具体的なキャラクター像が目の前にあるわけです。
不自然なほど胸の大きなキャラなんかも、“絵”なら目の前に存在できるのです。
その点、「ボンキュッボン」では、どういったプロポーションかまるでわかりません。
たとえば「88・58・90」と具体的に数字が出たとして、それでどんな体型を想像するかは、人によって千差万別でしょう。だって、身長も体重も指定されていないのですから。
つまり、“ストーリー性重視”ということは、キャラクターをさほど大事にしなくても物語が成立する形式といえます。
書籍化のみならずコミカライズ・アニメ化もされた小説「蜘蛛ですが、なにか?」では、主人公である蜘蛛の魔物(通称「蜘蛛子」)は、当初黒い姿です。
一人称、しかも魔物で鑑も見ないため自分の外見はなかなか出てきませんが、人間の目を通した描写で「黒い蜘蛛型の魔物」と明記されています。
ですが、中盤、進化して白い姿になって「白ちゃん」とか呼ばれるようになったせいか“蜘蛛子=白い”という認識が強くなったらしく、コミック版やアニメ版の蜘蛛子は最初から白いです。
このように、小説の文中から想定されるキャラクターの印象は、かなり薄くても構わないのです。
もちろん、“ストーリー性重視”であっても、キャラクターが充実していることもあるでしょう。
それは、より完成度が高い作品であるということです。
あと、個人的には、“ストーリー性”と“エピソード”は別物だと思っています。
いえね、「ストーリー」って、何を指すのか結構曖昧なんですよね。
鷹羽は、「ストーリー」っていうのは、伏線なんかも含めた物語の構造全般を指して使っていますが、誰もがそう考えているとは言えないでしょう。
たとえば、3章まであるお話で、当初は1章だけで完結していたものが、その後、好評につき続編として2章・3章が書かれた、なんてことがあったとします。
この場合、伏線は1章で全部消化されていて、2章はキャラクターと世界観だけ残して一から書かれています。
もちろん、この場合でも、2章3章の完成度が高いことはあり得ますが、往々にして蛇足に終わることが多いと鷹羽は思っています。
鷹羽的には、そうなった場合、1章はストーリー性、2・3章はキャラクター性による物語という認識になります。1章で確立したキャラクター性を中心とした作劇というわけですね。
重ねて言いますが、キャラクターと世界観を継承してキャラクター性の優れた2・3章を書くことや、新章だけで独立した物語構造を上手に構築することだってあります。
“キャラクター性”というのは、外見、性格だけでなく、その能力や経験も含まれます。
ある程度キャラが立ってしまえば、イチャイチャしているだけでもお話が成立したりするのです。
そして、“ストーリー”にそこまで重い意味を持たせていない人もいます。
この辺は、どっちが良い悪いではなく、人それぞれの価値観の差異です。
狭い範囲で考えれば、「ストーリー」は“あるシーンとその周辺”という考え方もあるでしょう。
たとえば魔王を倒す旅をしているお話の中で、幹部の1人との戦いの前後が盛り上がったとします。
鷹羽にとっては物語の一部のエピソードに過ぎませんが、その部分だけを切り取って「ストーリーがいい」と評価する人もいるでしょうし、そういう考え方だってあって当然です。
鷹羽が戦隊シリーズで例を挙げると、好きな作品のトップ5は
「電撃戦隊チェンジマン」
「超獣戦隊ライブマン」
「五星戦隊ダイレンジャー」
「未来戦隊タイムレンジャー」
「侍戦隊シンケンジャー」
です(放映順)。
このうち「ダイレンジャー」以外は、ストーリー性で評価しています。
基本一話完結の戦隊シリーズですが、「チェンジマン」は、特に終盤、毎回のように敵組織ゴズマの幹部が離反したり討ち死にしたりして、大河ドラマの様相を呈していました。
前作の「超電子バイオマン」では、良心回路、バイオハンターシルバなど、シリーズの縦糸となるドラマを導入したものの、活かすことができませんでした。
「チェンジマン」では、その失敗の経験を活かし、大河ドラマに仕立てることに成功したのです。
ゴズマは、侵略した星の人間を、母星を人質に脅迫し、別の星を侵略する尖兵に仕立て上げます。
敵母艦の航海士ゲーター周辺はドラマ性が高いです。
ゲーターの場合、戦闘能力があまり高くないこともあってか、母星はゴズマに支配されていますが割と平穏に航海士として単身赴任扱いで地球に来ています。
27話で、母星に残してきた妻が地球に会いに来て、47話で息子(と追ってきた妻)が地球に来て、51話で2人目の子供が生まれることがわかり、産気づいた妻の居場所がゴズマの作戦で吹き飛ぶ地点と知ってゴズマを裏切ります。
普通なら裏切者は処刑されるわけですが、ゲーター親子はチェンジマンとの関わりがあったことから庇護を受けて生き延びました。
これがきっかけとなり、ゴズマからの離反者が生き延びられることが全宇宙に知れ渡りました。
また、ゴズマは同時にいくつもの星を侵略しているので、現在ゴズマと戦っている星というものがいくつもあります。作中でも、ゴズマの侵略に苦しむ星に地球から支援を送ったというエピソードもありました。
