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佞臣伝  作者: コルシカ
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践祚


 私は曹叡、字を元沖という。

 魏の二代皇帝であるが、周囲も承知の秘密がある。

 それは私の本当の父が初代皇帝の曹丕ではなく、袁煕であるということだ。

 群雄割拠の時代、祖父の武帝・曹操が宿敵だった袁紹を滅ぼしたとき、父は一武将としてその戦に参加しており、逃亡した袁紹の次男である袁煕の妻、すなわち私の母・甄氏を己の妻とした。

 そのとき母は私をすでに身ごもっていたのである。父はそれを知って、私が生まれたのち、長子とした。

 それでいて、父は母を理不尽な理由で自殺させ、他の女を娶った。その理由は当時子どもだった私には、今も判然としない。

 曹家の後宮で、私はいつも孤独だった。

 誰もが私の出自を知っている。私が皇帝となった父の皇太子として跡を継ぐと信じている者は誰もいなかった。

 ただ一人、私の親友を除いては。

         ※

 私は秦朗、字を元明といいます。

 武皇帝(曹操)の養子として、魏国の後宮で育てられました。

 私は父が三人いると常々思っています。一人は父になるはずだった人です。

 母は杜氏といい、武帝の側室でした。

 養父は武帝・曹操。実父は秦宜禄といい、群雄割拠の時代、呂布に仕えていた武将でしたが、都に使者として遣わされた際、漢の皇室にゆかりのある女と結婚させられ、私たち母子は捨てられる結果となってしまいました。

 そのとき、蜀の皇帝・劉備は養父の陣営におり、その武将・関羽が私たち母子を養おうといってくれたのです。

 関羽こそが、三人目の「父になるはずだった人」でした。

 その後関羽は諸事情あって私たち親子を養うことを諦め、武帝に私たちを託すことになりました。

 母は養父になった武帝の側室扱いとなり、私も幼いころから後宮で暮らしました。

 後宮には曹家のご子息のみならず、夏候家など親せきの子女もたくさん出入りしていました。

 内気な私は出自の後ろめたさから、孤独でした。貴族の子女たちにまじって交流することができず、一人で読書などして日々をすごしていたのです。

 ですが、そこで私の人生の出会いがありました。

 私と同じ影をもつ、孤独な少年貴族を見つ

けたのです。

 その瞬間から私は、

 「このお方のために一生を捧げることになる」

 という確信を抱きました。

 それが、現皇帝の曹叡さまでした。


         一


 魏の黄初七年(二二六年)、初代皇帝曹丕は死の床にあった。

 三月には九華台という宮殿を築いたところなのに、ふだんより病からほど遠かった彼が、五月から寝所にふせるようになった。

 「そろそろ朕の死期がせまってきた。ぬかりなくあとの準備を整えねばならない」

 群臣はあわてて、

 「陛下ほど死から遠い方はおられません。遠からずご回復なされます。それに、朱建平の占いでは齢八十の長寿をまっとうされるとのことではありませんでしたか」

 人相見で有名な朱建平が曹丕の若い頃、

「ご寿命は八十ですが、四十歳のときちょっとした災難がありますので、ご用心を」

 と占ったことがあった。

 曹丕はこのとき、ちょうど四十歳。

 この「ちょっとした災難」を乗り越えれば、あと四十年寿命がある。群臣はそういいたかったのである。

 曹丕はふと悲しげに笑うと、

 「建平は昼夜別に寿命を数えたのだ。朕の命運が尽きていることは自分がよく知っている」

 と弱弱しくいった。

 群臣は顔を見合わせた。四十年の寿命を昼と夜に分けると二倍になり、たしかに八十年になる。

 「皇太子であるが……叡にいたす」

 まだ四十歳だった曹丕は世継ぎとしての皇太子を決めていなかった。そこで立太子を病の床で宣言したのだが、群臣たちは思わず色めき立った。

 「平原王(曹叡)が……」

 「まことですか?」

 近臣の中には曹丕が熱にうなされて、いい間違いをしたのかと勘違いした者もいた。

 「うむ……」

 「……」

 曹叡が曹丕の実子でないことは、魏の臣民なら誰もが知っている。

 (元沖(曹叡)は優しい……)

