*5* サラダはランチになりません。
目前に控えた夏期休暇に浮かれる学園内の陽気さとは無縁に、今日も今日とて二人きりの侘しいランチタイム。前回のこともあってランチタイムには心がささくれ立つわね……。
あの屈辱に何も言葉を発せなかったことも、取り巻き筆頭としては悔しいし、せっかくの楽しい時間が台無しにされないように気を張るけれど、ソフィア様が「あなたと二人の時くらい、肩の力が抜きたいわ」と仰って下さってからは、あまり気にし過ぎないことにしている。
――たとえここから少し離れた場所から賑やかな声が聞こえるとしても。私は信心深くありませんが、今夜から心をいれかえますのでお願いです神様。あの不届き者達のいる一帯にだけ、食中毒を流行らせて下さいませ。
食事の前にモゴモゴと呪詛を唱えていたら、それに気付いたソフィア様から「どうしたの?」と優しく声をかけられて、内心の汚い願いを追い払いながら「お腹が空きすぎてちょっと」と誤魔化した。
すると「あら、可哀想な子豚ちゃん。良いわ、早く食べましょう?」とこちらを気遣って下さる。あの憎らしい声が聞こえていないはずもないのに。
さて、そんなお優しい女神のようなソフィア様の持参なされるランチボックスの中身は、赤色に、緑色に、黄色。それら全ての配色が入っている食事は目にも身体にも美味しいのだと、うちの屋敷の料理長も確かに言ってはいたけれど――……。
「ソフィア様、今日のランチもまたサラダですか。二日くらいまでなら構いませんでしたけれど、これでもう四日目ですよ。昨日は私のランチと交換しましたけれど、いったいどうしたというのです? 流石にそれではウサギならともかく、人間にとってはお身体が保ちませんわ」
「いけないことは分かっているのだけど、なんだか食欲がわかないのだもの。でも昨日あなたが交換してくれた、厚切りハムのバケットサンドイッチは美味しかったですわ。ただ……家だと全く食欲がなくて。婚約破棄が目前の痩せこけた女なんて、きっとどんな殿方の目にも留まりませんわ」
「まさか、そんなことはありえませんよ。美人は少々やつれたくらいで価値を下げたりしません。むしろ薄幸そうなところが良いですわ! 放っておけない感じがして庇護欲がそそられます!」
心の底から精一杯の熱意を言葉にしてみたのに、ソフィア様は若干引きつった微笑みを見せて「そ、そう……クロエは物知りね?」と仰った。
けれどいくら薄幸そうで美しくなろうとも、夏の日差しが強くなってきたこの頃だと、栄養面の他に出来立てをお昼に届けてもらっていても食中毒の心配だってある。とはいえ、使用されている野菜はどれもレッドマイネ家の料理人の厳しい目を通過するだけはあり、一級品の輝きを纏っていた。
普段ならそこまで野菜に心を奪われない私でも、ちょっとだけ気になってしまう。おまけにサラダについているのは、特製ドレッシングとディップするためのソースが三種ずつ。しかも毎日違う味のものという手の込みよう。
それだけで舐めても、絶対美味しいに違いないソースとドレッシングに唾を飲み込みかけたその時、ここ四日間のお定まりになった「ああ、でも、なんだか……あなたの持っているランチボックスの中身なら食べられそうですわ。よろしかったら交換しませんこと?」と甘く囁くソフィア様。
今日の私のランチは若鶏の照り焼きサンドイッチと、彩り用の赤と黄の二色のパプリカを使ったピクルスだ。
……野菜は好きでも嫌いでもない。私は彩りとして付け合わせられているものでも、お皿の上にあるのならパセリだって食べるわ。味が口に残るのが嫌だから一番最初に食べてしまうけれど、絶対に食べる。
だからこそうちの料理人達は『お嬢様は本当に何でも美味しそうに召し上がって下さるから嬉しいです。こんなに料理人として働きがいのある職場はありませんよ!』と言ってくれるのだろう。大体の貴族家は料理に対しての注文が多く、好きなもの以外口にさせないところも少なくない。
しかし個人的には断然お肉が好き。けどこれ以上ソフィア様が痩せてしまっては、傷心中のお身体にどんな悪影響が出ないとも限らない。でもそうなると私のランチが昨日と同様に野菜一色になってしまう!
ああ、どうすれば良いの――……と内心葛藤している私の向かい側では、すでに交換するつもりであるのか、キラキラと輝く微笑みを浮かべたソフィア様が、こちらにご自身のランチボックスを押し出している。
……取り巻きたるもの、主人の健康管理もお役目の内、ですわよね……。
泣く泣く自分のランチボックスと交換したサラダのお味は、とてもとても美味でしたけれど、燃費の悪い私の身体では、午後の授業が終わる頃にはすっかり燃料切れになってしまい、放課後ソフィア様に連れられて迎えの馬車に乗る頃には、心身共にぐったりとしていた。
けれどそんな状態でも向かう先は自分の屋敷ではなく、レッドマイネ家。最近では家の者にも、学園ではなくレッドマイネ家に直接迎えに来るように言っているほどだ。
車内でソフィア様の好みの男性像を聞き出しながら、何故か私の好みの男性像にまで広がった会話は、馬車が停車したことで一時的に中断される。レッドマイネ家のお屋敷に到着したのだ。
通常馬車のドアが開いたら降りるための踏み台が用意されるのだけど、私はこの時が毎回一番緊張した。どうしてかというと、以前に家の踏み台を粉砕した経験があるからだ。
苦い記憶ではあるものの、まだ家の敷地内で良かったとソフィア様達に笑い話として披露し………翌週にはレッドマイネ家の踏み台は新調され、私が載ってもびくともしない堅牢な造りのものになっていた。
レッドマイネ家の方達の心遣いは大変ありがたい。けれどそのせいで重量の方は結構増えたものだから、その分心苦しさが増した。子爵家の私にここまで優しく接して下さるこの家の方達の期待に、必ず報いる働きをせねば!