かつてゴズマに滅ぼされた星の生き残りがそういった星を支援しようとしたりもしました。
また、チェンジマンを組織した伊吹長官は、かつてゴズマに滅ぼされた星の生き残りでした。
そうやって、年間通じていくつものエピソードが描かれ、「チェンジマン」ラストでは、ゴズマ地球方面軍から離反したゲーター・シーマ・ギョダーイ、ゴズマの被害を受けたリゲル星人ナナ、かつてゴズマに滅ぼされた星の生き残りの伊吹長官やメルル星人さくら達を糾合するかたちで最終決戦が行われました。
一話完結構成で、散発していたエピソードを伏線として昇華するという手法は、当時としては画期的でした。
対照的なのが「ダイレンジャー」です。
「ダイレンジャー」は、シリーズ屈指のアクションのキレが映えた作品ですが、ストーリーについては、鷹羽の評価はかなり低いです。
1年間のストーリーを簡単に説明すると、
5千年前に封印されたゴーマが復活し、ダイレンジャーとの戦いで滅んだかのように見えたが、50年後に復活して新たなダイレンジャーとの戦いが始まった
というものです。
もう、あらすじを見ただけでストーリーがしっちゃかめっちゃかなのがわかります。
本放送当時、最終回ラスト5分で、1話の怪人の色違いが出現してダイレンジャーの孫5人(通称マゴレンジャー)が変身して大連王で戦い始めた時は、「はぁっ!?」と驚いたものです。
一応ですね、「ダイレンジャー」にも縦糸となるドラマはあるんですよ。
ただ、それが物語本筋に繋がらず、特定のキャラにだけ繋がっていたんですね。
縦糸は、大きく分けて4本。
1本め、リュウレンジャー:亮と的場陣のライバル関係
2本め、シシレンジャー:大悟とクジャクの悲恋
3本め、テンマレンジャー:将児と怪人の因縁
4本め、キバレンジャー:コウと敵幹部シャダム・阿古丸との家族関係
詳しい説明は省きますが、これら4つの縦糸は、1年を通して時折描かれて進行し、クリスマスから年明けにかけてそれぞれ決着しました。
が、これらはあくまでメンバーの1人が背負ったテーマであり、本編には全く影響しません。
もうちょっと言うと、これらの縦糸は専属の脚本家がいて、本編と関係なく執筆しているため、ほかの話では全く触れられません。
これらの縦糸は、広義ではキャラを掘り下げるストーリーですが、狭義(というか鷹羽流)だと“キャラのためのエピソード”でしかありません。
たとえば、亮を語る上では、陣との拳法対決にまつわる描写を避けては通れません。
実際、番組終盤、ダイレンジャーの解散を宣言され、変身不能になった時、亮には陣の、大悟にはクジャクの、将児には3バカの幻がそれぞれ励ましに現れました。
キャラクターを支えるバックボーンとしては重要なエピソードですが物語本筋には役に立たないエピソード、そんな感じです。
鷹羽も、これまで「なろう」でいくつもの小説を書いてきましたが、「キャラクターが生きている」「キャラクターが空っぽ」という相反する感想をもらっています。
おそらくは読者の方のスタンスで評価が変わるのだろうと思っています。
鷹羽は、基本的に、書き始める前に話のオチまで決めています。
長期連載でも、です。
元々が“こういう話を書きたい”と思って、大まかな構成や伏線構造などを決めてから書くタイプです。
最初の連載である「転生令嬢は修道院に行きたい」では、プロットの段階で、何話構成で、それぞれどういう話になって、というのを全部決めてから書きました。
次の「赤い糸、いかがですか?」は、大まかな流れを決めて、ラスト、卒業後に婿養子に迎えるというところまで確定していました。
一番書きたかったのは、主人公明星が初めての彼氏にふられたエピソードと、それを乗り越えて新しい彼氏と結ばれるエピソードで、ほかの話はその場その場で考えて書いていました。そのせいで息切れして、4年生の1年間を盛大に端折って卒業させました。
「奇跡の少女と運命の相手」では、年表的に出来事を決めて──というか「修道院」の続編なので最初からいくつかイベントが決まっていて、イベント間を埋めるエピソードを作ってから書き始めました。
細かい部分は途中で考えましたが──リクエストで加えた話もありますし──基本的な流れは最初から決まっていました。
ただ、主人公マリーの運命の相手に関しては、“セリィの死後、マリーを慰めた男”とだけ決めて、誰か、どんな慰め方かは確定していませんでした。
エピソードを積み重ねていくうちに、ちょい役予定で出したクロードが大躍進してしまいました。本命として予定していたのは、王子だったんですけどねぇ。
このように、鷹羽は、キャラクターを“物語のためのコマ”として使うことが多いです。
中には、キャラクター性を確立し、鷹羽の作劇に影響があるほどに成長するキャラもいますが、それは少数です。
セリィとか、カトレア、香奈くらいでしょうか。
セリィについては、当初、ほかの攻略対象6人それぞれの分もアナザーストーリーを書くつもりだったのですが、隠れキャラであるリリーナとの百合エンディングの短編を書いたら、どうにも辛くなりました。