 曹丕は、混濁する意識の中であることを思い出していた。

 狩りが好きな曹丕は、あるとき狩猟に曹叡を伴って出かけた。おりしも鹿の母子がおり、母鹿を曹丕が弓矢で射殺した。

 「叡、残りも射よ」

 そう命じた曹丕は驚くべき光景を目にした。

 曹叡が泣いているのである。

 「陛下はすでに母鹿を殺されました。さらに子鹿まで殺せとはしのびないことです」

 曹丕は愕然とした。あのおとなしく、父に口答えひとつしない曹叡がまさか狩りの一場面で抗弁するとは予想しなかったからである。

 (己と母のことをいっておるのだな……)

 曹叡が小鹿を射ないでほしいと懇願したのは、母鹿を自殺させられた甄氏、小鹿を曹叡自身になぞらえているからだ。

 曹丕は何も答えず、そこに弓矢を放り出して踵を返した。曹叡は安堵した表情で曹丕の後を追ってきた。その後の会話は覚えていない。

 むろん曹丕は機嫌を悪くしたわけではない。情深く優しい一面を刹那にあらわした曹叡を大いに見直した。

 (どうせ人から奪った国だ)

 魏は漢の献帝から禅譲されて建国されたものの、実質は曹丕が平和裏に献帝から権力を奪取した帝国である。

 (生まれはどうでもよいではないか。臣民を安んじて任せることができれば)

 博識の曹丕は仏教のあらましを知っていたと思われるが、死にあたって己の欲望を棄ててゆくさまを仏教の究極の哲理と感じたかどうか。

 曹丕は日を改めて司馬懿、曹真、曹休、陳羣といった重臣を呼び、

 「皆で嗣君を補佐してほしい」

 と頼み、これが遺言となってしまった。

 翌日、嘉福殿にて逝去。享年四十歳だった。

 遺訓をさずけられた四人は葬儀の準備を視察しつつ新皇帝のことを話し合った。

 皇帝の一族である曹休は、

 「まさか、平原王が践祚されるとはな……」

 と肩を落としつついった。

 族兄の曹真に、

 「平原王とは懇意なのですか」

 と問うた。曹真もかぶりを振り、

 「いや、あのようなお人柄なので、ご挨拶程度はしていたものの、ほとんどお話もしたことがない。司馬将軍はいかがか」

 司馬懿も困惑し、

 「いえ、私もさっぱり……」

 と答える他なかった。陳羣も同様であるらしい。

 なにしろ皇帝の曹丕には曹協、曹霖など九人も男子がいるので、誅殺した甄后と袁煕の子である曹叡を後継者にしたくないと群臣は思っていたのである。

 曹叡は平原国という魏でも北方の辺境の王として読書などしながらひっそりと生を終えるはずであった。

 (なるほどこの世こそ一寸先は闇、とはよくいったものだ)

 司馬懿は曹丕の葬儀会場を後にしながら、しみじみと感じ入った。

 (そういえば師が何妟と少し交友があったはずだったな……探りをいれてみるか)

 司馬懿には、司馬師、司馬昭という二人の男子がいる。その兄の司馬師は、曹叡と同じ後宮で育てられた何妟と親しいということを耳にしたことがある。

 何妟は字を平叔といい、後漢の大将軍だった何進の孫である。

 何進は後漢の動乱期に宦官に殺害されてしまったが有徳の人で、彼を慕っていた当時部下だった曹操が、何妟の母の尹氏を側室にしたため、何妟も秦宜禄と同様母の連れ子として後宮で育てられたのである。

 ちなみに何妟も曹叡も秦朗も、皆母親が美女であったから、男子は容貌が母親に似る場合が多く、三人とも美男子であった。

 帰宅後、司馬懿が司馬師に曹叡のことを尋ねてみたところ、

 「何妟は平原王のことをつねに馬鹿にしておりました」

 と意外な答えが返ってきた。

 つまり何妟は出自が漢の大将軍の孫であるという自負があり、つねに二人きりで読書したり話し合っている曹叡と秦朗を「袁煕と秦宜禄の子が」と聞こえよがしに侮っていたとのことである。

 とはいえその言動からわかるように何妟本人の評判は後宮でも芳しくなく、傲慢で太子たちと変わらぬ服装をして遊びまわっていたので、曹丕からは「假子(子とは名ばかりの偽の子)と呼ばれて嫌いぬかれていたという。

