*22* いざ、最終決戦へ!!《2》
一瞬、コートを取り上げられて肌に感じた空気の冷たさなど忘れて、その甘い言葉と微笑みにぼうっとなった。視線の先には一分の隙もない完璧な正装に身を包み、そのくせ落ち着いた金髪は緩く後ろに撫でつけただけの隙を作った、小憎い着こなしのオースティン様が立っている。
固まっていた私に「ですって、クロエ?」と、笑みを含んだソフィア様のお声がかけられなかったら、きっとその場でしばらく棒立ちになってしまっていたことだろう。
そんなソフィア様の咄嗟の心遣いに感謝しつつ、慌てて「あ、りがとう、ございます……」と返事をしたのだけれど、オースティン様はつっかえた私の言葉を聞いて「せっかく褒めたのに何で片言なんだ」と苦笑された。
でも待って欲しい。一応女性として生を受け、ここ一番という席で着飾った自分よりも煌びやかな男性にそう言われたとして、誰が素直にその言葉を受け取れるか? 世間の美しいご令嬢達ならばどうか知らないけれど、私の答えは否だわ。
「それは……自分よりも綺麗な殿方に褒められたところで反応に困ります。背後からコートをはぎ取ったのも、嫌がらせなのかと邪推してしまいましたわ」
「そ、そんなに嫌なのか?」
「嫌というよりも、お三方の見目がよろしい分、その中に私がいることが居たたまれません。さぁ、お早くお返し下さいま――ああっ!?」
コートの返却を求めた私のことなどあっさり無視したオースティン様が、さっきからずっと傍で困った表情で待機していたクローク係に「君、これを頼む」と声をかけてコートを預けてしまった。
思わずキッと睨んだところで、垂れ目の非難の眼差しなどまるきり効いていないのか、オースティン様はまたも「安心しろ。ちゃんと綺麗だ」と微笑んだ。
けれどそういうことではないと言い返そうか悩んでいたら、バルクホルン様が仲裁のつもりなのか「いや、でも本当に良く似合っていると思う。少し感じは違うが、ソフィア嬢のドレスと揃いのデザインなんだろ?」と目敏く言い当ててきた。
そのバルクホルン様の指摘通り、私とソフィア様のドレスはほぼ同じ造りをしていて、まず分かりやすく違うところと言えば色使い。
私のドレスは上半身がモスグリーンで、下にいくにつれて芽吹いたばかりの青葉のような淡いグリーンの色合いに変化している。
デザインだとソフィア様のものは上半身の僅かな部分に肌の露出が見られるが、私のものは完璧に肌を露出する部分がない。厳密に言うと、本当なら肌が見える部分にオーガンジーを使った透け感のあるグリーンの素材で、直接の露出を避けたデザインになっている。
でもそれだと顔周りが寂しいので、私の人参色の髪に挿された髪飾りは、パッと目を引くような白百合のコサージュだ。
首の部分まで覆う作りになっているから、今夜の会場内だと華やかさでは見劣りするだろう。しかし弛みはマシになったものの、かといって敢えて肉付きのいい肩や背中を見せたくない。無駄な足掻きだと嗤われようが、こればっかりは譲れないのだ。
それに何よりも一番私が気にしているのは――。
「だってソフィア様のドレスと同じデザインなのに、全体のフォルムが全然違うのですよ? やっぱり頑張って痩せるにしたって日が足りなさすぎたのですわ」
シュッと着こなしておられるソフィア様と違い、私はこう、全体的にむっちりというか、かなり丸みがあるのだ。そんな私が近くに侍れば、傍目にはとてもだらしなく見えるかもしれない。
ハムと呼ばれることには慣れている。でも“レッドマイネ家の力を集結させてこの出来”だと思われるのが嫌なのだ。
「大恩あるレッドマイネ家の方々に頂いたドレスを、こんな大切な日に上手く着こなせないだなんて――……ありえませんわ。おまけにソフィア様が美容班の方々に出された注文が“髪型やメイクも、わたくしと姉妹に見えるようなお揃いのものにして頂戴?”ですもの。申し訳が立ちません」
「いや、見ようによっては肉感的でエ、」
「バルクホルン様……今まさか肉肉しすぎてエグいと仰ろうとしました!?」
「いや、違うぞ。むしろエ、」
「その品性を疑う口を閉じていろバルクホルン。今すぐにだ」
「本当に最低だわ……」
「待て待て、誤解だ。別にやましいことを言おうとしたんじゃない。クロエ嬢が自信がなさそうだったから褒めようと思ったんだろう?」
何故か慌てるバルクホルン様の頬を「他に言いようがあるだろう?」と捻りあげるオースティン様と、その攻撃に「ちあう、ごかいら」と返すバルクホルン様を横目に、思わず丸い肩を落として俯いた私の言葉に対し、ソフィア様が「大丈夫よ。注文したわたくしが満足のいく出来映えなのだから。それともクロエはわたくしが間違っているとでも言うの?」と仰って下さるものだから。
