三日目 桜の場所
「ご馳走さまでした。」
紅時は女の子に云われた言葉に微笑んだ。
「お粗末様でした。」
皿を片付けている紅時の耳に、秋が囁いた。
「桜を見せて上げるよ。啓之助に、桜の事は伏せて、子供達を送ると云ってくるないか……。まだ、少女も寝ているから、残ってくれと云ってくれれば、大丈夫だ。」
「しかし、終が御昼寝をしています。私が居る時に寝て仕舞いましたから、起きたら泣き出します。」
「子供の歩く範囲だ。直ぐに戻って来れるだろう。其れに、此の子達の隠れ家だ。ならば、余計に近いはずだよ……。」
「しかし……。」
紅時の歯切れの悪い返答に困っていると、女の子が口を挟んだ。
「何時も美味しい握りをくれる御礼がしたかったの。一緒に行こうよ。」
「桜が咲いてるよ。」
女の子達の誘いを無下に断れず、紅時は首を縦に振った。
「分かりました。婆に話して来ます。」
紅時は食器を下げて、部屋を後にした。
支度を済ませた紅時が来る迄、子供達と音読をして茶を濁した。
習字をする迄の時間は掛からないと判断し諦めた秋に、反して子供達は進んで勉学に励む。
文字書き算盤が出来れば、口減らしにあっても丁稚として生き残れる。子供なりの知恵である。
特に算盤は女の子の中でも、人気の学問だった。
女郎屋に売られるより、下働きの方が生き残れる唯一の手段だった。
紅時も自分の身の上を知られない様に、注意はしていたが、口に戸は立てられない。
京吉原遊郭に居た時の話を女郎屋に売られる予定の子供には話して聞かせた。
瘡毒の話しは、詳しく症状も潜伏期間も伝えた。
親御にも文で伝えたが、銭に目が眩んだ親には伝わらなかった。
「婆と啓之助さんは家に残るそうです。いつ頃行かれますか……。」
紅時は秋に話し掛けると、女の子達が目を輝かせた。
彼女達は、直ぐに向かいたい様だったので、秋は本を閉じた。
「連れて行ってくれるかい……。」
「もちろん。」
二人の声は同じ口調で響いた。
「先生。こっち、こっち。」
女の子の一人が腕を引っ張る。片方の子が三人分の本を元の場所に戻した。
「余り時間がないのだけど、良いかしら……。」
「大丈夫だよ。先生の家の裏手だから、直ぐに帰って来れるよ。」
大人二人が顔を見合せた。桜が咲いている等、聞いたことが無いのだから当たり前である。
女の子達は、家の奥の裏手に秋と紅時を連れて行った。
確かに、木で長椅子を作ってある。
「何処だい……。」
秋が尋ねると、躑躅の木で塞がれている斜面を指差した。
「黒猫が案内してくれたのよ。」
「奥に開けた場所があるの。其所に桜がある。」
女の子達は躊躇いもせず、躑躅の隙間に分け行った。
秋と紅時も続く。
急な上り坂だが、体を少しだけ使って登って行く。
木々で人が歩いている等、分からないものである
少し登ると、開けた場所に出た。
「うわあ……。」
秋は言葉を飲み込んだ。
立派な桜ノ御神木が、満開である。
下の細い枝が切られて居るのが、解った。
「先生。立派でしょ。」
少女が自慢しながら云っている。
奥を覗くと、古びた神社があった。人の手が入って居ないので、藻が彼方此方へとある。
「凄いですね。桜ノ木が御神木等、珍しい。でも、誰かが折っていて罰当たりですよね。」
紅時は残念そうに枝を見た。
「君達が枝を玄関に置いたのかい……。」
女の子二人は顔を横に振る。
「此の場所は誰にも教えてないから、私達しか知らない筈だわ。でも、枝は折ってないよ。」
「良かった。木が可愛そうだから、辞めて欲しかったのだよ」
紅時が、神社の方へ寄って行く。
近付くと古い感じだが、しっかりとした物だった。
紅時は藻を取り除き、石を磨いている。破れている布を取り除く。
「布を御貸し下さい。明日には洗い、作ろって来ますので……。」
「何を奉っているか分からないもの神様に、肩入れしない方が良くないか……。」
「子供達を守ってくれている神様だから……。嫌な感じもししないから大丈夫だと思うわ。」
其の近くで舞台のある木製の建物は、綺麗な物だった。
屋根と柱しかないのが、古い建物だと云っている様だ。
「此の場所に座って居ると必ず黒猫が、出てくるのよ。先生の御握りを少し上げると喜んで、食べていたわ。」
「此の頃、黒猫の姿は見た事が、ないわ。何処に行ったのかしらね。」
女の子達は楽しそうに話している。
秋と紅時は顔を見合せた。
「黒い子猫の事かい。」
「そう。真っ黒なの。可愛いけど、撫でさせてくれないの。逃げてしまう。」
「やはり、我が家に居る子猫の事だね。今日は見ていないが……。分からないものだな。気にしないと猫の事等、忘れていたのに……。」
紅時が考え込んでいる。
「私も幼い頃、此所で、黒猫に食べ物を渡した事があるわ。初めは家の庭に現れて、懐かれてね。此の神社迄、案内してくれたわ。まだ、子猫だったから、其の子猫の子孫かしら……。確か、桜が咲いている季節だったわ。」
「紅時は、神社を知っているのか……。なら、話せば良かったものを……。」
「私にだって独りになりたい時だってあるのですよ。まだ、幼さなかったから、姉さん達の事を思い出していたりしたのよ。秋さんほ私が泣くと側を離れなかったでしょ……。」
「当たり前だ。独りにさせる理由がない。」
紅時が憮然とした。
「なら、祝言の時、誰も人を呼ばなかったのですか。」
「紅時は幼い。御披露目しても誰も妻だと思わないだろ。だから、盃だけにしたのではないか……。」
「村の人に妻だと認知して欲しかった。私が身籠っても、秋さんに会いに来る村の娘は多かった。」
「何を云っている。品種改良の作物の話や、村に水を引く為の相談をされていたのだよ。」
紅時は嫌な顔をしながら、溜息を吐いた。
「彼女達の中に恋仲になった者もいるでしょう。明らさまに、妻の座を狙っている者も居た。」
秋が、怪訝な顔をする。
「止さないか、子供達の前で……。」
女の子達は笑いながら、手を降った。
「先生が若い頃、村の女に手を出さなかったのは、有名な話だよ。紅時さんがくる前から、狙っている女が一杯居たけど、誰にも靡かなかったって話でしょ……。」
「皆、他の村人と所帯を持ってるから、許して上げなよ。」
秋が余計に嫌な顔をした。
「女郎としか遊ばなかったって母ちゃんが云ってた。」
紅時は呆気にられた。
「嘘……。」
「紅時を探すので一杯一杯になってたに決まっておろう。作物も作らなければならないし、冬場にしか自由が、効かなかったのだよ。」
「でも、女郎って……。」
「仕方あるまい。俺だって男なのだから……。」
紅時は複雑な表情であった。
其の時、終の泣く声が聞こえて来た。泣き叫んばかりの声。
母屋から聞こえてくる。
桜が風にそよいでいたのを、確認してから、女の子達に御礼を云った。
「有り難う。連れて来てくれて……。」
「先生。此の場所は内緒だからね。」
秋と紅時は頷いた。
女の子達は微笑みながら、来た道を帰って行く。
「もう、良いだろう。家に帰ろう。」
紅時に秋が、手を差し伸べた。
彼女は何も云わず、手を乗せた。
読んで頂き有り難う御座います。