 肝心の曹叡の能力や性格に関しては、司馬師も悩んだ末、

 「賢愚定かならず」

 と答えた。これならば曹休、曹真、陳羣らの意見と変わらない。

 「……で、あろうな」

 司馬懿は曹叡の資質は、即位後自らで見極めねばならないと感じた。

          ※

 華やかな場所であった。後宮には優雅な音楽が流れ、庭は広い池に朱塗りの橋が架かっている。花々は咲き誇り、四季の移ろいを心ゆくまで堪能できる。

 建物も瀟洒、建築を任せた曹操が派手好みではないので絢爛とはほど遠いが、その堅実な造りがかえってそこに住む人たちへの思いやりを感じさせる、

 「阿蘇、御曹司なんかとつるんでいたって、なんの得もないぞ」

 少年時代の何妟である。まわりに名家の子女を従えて派手な服を着ている。

 「平叔……」

 阿蘇とは秦朗の幼名である。秦朗は曹叡と読書をしていて、書庫から六韜を運んでいるところであった。

 「ねえ、ちょっと、やめてよ。あなたがおいいなさいよ」

 容貌の美しさは何妟も相当なものだが、秦朗にはかなわない。何妟の左右に従っていた女子たちが秦朗を見て騒いでいる。

 それを見た何妟は「ちっ!」と舌うちをして、

 「おまえなんか、一生兵書を活かすことなんてないだろ。詩でもつくってろよ」

 何妟は取り巻きにはいつも一番にちやほやされたいので、あからさまに秦朗へ嫌味をいった。

 「これは御曹司に頼まれたもので……」

 秦朗がおずおず答えると、さらに何妟はいらいらした様子で、

 「御曹司なんてずっと部屋住みで、王位どころか侯位だってあやしいぜ。ペコペコしているおまえが惨めだっていってやってるんだから」

 と吐き捨てた。

 「阿蘇もこっちいらっしゃいよ」

 何妟の取り巻きの少女が目いっぱいのしなをつくって誘う。

 「これから書を御曹司のところにもっていかなければいけないんだ……」

 秦朗は恥ずかしそうに断った。

 「よせよせ、御曹司と阿蘇はふたりそろって腰抜けだ。遊びに誘ってもむださ」

 何妟が傲慢な口調で少女をたしなめる。

 「まあ、男同士よろしくやることだな」

 そして下衆な視線をくれると「行こう」と取り巻きを連れて去った。

 「もったいないわねー。平叔がいらなければ、わたし阿蘇をもらっちゃおうかしら」

 いつもそうだ。

 女たちは美しい容貌の自分を人形のように所有したがる。

 しかしあのお方は。曹叡さまだけは私を一人の人間として尊重してくださる。

 六韜を書庫から曹叡のもとに運ぶと、曹叡は「孫子」の注解に目を通していた。

 「あ、ありがとう……誰かにまた何かいわれたのかい?」

 「いえ……」

 それにしても、曹叡の美しさは秦朗をも凌駕している。母の甄氏と瓜二つで、髪は肩まで伸びており、ことばには吃音がやや入っているがそれがまた音楽的で、秦朗には好ましかった。

 「ま、また何妟か。いつも迷惑をかけるね」

 そんな、と秦宜禄は嬉しそうに曹叡の机の対面の椅子に腰かけた。

 「お祖父さまの書かれた孫子の注解はじつにわかりやすいよ。戦場の場面が、兵士の息づかいまで伝わってくる。な、なにより今の時代の戦になぞらえて解説しているところがいい」

 父の曹丕と叔父の曹植は詩の天才で、祖父の曹操も「横朔の詩人」として戦場で槍を横たえて詩を読む文人でもあったが、曹叡は帝王学や兵書を読むのを好んでいる。

 「義父上はお若いときの黄巾の乱から戦場を往復されていましたからね」

 秦朗は曹操のことを「義父上」と呼んでいる。

 「こ、滑稽だろう。曹家の跡を継げない私が兵書を読むなんて」

 「そのようなことはありません!」

 あわてて曹叡の自嘲を秦朗が否定する。

 曹叡は普段法律学の書を読むことを好んでいたが、秦朗の見るところ兵書に並々ならぬ興味をもっている。

 曹叡が架空の戦場を絵図面に描き、秦朗と戦略戦術のシュミレーションをすることが彼の娯楽であった。

 法律学はおそらく父の曹丕が徐姫の子の曹礼を後嗣にすることを忖度し、自分が地方の王侯になったとき、行政を円滑にする実学として学んでいるのであろう。

 (奥ゆかしいお人だ)

