一日目 桜ノ御返し
秋が先に風呂から上がると、終を連れて紅時に渡した。
「誰かいらっしゃったみたいですので、先に部屋へ御戻り下さい。」
「否、俺も竈の所に居るから、終に着物を着せよう。」
紅時が困り眉になっている。
「どうせ、此の時間に来る客等、二人以外居ないだろう。」
終を素っ裸にして、湯船の紅時に渡す。
「では、早めに上がりますね。」
紅時は微笑んだ。
御湯に浸かった終は、喜んで遊んでいる。
小屋から出ると、既に客人は立っていた。
竈から離れ、水の流れる音が聞こえない所に移動する秋。
紅時の裸体の姿を連想させない為、走って入り口迄行ける場所にした。目も届きやすい。
「此れ以上、近付くな。一週間は掛かるのでは、なかったのか……。」
「苗の発育が見たくてね。やはり、初めての試みだ。観察したくてね。籾から選別した大切な苗だ。硝子で出来た植物園の第1号だからね。」
「元から、稲作が伝来した土地柄だ。苗の発展は婆の方が詳しい筈だが……。啓之助もそう思うだろう……。」
啓之助が頭を掻きながら、頷いた。
雑談をしながら、酒を立ち飲みしている二人の話題は桜の花の話しになった。
「確かに、満開の桜はまだ早いな。此処より温暖な琉球王国なら考えられるが……。桜の木がない。」
「其の上、山上なら可能かも知れないが……。まだ咲き始めなら分かる。其の枝は、満開だったのだよ。」
秋が溜息を吐く。
「時間を越えてか……。紅時に異変はない。毎日順調に畑仕事をしているさ。」
「また、何かあったのか……。」
「俺の周りでは何もない。大戦だから、伊藤家の方が揉めているだろう……。」
「実家に等帰るわけなかろう。兵糧の為の穂量を増やす苗だぞ。軍事に直結してる話しに父上が、口出すに決まっておろう。日露戦線は、開戦中だ。北国側から防衛戦なる。本土上陸はしないはずだが、紅時さんの記憶が正しいならばだ。」
秋が溜息を吐きながら、呟く。
「君死にたもうなかれか……。」
「何だ、其れは……。」
「まだ、流行ってなかったか……。確か、歌人、与謝野晶子の詩だよ。徴兵も始まったから、弟の安否を願う詩だ。まだ、我々も来て居ないが、農家の次男等先に戦地に送られるだろうな……。」
「伊藤家は、権力を使って徴兵も逃れる気らしいぞ。金を積んでるらしい。」
「継一は、銭儲けが上手くなったものだ。甜菜も作らされてる。砂糖黍は断ったよ。歴史が変わってしまうよ。全く……。」
「甜菜……。なんだ其れは……。」
「砂糖を作る原材料だよ。」
「其の様な高価な物迄、父上は商売に何を求めているのだ……。」
「啓之助の様に植物が好きなだけではないな。俺は芋と南瓜を強くするよ。何処でも栽培出来るだけ強い。必ず役に立つだろうさ。」
二人が酒を煽ると、紅時達が出て来た。湯上がりでほんのり赤い肌をしている。
湯気が肌を伝って、空迄上がっている。
少しづつ近付く紅時の髪は乱れている。
「御前は見るな。」
秋が頭を叩くが、啓之助は、緩やかに避ける。
「久しぶりです。紅時さん。」
脚が浮いて啓之助を運ぶ。
「一週間も経ってないだろうが……。」
秋が近付くのが早い。だが、何時もの癖で、終を抱っこしてしまう。
「だから、御前が触るな。」
啓之助が動かした手を、秋が叩く。秋が居る事を無視して、啓之助は続けた。
「今日は、種を持って参りました。野苺を変種にしました苺の種です。甘い物が好きな紅時さんは喜ばれると思いましてね。」
「帝都大で栽培法している原種ですね。私も初めて見ました。ジャムにして食べると美味しいですよ。」
「英国での食べ方ですね。楽しみです。」
「啓之助も何故か頭数に必ず入れるよな……。紅時は優し過ぎないか……。」
紅時は微笑んだ。
「だって、人数が多い方が楽しいですものね。そうだ。桜の枝が敷居の近くに、今日あったのですよ。今年は御花見に行くので、塩漬けにしょうと思うのですが……。」
秋が嫌な顔をした。
啓之助を、連れて行きたくは無かったのだ。
三人は屋敷に向かいながら、紅時が慌てて竈の火を止めに行った為、秋と啓之助の二人になった。
「家族の行事だ。遠慮してくれ。」
「嫌だね。折角の紅時さんの晴れ姿だ。見たいに決まってる。其れに、塩漬けは妻の大好物だ。」
「妻子が泣くぞ。」
「明治時代で貞操観念が高いのは、武士だけさ。もう、そんな物はないのにな……。身分制は廃止になったが、戸籍だけの事よ。馬鹿らしい。」
「継一が泣くぞ。」
「馬鹿らしい。父上が一番、頭を飛び抜けた考え方してるぞ。今頃、此れから来る世界大戦に備えた備蓄を始めてる。梅干しの畑を買い取っているさ。其の小作人もな……。」
「未來を変えない程度にして欲しいな。」
紅時が戻って来ると、四人は家に入った。
婆が炊事場で料理をしていた。
客人をもてなそうとしている様で、忙しくなく動いている。
「坊っちゃん。雑穀米の御握りにしてみたのですが、如何ですか。」
盆の上には、御握りが数個乗っている。
終が手を伸ばすので、其れを二つ持った。一つを与えると終は貪る様に食べている。
「終坊っちゃんは、御二人にが居る時の方が良く食べられますね。」
そそと笑っている婆の後ろで、紅時が竹の包みを取り出している。
「桜の御礼に、二つ貰っても良いかしら……。」
「其の様な持った得ない事をしなくても、宜しくないですか……。」
「誰が置いた物かも解らないのだよ。狸に食われるだけではないかい……。」
「では、私の分を包みます。」
二つ御握りを包むと紐で結わく。皿に乗せて、玄関の桜の木が置いてあった所の端に置いた。
玄関の引戸を引いて、閂を閉じる。
「桜ノ花を見せてくれた。御礼ですから、気持ちだけでも受け取って欲しいです。」
紅時は微笑んで、終の頭を撫でた。
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