そう勢い込んで……だけど空腹からふらつく足取りでいると、それを見たソフィア様がクスクスと楽しげに笑いながら「子豚ちゃんはお腹がすいているようだから、何か食べる物を用意をしてあげて頂戴」と傍にいる家人に声をかけて下さる。
学園にいる時とは違った寛いだ表情で「お兄様のお加減はどう?」と訊ねたソフィア様に向かい、このお屋敷の執事であるサンダースさんが「本日はお加減がとてもよろしいそうで、ああ、噂すればお出でのご様子でございますよ」と私達の背後を見越して笑った。
執事なのに思わずさん付けで呼んでしまうのは、老紳士な彼から漂う気品のようなもののせいかしら? そんな老執事の言葉に視線を誘導されるように振り向くと、そこには俄には信じられない光景が――。
「私が空腹からくる目の錯覚をおこしたか、暑さからくる暑気あたりをおこしているのかもしれないですけれど……もしや、オースティン様が青空の下を歩いていらっしゃる?」
夕方とは言っても、夏の五時台はまだまだ明るく、青空を背にしてこちらへと歩んで来る人物を見て思わずそう口走ってしまった。すると相手はさも心外そうに溜息を吐いて、青白い額にうっすらと浮かんだ汗を袖口で拭う。
私の隣でソフィア様が「お兄様、ただいま戻りましたわ。お加減は如何ですか?」とふわりと笑めば、一瞬だけこちらを睨んだオースティン様が「お帰りソフィア。そうだな、今日は割と調子が良い」と優しく微笑み返す。
雲一つない夏の青空と由緒正しいレッドマイネのお屋敷を背景に、美しい兄妹が語らい合う姿に心の中で拍手を送っていると、いつの間にソフィア様との会話を終えたのか、こちらを向いたオースティン様が「調子に乗って庭を歩き回りすぎたようだ。すまないがクロエ、途中で倒れるかもしれない俺を支えて部屋まで連れて行ってくれないか?」と仰った。
傍目には穏やかに、けれど私にとっては胡散臭い微笑みに、これはお小言の気配しかしないと分かっていても「勿論ですわ」と答えるしかない。もしも本当に体調が悪いのなら、ソフィア様に心配をかけたくないのだろう。
――と、気を利かせたことに後悔するのは、ソフィア様とサンダースさんが立ち去り、二人きりで庭園側から屋敷内のオースティン様の自室に繋がる、緑に囲われた渡り廊下を歩いている時だった。
「前々から感じていた疑問だがな、お前はいったい人のことを何だと思っているんだ? お前がくる時が病み上がりなことが多いだけで、身体は弱いが体調が良ければ普通に屋敷の庭くらい歩く」
二人きりになった途端に剥がれる貴族らしさと紳士な振る舞いに、思わず噴き出した私の頬を「何がおかしいんだ?」と引っ張るオースティン様に向かって「何れもございまへんわ」と言い返せば、彼の方も噴き出した。
それで満足したのか、すぐに「柔らかい顔だな」と悪態をつきながらも解放してくれる。私は抓られただけではない頬の赤みを誤魔化す為に、ゴシゴシと頬をさすりながら口を開く。
「確かに一般的にはその通りなのでしょうけれど、何故だかオースティン様に関して言えば違和感があると言うか……そもそもが、出歩いているお姿を見たこと自体がかなり久し振りだったもので」
「そう言われると苦しいが……俺はお前の中で珍獣か何かなのか? 第一久し振りに見たと言うがな、それは単にお前が呼び出さないとこちらにまで出向かないからだろうが」
「そうですけれど、私達は日中は学園におりますし、ソフィア様とは学園で毎日普通に顔を合わせますから、オースティン様の体調などもその時に訊けますもの。それよりも私が言いたいのは、また無茶をなさって寝込まれたら困ると言うことですわ。急にサラダランチに目覚められたソフィア様もですが……ご兄妹揃って、いきなりどうしたのです?」
二人の行動に呆れたとは言わないまでも、せめて時期をずらしてくれたらいいのにとは思ったので素直にそう訊ねれば、オースティン様は「お前には関係ない。余計な心配をするな子豚」とまたも頬を引っ張られた。
せっかく治まりかけていた熱がぶり返したことに腹が立って「だったらお二人とも、子豚に余計な心配をさせないように行動して下さい」と答えたところ、オースティン様は「それもそうだ」と屈託のない笑顔を浮かべられて。
私はその遠い昔に封じた初恋の人の不意打ちな表情に、さらに頬の熱が上がるのを感じたのだった。