 秦朗はますます曹叡に惹かれていった。

 曹叡の隠れた人格才能を早くから見抜いていた人物は、身近にいた。秦朗の義父にして曹叡の祖父曹操である。

 五、六歳の頃から曹操は戦場で日に焼けた皺だらけの顔を曹叡に近づけては、

 「元沖は賢い」

 と目を細めて繰り返した。

 宴会などがあると必ず曹叡を連れていき臨席させ、

 「わが基は、汝の代で三代になるであろう」

 と群臣の前でいって聞かせた。

 父の曹丕は無表情であったが、しばしば同席させた秦朗のもとに曹操は菓子をもってやってきては、

 「汝のことはよく元沖からきいている。よろしくたすけてやってくれ」

 と笑顔を見せてくれた。

 曹操は生まれついての後継ぎだった曹丕とちがい、群雄割拠の時代を「宦官の孫」と蔑まれつつ実力で現在の地位を築いた。

 「袁煕の子になぜご執心なのか」

 との群臣の声も耳に入らなかったわけではない。人間としての魅力と努力によって身につけた能力が、結局のところ乱世では最大の武器になることを、曹叡を褒め上げることで教訓としたといっていい。

 曹叡が祖父を好きなのは明らかで、祖父に倣って兵書を読み込んでいるうちにたちまちその深奥を理解できたのだろう、と秦朗は推測している。

 曹叡と一人仲良くしてくれる秦朗を、曹操は甚だかわいがってくれた。

 「世間で私ほど妻の連れ子をかわいがるものはいまい」

 とわざわざ皆の前でいってくれた。曹叡と秦朗は自分のお気に入りであると宣言したと言っていい。

 その頃から秦朗の心に芽生えたある感情があった。

 「曹叡さまの影になりたい」

 という漠然としたものである。そのことを曹叡にも打ち明けた。

 「あ、阿蘇は私の大事な友だ。影などではない」

 曹叡は優しいので、笑ってそれを否定したが、秦朗は引き下がらなかった。

 「御曹司、それは違います。私は不遜にも御曹司がいずれ帝位に就かれると信じているのです」

 曹叡は目を丸くした。

 「わ、私が帝位に?お祖父さまや父上が、なら分からなくはないが、そのような可能性はないよ」

 いえ、と秦朗は続ける。

 「いずれそのようになる予感が、私にはあるのです。ですので、御曹司の代わりに宮中や諸侯の関係などを把握しておきたい。

 御曹司は奥ゆかしいご気質ゆえ、そのままの暮らしをお続けください。もっとも、ときどき野暮な報告をして、無駄話をするかもしれませんがお許しください」

 血のめぐりの良い曹叡が、ここまでいわれて話の要点を察することができないなどありえないことである。

 「そ、そうか……私のために苦労をかけるね。でも、阿蘇はこれからも私の最良の友だ。

 将来諸侯にでもなれば、厚く君に報いるであろう」

 曹叡は優しく、秦朗の肩に手を置いた。

 果たして、秦朗は徐々に宮中や諸侯の間を遊び歩くことをはじめた。

 曹叡のための情報収集である。

 しかし、何妟が皆の嫌われ者だったのに対し、秦朗は誰からも愛され、かわいがられた。

 「阿蘇はこの頃明るくなったようです」

 曹丕はわずかに目元に笑みをたたえて、父の曹操にいった。曹操は笑って、

 「汝には、阿蘇が変わった理由がわからぬのかな」

 と問うた。

 「理由……ですか」

 「うむ。あれは元沖のために世間の出来事を拾い集めておるのだ」

 「ほう」

 平素無表情な曹丕の表情がふと緩んだ。

 「頼もしいではないか。阿蘇は元沖にとっての氏神になるやもしれぬぞ」

 もともと秦朗は慎み深い性格である。人々の話に加わるタイミングもうまい。さらに聞き上手である。徐々に宮中や諸侯も秦朗に気を許すようになり、すすんで会話の輪に入るよう促すようになった。

