バレンタインSS【お姉様の憂鬱】
思い付きの産物(*´ω`*)<ハッピーバレンタイン。
――春にはまだ早い二月。
近年で一気に広がった異国の、あの日付を口にしたくもない祭典当日のレッドマイネ家厨房内は、例年ならこれ以上なくギスギスしている場所だった。
しかし、今年はどういうわけかやけに静かである。本来なら朝食の支度を終えた後は、昼食と夕食用に既婚者達にジャガイモを山ほど剥かせている頃だというのに、その気配すらない。
ちなみにそのせいで毎年この日は食卓にジャガイモ料理が並び、主人達を苦笑させているのだが――。
「あー……今年もついにこの忌まわしい日がやって来やがりました。既婚者連中にぶつける不平不満は色々とあるだろうが、今日の俺達はクロエ様の手足だ。邪念を持たずにしっかり任務に当たってくれ」
そう横一列に整列した料理人達に木ベラを振り上げて声をかけるのは、このレッドマイネ家の胃袋の番人である料理長だ。その前には普通のご令嬢よりもややふくよかなレッドマイネ家次期当主の婚約者。
少し前まで社交界で子豚令嬢として名を馳せた、クロエ・エヴァンズ子爵令嬢である。彼女は淡いオレンジ色のワンピースに白いエプロンをつけ、泡立て器を握りしめて目の前に居並ぶ精鋭達に向かって口を開いた。
「皆様、今日は催し事に疎いコンラッド様に、この日を借りて脂肪をつける為のご協力をお願いしますわね!」
彼女が気合い充分にそう言い放ち泡立て器を天に向かって掲げると、精鋭達はキリリと顔を引き締めて大真面目に「「「了解しました!!」」」と敬礼する。
そんな誰も突っ込みを入れない異空間の入口に、一人だけ苦虫を噛み潰したような表情で佇む美女だけが、この場の異様さを冷静に理解していた。彼女こそはレッドマイネ家美容班の筆頭であり、子豚令嬢を人間の娘に生まれ変わらせた魔法使いである。
彼女は敬礼を解いた彼等が一斉に持ち場につき、元・子豚令嬢の掲げた中身が半熟トローリなチョコレートケーキと、シュワシュワと口の中でほどけるチョコレートケーキの製作に取りかかる姿を見つめ、艶っぽい溜息をついた。
努力家なクロエはすでにこのケーキの調理法を自身の実家でほぼ習得している。今日この厨房を借りて作るのは、ひとえに出来立てのものを婚約者であるコンラッドに食べさせたいからであった。
どちらも持ち運ぶには難しい時間との勝負が必要なものを選ぶ辺り、彼女の本気度が窺えるというものだ。失敗作のおこぼれに預かった弟と父親の尊い犠牲の上に、今日という日がある。
しかも手助けを求めた先は国内でも屈指の料理人達を有するここ。この戦に敗けはない。
それに何を隠そう実のところ、彼女以外の妹達はすでにこの異空間を体験した後なのである。美容班である以上、彼女の妹達は常であれば糖分と脂質の管理に非常に厳しい。だがやはりそこはまだ歳若い娘達。
こういった可愛らしくも浮わついたイベントごとは、恋人や想い人のいる少女達にとっていつの時代も最重要事項なのである。上司であるお姉様も一週間前からコソコソとこの日の為に研鑽を積む妹達を叱ることなどできない。
だからこそ、今日の午後からの仕事は彼女が一人で請け負ってやっているのだ。妹達は今頃一生懸命作ったお菓子を意中の人に渡すことを脳内でトレーニングしつつ、普通のメイドに混じって屋敷の掃除中だろう。
若ければ、何の意識もせずに渡せるのだろうか。
若ければ、可愛らしく喧嘩腰にならずに渡せるのだろうか。
「はあ……」
目の前ではキラキラと瞳を輝かせながら溶かしたチョコの味見をし、大量の砂糖をぶちこんだ卵の白身を泡立てるクロエの姿と、味のアクセントに干し杏を入れたい派閥と、干しイチジクを入れたい派閥と、フランボワーズを入れたい派閥と、ナッツ以外の混入を認めない過激派閥が激論を繰り広げている。
そんな中で料理長は単独ブランデーに漬け込んで炙った栗の甘煮を推していた。自分の信じたものに一本気な彼らしい。
「はあぁ……」
溜息をつく彼女の頭の中は、明日からのクロエのトレーニング内容の見直しと……ポケットの中に忍ばせた、チェック柄の素朴な手作りクッキーのことでいっぱいで。憂鬱さからくるお色気たっぷりの表情を目撃した料理長が、ほんの少し見惚れたことなど知る由もなかった。




