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12.暗闇の中、彼女は叫んだ

 屋汐は言っていた。私の夢をよく思わない人たちがいる。

 彼女が発したたった一言の悩みが、今、俺の目の前に実体となって姿を現していた。


 『屋 汐 八 々 は 枕 営 業 す る ビ ッ チ !』


 校門脇の塀に赤いペンキで書きなぐられた文字。

 見つけた俺は状況が呑み込めず、少しの間、呆然とその場で立ち尽くしてしまった。


 「屋汐……これは一体どういう……」


 最近知り合ったばかりの、少し抜けている女子生徒。

 初対面の男子オレと二人きりなのに無防備だった。声がめちゃくちゃデカかった。おせっかい焼きのくせに、結構ポンコツだった。俺に初めて名前を教えてくれた時、意外と臆病者だと分かった。


 それが俺の知っている屋汐八々だった。

 そんなごく普通の女子高生が、一体どうしたらこんな巨大な恨みを買えるんだ?

 考えろ、一体誰が? 何の目的で? 

 憎悪、嫉妬や羨望、この落書きにはどんな負の感情が込められている?


 「……え、なにあの落書き? なんか悪口書いてあるよ?」

 「うわ、ひど……屋汐ってウチの生徒かな?」


 立ち尽くしていた俺の背後で、誰かが落書きを見つけてコソコソと話し始める。

 まずい。午前七時、部活の朝練がある生徒はどんどん登校してくる時間だ。もし、この落書きが大勢の目に触れてしまったら、屋汐は……あの臆病者はきっと壊れてしまう。


 「ねえ、とりあえず写真撮っとかない?」


 野次馬がひとり、ふたりと増え始めた。彼女たちは今にも塀に書き殴られた落書きをスマートフォンで撮影しようとしている。



 なにしてんだ。


 …………動け。


 ……………………動けっ!



 俺の本能が、俺自身に必死に訴えかけている。

 しかし、思考がついていかない。本能とは裏腹に、俺の頭の中はまるで霧がかっていて、ただただ無気力で無関心な言葉が反芻していた。



 なんで俺が焦ってるんだ? これは屋汐の問題だ。俺が首を突っ込むような問題じゃない。俺と屋汐の関係は、所詮しょせんそんなもんだ。第一、俺にはこの場を穏便に済ませるような方法は思いつかない。大丈夫だ。なにも事情を知らない俺がでしゃばらなくても、屋汐には傍で支えてくれる友達がいる。それなら俺は安心して、こんな落書き見て見ぬふりをしてればいい──。



 「私……叶えたい夢があるの!」



 ──霧がかった俺の頭の中に、突如、屋汐の声が響き渡った。

 暗闇に晴れ間が差した。そんな気がした。



 「……お前ら勝手に撮ってんじゃねえっ!」



 気が付いた時には、俺は野次馬のひとりが構えていたスマホを右手で払い、弾き飛ばしていた。

 スマホがガシャンと地面に落下する音で、やっと俺は我に返ったのだ。


 (あーあ、なにやってんだ俺……)


 俺の咄嗟の暴走を客観的に非難する、もうひとりの俺が心中で呟いていた。

 まあ、今更考えたってしょうがない。今から俺は、きっと自分のポリシーに反した行動をとってしまう。


 「なんだ……その、ごめん!」


 おびえている野次馬女子たちに勢いよく頭を下げてから、俺は校内の花壇に向かって急いで走り出す。

 目的は昨日裏番長から渡された茶色のペンキである。塗料の剥げかけた花壇の柵を塗りなおすためのペンキだったが、今はとことん悪用させてもらおう。

 目的のペンキ缶をかっさらうと、俺はさっさと校門へとんぼ返りする。


 (落書きを見たのはまだ数人のはず……間に合え……!)


 俺は走りながら使いかけのペンキ缶を強引にこじ開ける。ようやく校門脇の塀にたどり着いた俺は、その中身の茶色のペンキを豪快にぶちまけた。その醜くくこびれついた落書きを上書きするように。


 「……これは説教ですまないだろうなあ」


 たった今、登校してきたであろう集団が、俺の背中と茶色のペンキにまみれた塀を見ながら噂話をしている。

 お前ら、精々、その噂を広めてくれよ? じゃないと骨折り損のくたびれ儲けだから。

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