 「どういうことだ、阿蘇のやつ……急に御曹司だけじゃなくてみんなにおべっか使い始めやがって」

 何妟だけは秦朗を馬鹿にしきっていたので、その豹変ぶりに不快感をあらわにした。

 「あの子も御曹司だけじゃ後ろ盾がさびしくなったんじゃない?」

 何妟に連れられていた少女がいった。

 「あの子、いい男だしね」

 「ふん……」

         ※

 そうこうしているうちに月日は過ぎ、ときは建安二十三年(二一九)が明けた。

 曹叡は十五歳に、秦朗は二十一歳になっている。

 「ぎ、魏王は今度の遠征では苦戦されているのだな……」

 「正月に夏侯元帥が討死にされてから、戦況は一進一退のようです」

 魏王とは曹操のことで、漢中の劉備を攻めるため一族で征西将軍の夏侯淵を派遣していたが、劉備の護軍である黄権の策に欺かれ、将軍の黄忠に斬られたのである。

 副将の将軍である張郃が軍をまとめて踏みとどまったため、魏王曹操自らが軍を率いて漢中に向かった。

 「や、やはり兵站も長くなっているし、険阻の地の漢中に長く留まっている将兵も、故郷が懐かしく感じる頃でもあろうしな……」

 (的確な分析だ)

 いつものことながら秦朗は曹叡の戦場分析には舌をまいた。さらに嬉しかったのは、遠く天嶮の地である漢中に派遣されて、心身ともに疲れ切っている魏の将兵を思い遣ってくれているところだ。

 (武徳候はお優しい)

 この年、曹叡は武徳候に封じられ、秦朗も宮中の官に就任していた。

 曹叡は、漢中での攻防が魏軍の失敗に終わるとみていたのだろうが、明言を避けていると秦朗は察した。

 果たして五月になって、曹操は漢中から撤退した。

 「魏王は軍を撤退されるとき、『鶏肋』という布令を出されたそうで」

 「け、鶏肋?」

 「はい。『鶏の肋骨は棄てるのには惜しいが、食べても腹の足しにはならない』という意味です」

 「は、はは。し、詩人の魏王らしい洒落た布令であるな」

 曹叡も秦朗も漢中はさほど戦略的意味を見出していなかったので、曹操の皮肉をともに笑った。

 反して劉備は、益州・荊州の北部に加えて漢中を得ることになったので「漢中王」と称した。王太子は劉禅である。秦朗の父になるはずだった関羽も前将軍に封じられ荊州の総督として節と鉞を与えられたという。

 「漢中王といいますと、漢の高祖劉邦が就いた王位ですね」

 読書中の曹叡のもとへその知らせをもってきた秦朗に、曹叡は書を閉じて、

 「り、劉備は生き方が高祖の模倣さ。だが、あそこまで徹底できる人はめずらしい。

 ぎ、魏王に会ったとき『あの玄徳がなあ』と半ば呆れ半ば感心しておられた」

 と微笑した。それより、と曹叡は身体を秦朗に向け、

 「か、関候は節と鉞を与えられたとか。私にはそちらの方が気にかかる」

 と眉を曇らせた。節(旗)とまさかりは独断専行権の象徴であり、魏の首都・許昌と目と鼻の先にいる関羽が、独断で軍を北に進めないか心配したのである。ちなみに曹操は関羽が若い時「寿亭候」という候位を与えているので、二人は関羽のことを「関候」と呼んでいる。

 「そのような性急に兵を動かしますか?」

 秦朗は関羽の軍事的活躍を個人的に情報収集していたので、曹叡の意見には懐疑的であった。

 「か、関候は公には劉備の臣下であるものの、私では義兄弟の間柄だ。

 り、劉備が王になったということは、劉備と関候の内心では関候も王になったのだ。前将軍で節と鉞を与えられたということは、事実上関候は『荊州王』になったのだよ」

 曹叡は「まもなく関候は魏にむけて出師するのではないか」とまで不吉な予言をした。

         ※

 関羽が突如として出師し、魏の曹仁が守備する樊城を攻撃し始めたのは翌八月のことであった。

 おりしも秋の長雨で漢水は水位をあげており、救援軍の于禁と龐悳も慌ただしい出発となった。

 その見送りで曹操に伴われた曹叡は、漢水が氾濫したらどうなるのか、という不安がよぎった。

 しかし于禁は水軍の統率に長け、かの赤壁の戦いでも水軍都督を務めているのであえて曹操に口を挟まなかった。

 驚いたのは副将龐悳の行動である。背中に棺を背負っている。

 「この棺には必ず逆賊関羽を入れてご覧に入れます。武運つたなく敗れたときは、それがしがこの棺に入ります」

 龐悳の目は血走っている。彼は元々劉備の部下である馬超の配下であったから、裏切りを懸念する声があった。それを払拭したかったのである。

 (出陣にあたって不吉な……)