セリィがヴァニィ以外と恋仲になることが、鷹羽の中で納得できなくなってしまったのです。
カトレアは、本来セリィのライバルとなるはずの悪役令嬢ですが、セリィと対立せずに友情を育み、自分の恋を成就させます。ここまでは予定どおりです。
その後、カトレアとセリィは生涯の親友となりました。
カトレアは、主に夫への愛から、先々を予想して孫のマリーを守り育てていくことになり、周囲から“未来が見えているようだ”などと言われます。
ただ、カトレアにとっては、あくまでの夫の望み(マリーの研究者としての大成)を叶えるのが目的であり、一部の読者さんからは“自分のことしか考えていない”とか言われたりもしました。
まぁ、そういうキャラなので、そのとおりなのですが。
カトレアについては、「修道院」ラストの方で、“マリーをカトレアが守ってきた”と一言書いただけで、そこに具体的なあれこれが出てきたのは、「奇跡の少女」でカトレアがとにかく用心深くて先を読んでいたせいなんですよねぇ。
香奈は、兄に恋する妹で、兄を薬で眠らせ、こっそり子供を作っちゃうんですけど。
子供の扱いをどうするかって考えた時、ダミーの交際相手を用意するのがベストだと思ったんですよ。そいつと既成事実を作れば、自然に私生児を産める、と。
ところが、鷹羽の中の潔癖な香奈は、“兄貴以外に抱かれるのは嫌だ”とだだをこねまして。
結局、うまい具合に“付き合ってるんじゃない?”って状況を作るだけに留めました。
相手の男は、交通事故で死んでいますが、その状況をうまく利用するくらいには香奈は狡猾です。
で、ですね。
この3人だけキャラクター性を確立していたということは、裏を返せば、ほかのキャラは作者の都合どおりに動いてくれるということで。
鷹羽にとって、キャラがコマであるということの証左なのです。
具体的には、“このキャラはこういうなりたちでこんな性格で…”という設定と、物語における役割を与えて作り、その枠からはみ出すことがないということです。
たとえば、「ごつい魔法士とひょろい剣士」のレイルは、人間の父と、力を封じられた淫魔の母との間に生まれたハーフです。
淫魔としての力が弱く仲間から迫害されてきて、たまたま肉体強化系の魔法が使えたので、返り討ちにして里を飛び出してきて、人間に化けて冒険者になった、という設定です。
この辺りの説明は、本編中ほとんど出していません。
本編は、相棒であるフォルスと一緒に動くようになって1年後からスタートしますから。
本編に影響のあるフォルスとの出会いは、回想話でまかないました。
フォルスに対して何かしらの想いを抱いているようなそぶりを示し、クライマックスでは、フォルスから直接精を得ることで必要な魔力を生み出すという展開ですが、レイルの真意は描いていません。
これが香奈なら、作劇になにがしかの影響を与えてくるところです。
この辺りが、「キャラが何考えてるかわからない」とか言われる原因ですね。
作者の操り人形なのです。
そして、それがキャラに魅力がないという評価に繋がっているのだと思います。
鷹羽は、主観になっているキャラ以外は、何を考えているのか描写しないのが常です。
三人称なら描写することもありますが、一人称では“他人が何を考えているのか分からない”のが当然なので、そうしています。
逆に、だからこそ齟齬が生まれますし、齟齬をストーリーの要素に組み込んでいます。
キャラが制御できないとその辺がうまくいかなくなるので、制御しないわけにいかないんですよね。
そんなわけで、鷹羽は、キャラを自由に動かせてやれないのです。
鷹羽個人は、全体としての完成度を見る上で、全編通しての整合性や伏線などの構造を重視しますが、一般的には、全体を通して云々よりその時その時の盛り上がりの方が重視される傾向が強いです。
それは当然のことで、最初から全12話とか切られていない限り、いつ終わるかわからないものをずっと読み続けるには、その時々に興味を惹かれる必要があるのです。
なにせ、いつでも読むのをやめられるのですから。
そうなると、読者を飽きさせない、面白いエピソードを重ねていく方がいいでしょう。
その結果、たとえ3つ前のエピソードと矛盾するような展開になったとしても、連載ものでそこまで突っ込んでくる読者は、そう多くありません。
かつての週刊少年ジャンプの連載作品のように、キャラの設定がぶれようと、その場を盛り上げるだけの矛盾だらけになろうと、ウケた者勝ちなのです。
そうなると、キャラが際立つようなエピソードを重ねて、キャラクター性で勝負した方が有利です。
連載中のなろう作品の場合も、キャラクター性が強い方が売りやすいでしょうから、書籍化の可能性が上がるでしょう。
書籍化されたとして、最終話まで発行してもらえる保証はないのですし、キャラクター性で売った方がいい、ということになるでしょう。
良い悪いではなく、そういう傾向、ということです。
鷹羽は、それでもキャラクター性よりストーリー性を重視しますけどね。