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現在とは違う世界線の日本。
古風な雰囲気の喫茶店。
柔らかな春の陽が差し込む窓際席から外を眺めれば、軍装に身を固めた青年たちが靴音を合わせ、整然と行進していく。
沿道の市民たちの中には、威風堂々とした若獅子たちを讃え、興奮ぎみに激励の声を飛ばす者も居た。
軍人たちの列を見送る陸奥陽之助の表情は暗い。
しかし彼の憂鬱、否、もはや苦痛と言ってもよい心理状態の原因は窓の外には無かった。
23歳。
華奢で、しなやかな身体。
抜けるように白い肌。
青い髪。
ほとんど女性のような、整った顔立ち。
かわいらしい唇の左下にはホクロがひとつ。
左の耳たぶには、涙型のチャームが付いたチェーンピアスがぶら下がっている。
長く美しいまつ毛の下の瞳はどんよりと曇り、生気を失っていた。
着物姿の陽之助の向かって左側の席に陣取った親子。
若い母親が、まだ小さな男の子を叱る甲高い声に心の奥底から嫌悪と恐怖が湧き上がってくる。
「男なら、しっかりしなさい!」
「泣くな!」
次々と発せられる罵りに、陽之助の全身が強張る。
陽之助の父は軍部の要職にあった。
兄もまた軍人である。
2人の優秀な偉丈夫の存在。
それが陽之助を苦しめた。
当然、陽之助も2人のようにあるべきという、母の妄執。
むしろ陽之助は母の求める「男らしさ」から、どんどん離れていった。
結果、18歳で父と母は陽之助を見放した。
兄のみを息子と思うと決めたのか、遠縁の夫婦に陽之助を押し付けた。
名字も母方の祖父のものを名乗るように改められた。
それが現在の陸奥陽之助だ。
幸いにも陽之助を預かった夫婦は人が良く、親との確執のため人に冷たい態度を取りがちな、この複雑な青年を広い忍耐を持って見守り、大学にも通わせてくれている。
陽之助はそのこと自体には深い恩義を覚えてはいたが、やはり夫婦に父母との繋がりがあると考えると、素直に心を開く気にはなれないのだった。
さて、延々と続く若い母親の息子への怒号は、いよいよ陽之助の苛まれた過去の記憶と混じり合い、毒のように全身を犯し始めた。
陽之助の呼吸が乱れる。
胸が痛む。
持病の喘息の発作だ。
視界がくらみだす。
良くない連鎖。
陽之助はテーブルに置いた巾着から、常に持ち歩いている喘息薬の小型吸引器を取り出した。
震える手で、口元に運ぶ。
吸引器がポロリと落ちた。
テーブルで跳ね、床に転がる。
陽之助の顔は喘息と焦りの両方で青くなった。
落ち着け、落ち着けと心中で唱えるが、頭痛と眼のくらみ、呼吸の胸苦しさがそれを吹き飛ばす。
テーブル上のコーヒーカップを倒し、中身をこぼしてしまった。
そのまま、床の吸引器に向かって右手を伸ばしつつ、横倒れになっていく。
椅子からずり落ち、あわや床に激突する寸前。
横合いから、ぬっと差し出された逞しい腕が陽之助の細身を受け止めた。
すでに若い母親が息子をなじる声は遠くなっているが、耳元に突如呼びかけてきた「おい、大丈夫か?」という男の低い声は、いやにはっきりと聞こえた。
限られた視界の中、大きく武骨な指が吸引器を自分の口に入れるのが見える。
シュッ、シュッという音と共に薬が噴射された。
しばらくすると呼吸のつらさが和らぎ、他の不調も消えていった。
発作によるパニックが収まってくる。
陽之助を抱き締める逞しい両腕が、身体を席に戻した。
隣に座った何者かが「大丈夫か?」と、もう一度訊いた。