 合理的な思考の曹叡は、龐悳の決意は軍に良い影響を与えないととった。

 八月になった。雨はまだやまない。

 「し、七軍が水没した?」

 普段大声を上げない曹叡が、秦朗の報告に動転したような大声を上げた。

 「はい……于将軍の陣に漢水の水が氾濫し水没、于将軍は関候の捕虜に、龐将軍は降伏を拒み斬られた模様です」

 数万の将兵も捕虜となったという。降伏した于禁の絶大な名声は地に堕ち、関羽に捕らえられても降伏を拒んで斬られた龐悳は皆に讃えられているという。

 「そ、それは逆だ……副将の龐将軍はなぜ出陣にあたって于将軍に船を用意するように進言しなかった?

 そ、それに魏王も魏王だ。赤壁で水戦の辛酸を舐めていながら、于将軍に船を用意できるまで待たず急いで送り出した。

 そのような状態で于将軍は、数万の将兵の命を救ったのだから罪はない」

 それなのに曹操は、

 「余は于禁を知って三十年になる。危機に臨んで龐悳におよばないとは」

 と嘆息したと伝えられる。龐悳は北方出身なので水軍の用意に疎かったかもしれないが、曹操の于禁評もかなり辛辣ではある。

 関羽の軍は首都・許昌に向けて進軍を続けた。これによって魏の宮中も騒然となり、関中全体も震撼した。

 いそいそと書や衣服をまとめている何妟は、秦朗に会ったとき、

 「阿蘇、お前も急いだ方がいいぞ。都を移す話が出ている」

 「遷都するということかい?」

 「ああ、魏王もそのおつもりらしい」

 といって作業の手を止めると、

 「まったく、阿蘇の父親のおかげでおれたちも安心できないぜ……おっと、お前は関羽に捕斬される心配はないから、安心だろうがな」

 などと嫌味をいってきた。

 (関候に……父になるはずだった人に逢える)

 刹那の想いが秦朗の頭をよぎった。秦朗は秦宜禄も関羽も顔を知らない。ただ、関羽は背が高く偉丈夫で、顔が棗のように赤く、見事な髭を蓄えているというのを聞いたことがある。

 関羽は建安五年(二00)、曹操が袁紹と戦った「官渡の戦い」には曹操陣営にいたことがあり、一度母の杜氏に挨拶に来たことがあるという。

 なんでも仕えている劉備とはぐれ、一時的に曹操に仕えてはいるが、劉備の家族を同行しており、いずれ曹操に御恩を返せばまた劉備を追うという。

 官渡の戦いの前哨戦であった白馬の戦いで、関羽は袁紹軍の先鋒・顔良を数万の軍の中に見つけ、ただの一騎で突入すると、手には顔良の首を携えていた。

 これは関羽の親友でともに先鋒を務めていた張遼が証言しているので、瞬く間に関羽の武勇は伝説となった。

 もちろん後年、秦朗はどのように関羽が数万の敵軍の中から顔良を打ち取ったのかを知りたくて、その方法を曹叡に訊いたことがある。

 「か、関候の勇気絶倫なところは、一人で顔良の軍に向かったところだ。

 一騎で敵軍から向かってくる将は、ふ、普通軍使と思われる。し、しかも袁紹の陣にはそのとき劉備がいたのだから、顔良は『関羽は劉備に会うために投降してきた』と考えたのであろう。

 そ、そこで関候を自分の居所に通したところを、おもむろに関候が顔良の首を刎ね、疾風のごとく陣を後にしたのであろう」

 タネを明かされてみればなるほど、とうなるばかりである。

 程昱は「関羽張飛は兵一万に匹敵する」と称したというが、間違いではない。

 関羽はそれで曹操への義理を果たしたと考えたのであろう。曹操からの贈与品すべてに封をし、劉備の元に帰っていったのである。

 曹操はそれをおおいに感じ入り、「追ってはならぬ」と各地に触れを出したという。

 (二人の父は典雅なひとである)

