09.スペシャルランチ
前進することで後退してしまうことがある。
難しい話ではない。俺に起きたこの悲劇はひどく単純で、誰にでも起きるであろう不運だった。
屋汐八々と出会った、あくる日の昼休み。
俺の目の前に広がっている光景は、大勢の生徒が押し寄せギュウギュウ詰めの学食だった。おかしい。崔玉高校の学食は決して狭くない。
比較的に来賓を迎える機会の多いこの学校は、外面を気にしてか数年前に校舎や学食の大規模な増改築を済ませたばかりだ。白を基調として造られた空間は、学食というより広大なカフェテリアと例えるのがふさわしい。
まさに閑静で授業をサボるのにも最適な環境だった……。
しかし、今はどうだろう。
かつて孤独な俺を優しく迎え入れてくれた学食くんは、少し見ないうちにアメ横の菓子の叩き売りがごとく喧しさで生徒たちを呼び込んでいるじゃないか。
「ざっけんじゃねえッ! この席は俺らが先に取ったんだぞ!」
「てめえらこそ学食で弁当なんて広げてんじゃねえ!」
元気の有り余った生徒たちが目の前で喧嘩を始めた。
このようにオシャレな学食くんが豹変してしまった原因は、どうやら俺が持っているトレーの上に乗っかっているらしい。
「ええっ!? スペシャルランチ、頼まないのかいっ!?」
──数十分前、いつも通りカレーライスの食券を突き出した俺に、学食のおばちゃんが発した第一声である。
「たったの限定10食! トリュフと生マッシュルームのクリームパスタに、レタスとオニオンのレモンマスタードサラダ! こだわりのトマトスープにデザートまでついて、たったワンコインでご提供のスペシャルランチを……頼まないってのかいっ!?」
カウンター越しのおばちゃんがひっくり返るほど驚愕している。
……こんなクソうるさい学食のおばちゃん居たっけ? とりあえず、なんだろう……俺が買った食券握りつぶすのやめてもらっていいですか?
「な、なんでそんな滅茶苦茶なメニューが学食にあるんですか?」
俺は困惑しながらもクシャクシャに握りつぶされた食券の皺を伸ばす。
状況を見失っている俺を見て、学食のおばちゃんは更に追撃をしかけてきた。
「あんた月一回のスペシャルデーを知らないのかい!?」
「すぺしゃるでー?」
「この学食では月に一回、限定で超高級なランチを提供する日があるんだよ! 先月が本格中華で、今日が本格イタリアンランチなの!」
おばちゃんが学食の入り口を指さすと、なるほど普段よりも生徒の入りがいい……というより、大勢の生徒が急いだ様子で入場してきた。
なるほど。半不登校の俺は奇跡的にこのスペシャルデーとやらを入学から今まで全回避してきたらしい。
「……皆スペシャルランチを狙ってるんだよ! あんたも折角早く並べたんだから頼まないと損だって!」
早く並べたというか、授業サボってただけなんだけれど。
「……でもカレーが」
「カレーなんていつでも食べれるじゃないの!」
それってあなたの感想ですよね?
「今からパスタ茹でてあげるから、列はずれて横で待ってなさいな!」
……と、おばちゃんを論破できることはなく。
結局、謎の押し売りに負けてしまった俺は、その後パスタもろもろが出来上がるまで10分以上待たされることになった──。
かくしてスペシャルランチをゲットした俺は、ご想像の通りの状況に陥っている。
「……座れる席がない」
見渡す限り人、ひと、ヒト。
スペシャルランチをゲットできなかった生徒にも、今日は全品100円引きで提供というサービスもあり、その客足はまったく衰える気配がない。
まばらに空いている席もいくつかあるが、いずれも集団が占拠しているテーブルにポカンと空いた一席なので、俺みたいな部外者が割って入った日には「うぇええええい! ……あ、あ、すんません、どぞ」みたいな感じで腫れ物扱いを受けてしまうに違いない。
利口ぶったヤツはニチャっと笑いながら「常考www先に席確保しとけよwww」とか言ってるんだろうなあ!?
しかし、俺からそんなチー牛にひと言ビシっと。
Exactly……おっしゃる通りでございます……!
どちらにしろこのままじゃ拉致があかない。
狙うはカウンター席。かなりマナーは悪いが、食べ終わりそうな生徒を見定めて、近くに張り付いておくしかないだろう。
意を決してカウンター席付近に移動しようとしたその時、背後から聞き覚えのある声が俺を呼び止めた。
「あっ! 荒ら……じゃなくて、トムくんだ! 昨日ぶり!」
この騒がしい学食内でも、たやすく耳に届く声。
間違いない。振り向く前から確信していた俺は、少し戸惑いながらも声の主の名前を呼んだ。
「……屋汐か」
元助っ人女子生徒、屋汐八々。
思ったよりも早い再会を果たしてしまった彼女は、俺の顔を覗き込んでにへっと笑った。