 秦朗は涼風を感じたような心地よさにひたっていた。しかし、今の関羽は魏国の首都を急襲する猛威である。

 秦朗が曹叡の部屋を訪れると、曹叡は兵書を書写しているところであった。

 「武徳王、首都移転の話は聞いておられないのですか?」

 秦朗の問いに、曹叡は落ち着いた態度で、

 「あ、ああ。あれはないようだ」

 と答えた。

 重臣の司馬懿が、

 「于禁は天候のために敗れたので、関羽に戦略で負けたわけではありません。

 劉備と孫権は荊州をめぐって不和なので、ひそかに孫権に使いをやり、関羽の背後を襲えば江南の地を封ずるとそそのかせばよろしいかと」

 と献策し、徐晃を荊州に派遣しつつ、両作戦を推進することに決したという。

 (孫権か……)

 秦朗は、江南の地に割拠するこの英雄の粘着質な性質が好きになれない。赤壁の戦いでも黄蓋を使って曹操軍を欺いたことがあり、どのような薄汚い手を使っても平然と喜んでいる。

 「わ、私は、孫権を好かぬ」

 曹叡がぽつりとつぶやいたことばを秦朗は聞き逃さなかった。

 「か、関候への対策は徐将軍で充分と思われる。し、しかし孫権への策謀は明らかに蛇足だ。後に仇なすことにならねばよいが」

 はたして雨が止んだ十月、孫権は劉備との同盟を一方的に破棄し、将軍の呂蒙を江陵に攻め込ませた。

 江陵の守将だった縻芳は、関羽に日頃つらく当たられていて恨みに思っていたので、敵将の呂蒙に戦わず降った。

 公安の守将である士仁も同様の理由で降伏したので、気づけば関羽の軍は魏軍と呉軍に南北で挟撃される状態になってしまった。

 関羽は樊城の囲みを解き、撤退していった。

 魏では魏王曹操以下、群臣皆が胸をなでおろし、数ヶ月の緊張から解放された。

 (関候は無事に益州に帰ることができたのだろうか)

 秦朗は、敵将を撃退できた喜びとは内心別の境地にいた。母の杜氏から聞く、関羽の弱き者への優しさ、明るい笑い方を思い返して、胸の鼓動は不吉さで常に落ち着かなかった。

 年が明けて寒さがいや増した頃、喜怒哀楽をあまりおもてに出さない曹叡が、めずらしく暗い表情で秦朗のもとにやってきた。

 「か、関候が呉軍と戦って亡くなられた」

 「そうでしたか……」

 十一月に関羽は麦城という小さな城に籠ったが、衆寡敵せず秘密裏に益州に向けて脱出し、途中臨沮という土地で、待ち受けていた呉の馬忠の軍と遭遇し戦死したという。

 秦朗の実父の秦宜禄は張飛に殺され、今次に父になるはずであった関羽が呂蒙に殺された。乱世に武将を父にもつことは、このような運命から逃れられない。

 曹叡は秦朗の肩に手を置いた。

 「む、無念であろうな。ぎ、魏王のもとに関候がおられるが、会いに行くか?」

 「関候に会いに?」

 「そ、孫権が慇懃無礼にも関候の首級を魏王に贈ってきた。

 ぎ、魏王から『阿蘇にも声をかけてきなさい』とのおことばを賜った」

 義は君臣、私は兄弟という間柄の関羽をペテンにかけて殺した孫権を、劉備は許さないであろう。そこで関羽の首を曹操に送れば、劉備の怒りが曹操に向くとふんだのである。

 曹操のいる宮中の一室に二人で向かうと、そこには曹操だけが喪服を着て棺に向かっていた。

 「元沖も阿蘇もよく来てくれたな。雲長と別れをしようと思うてな……」

 曹叡と秦朗が開けられた棺を覗くと、なんと関羽の首級の下に彩色され鎧を着せた木像が足してあり、化粧が施された首級との境目も首巻でわからなく細工されている。

 「お、おお」

 「まるでご存命かのような……」

 秦朗だけでなく曹叡まで目に涙をたたえている。

 「碧眼児め、雲長の首を送るだけにとどまらず、帝位に上れとたき付けてきおった……はは、わしを炉の上に座らせようとするつもりらしい」

 孫権の目は碧眼(緑色)だったので、碧眼児とよばれている。

 (義父上、お心遣いありがとうございます)

 秦朗はあふれ出る涙を拭おうともせず、曹操の詩を感じさせる弔いに心中で感謝した。

 「歳をとったなあ、雲長。髪も髭もたんと白いものがまじっておるではないか。

 聞けば六十だったそうだ。わしも六十四であることを思えば、お互いさまであるな」

 関羽の首は、木像と一体化しているところもあいまって、生けるがごときである。白髪が多く混じっているとはいえ、葬儀官がみごとに整えた髭は「美髯公」と異名を取った馬上の雄姿を彷彿とさせる。

 「関候、無念でございましたでしょうな……」

 秦朗は涙声でそっと関羽の首に語りかけた。

 「阿蘇よ、そなたの父になるはずであった雲長は、まこと天下一の武将よ。

 薄汚い孫権は劉備の怒りをわしに向けようとしているようだが……何、わしは雲長を諸侯の礼をもって葬るつもりだ。

 そして雲長の霊力は、元沖や阿蘇の時代の魏国を守るであろう」

 そう宣言するかのようにいって聞かせた曹操がにわかに亡くなったのは、関羽の死後約二週間が経った一月二十三日であった。

 関羽を騙し討ちにした呂蒙もまもなく病で亡くなった。

 迷信が信じられていた当時、彼らの死は「関羽の祟り」だと畏れられた。

 「ぎ、魏王は関候に礼をもって葬られた。ほ、本当の祟りに遭ったのは呉の呂蒙だけさ」

 曹叡はぽつりと秦朗に心情を明かした。

 「これで魏王の葬儀が一段落しましたら、例の儀式をすすめるのでしょうか」

 秦朗が声をひそめた。

 漢から魏への禅譲である。

 漢の献帝は曹操の生前から、禅譲を何度か申し出ていたらしい、と曹叡はいっていた。

 その都度曹操は、

 「そのような畏れ多いことを。臣は周の文王の待遇を与えられただけで充分でございます」

 と断り続けた。献帝としては黄巾の乱ですでに死んでいた漢という国を正式に葬送したかったのであろう。ちなみに周の文王は死後子の武王の代になって、殷の禅譲を受けている。

 言い換えれば、息子の曹丕にならば皇位を譲ってもらっても結構です、という意味である。

 「み、帝もやっと父に天下をお譲りできることに、お、お心を安んじておられると思う」

 曹叡の表情は明るい。後漢末、董卓に強引に帝位に就けられ、曹操の庇護を受けるまで献帝は嵐に浮かぶ小舟のような存在であった。

 (天下をあるべき状態に正す)

 これが献帝の後漢王朝最後の皇帝としての役目であった。

 十月、曹丕は献帝から帝位を禅譲された。

 漢は四百年の歴史に幕を閉じ、魏の皇帝が即位した。

 献帝は山陽公に封じられた。曹操は諡なして魏の武帝とされた。

 曹丕はまだ三十五歳。魏の天下は盤石だとおもわれたのだったが―。

         ※

 そのわずか六年後曹丕が崩御し、平原王だった曹叡が践祚すると誰が予想したであろう。

 五月十七日、即位の儀式が行われ、曹叡は魏の二代皇帝として即位した。

 「陛下こちらへ……」

 秦朗が宮中の官を代表して、曹叡を壇上に導く。曹叡は前を向いたまま、

 「あ、阿蘇、ふ、二人でここまできたな」

 と小さくいった。

 「はい」

 「わ、われらの時代ぞ」

 え、と秦朗は思わず声を出した。ふだん大言壮語することのない曹叡が強めの発言をしたからである。

 壇上に昇った曹叡を見た群臣は思わず感動の声をあげた。

 背中まで伸びた艶やかな髪に感動したのではない。曹叡の白磁のような美しい尊顔、堂々とした立ち居振る舞い、それを引き立てるきらびやかな装束に、魏の未来を見たからである。

 「皇帝陛下、万歳!」

 どこからか曹叡を讃える声が式場内に響く。

 「皇帝陛下、万歳!」

 波のようにその声は即位の儀の式場にこだましている。

 (これからが、われらの時代)

 秦朗は壇下で美しい皇帝に見とれていた。

 曹叡二十二歳、秦朗二十八歳の若さであった。


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