「ソフィア様が間違うなど、そんなことがあるはずも御座いません。きっと今夜の姿であれば、私のお相手の方もビビッと来てあっという間に見つけて下さいますわ。さぁ、そうと決まれば最終決戦に参りましょう!」
拳を握ってしゃあしゃあと言葉を翻した私を見て、オースティン様とバルクホルン様が乾いた笑いを漏らした。でもそんなことは慣れっこな私は定位置であるソフィア様の後ろに侍り、視線で男性陣にソフィア様の両側に立つように促す。
見目の良い三人が並んで会場入りをすれば、かなり目を惹くことだろう。一瞬だけ目蓋を閉じて一足早く心だけ会場入りを果たした私は、三人の姿に皆が見惚れる姿を思い描いて、今日に至るまでの日々を振り返って悦に入っていた。
だから急に腕を取られたことに驚いて目蓋を持ち上げた先に、オースティン様のお顔があったことにさらに驚いたのだけれど、オースティン様は「何をしているんだ、行くのだろう?」と微かに笑い、ご自身の腕に私の腕を絡ませるように促してこられる。
前方では私が目蓋を閉じている間にすでに一悶着あったのか、物凄く不承不承という体を滲ませたソフィア様が、バルクホルン様の腕にご自身の腕を絡ませた姿で「早くしないと置いて行きますわよ?」と唇を尖らせ、その姿を眩しそうに見つめるバルクホルン様が「そんなに会場内の参加者達に、オレとの婚約を証明したいのか?」と、意地悪く笑う。
その言葉にソフィア様の頬に僅かに赤みが差したのを、私もオースティン様も見逃さなかった。だからこそ、言葉にしないで。
二人して目配せをしながら、この婚約破棄騒動の幸せな決着を見届けられたことに対して、互いの努力が報われたことに安堵の微笑みを浮かべあった。
しかし会場内に一歩足を踏み入れると、それまで感じていた胸の温かさなど瞬きの間に消え去って、案の定一斉に視線が前方を進むソフィア様達に集まり、その背中が僅かに強張る。情けなくもこちらまで緊張してしまう。
けれどソフィア様は後ろを歩く私とオースティン様、それに隣に寄り添うバルクホルン様以外には、その心の揺れを感じさせないほど堂々とした足取りで、会場の中心に集まる一際華やかな集団に近付いていく。
私達の接近に気付いた集団はこちらを一瞥し、あからさまな嘲りの表情を浮かべたものの、何を言うでもなく中心にいた人物達に道を開けた。そこにはどこか怯えた表情を浮かべたヘレフォード様の腕に縋るシャーロット様の姿があり、周囲は気にしない風を装いながら私達の動向を探っている。
向かい合うのは、アストロメイア国の中でも勢力の強い有力貴族家同士。どちらも新しい婚約者を連れ立っての出席に、誰もがこのパワーゲームの天秤が、一体今夜どちらに傾くのか興味津々なのだろう。
「ご機嫌ようヘレフォード様。今夜の卒業舞踏会、お互いに楽しみましょうね?」
先に口火を切ったのはソフィア様だ。ヘレフォード様は長い付き合いでそれを予測していたのだろう。少しだけ寂しげに微笑んで「ああ、勿論だ」と応じる。
そうして、ほんの一瞬だけ無言でお互いの瞳を見つめ合い――……。
先に視線を逸らして「この場を借りて、ボクの婚約者を紹介しても良いだろうか?」と口にしたのはヘレフォード様だった。私が固唾を飲んで見守る先で「ええ、よろしくてよ」とソフィア様が応じる。
白々しくて腹立たしいヘレフォード様の“婚約者”発表を聞き終え、次はソフィア様の番だと周囲が聞き耳を立てる中で「子供じゃないんだ。オレは婚約者として自己紹介くらい自分で出来る」と、どこか挑発的にシャーロット様に向かってバルクホルン様が笑った。
その大胆とも無礼とも言える不遜な態度に、ヘレフォード様を含む周囲の人達の気配が尖る。
ソフィア様の驚きの浮かんだ横顔が見上げる先で、彼女にだけ柔らかい笑みを返したバルクホルン様が“大人らしく”自己紹介をして、初めて。私達もこれまで謎に包まれたままだった、彼の正体を知ったのだった――。
***
「……まさか、あんなにがさつなバルクホルン様が、第五子とはいえあの大国であるシュタインブルクの王子様だなんて。世の中って納得のいかないことばかりですわねぇ」
「まぁ、そう言ってやるな。あれはあれで苦労人なのだろう。何より今度こそ俺達のリディーを幸せにしてくれる“かもしれない”男だ」
「オースティン様、そこは嘘でもしてくれると断言して頂かないと。これからはもう、おいそれと会いに行ける距離ではなくなるのですから」
シュタインブルク王国は、ここから陸路で一ヶ月ほどかかる場所にある大国だ。軍事だけでなく商業の国としても有名で、だからこそ隠していたはずのベルナドール家の夜会に現れたのだ。
とはいえ、シュタインブルクの王室とベルナドール家の間に直接のパイプがあった訳ではなく、バルクホルン様の一つ上のお兄様の治める領地がベルナドール家と商売をしていたらしい。
彼はそのお兄様を頼って、あの夜会に潜り込んだのだそうだ。
あの傲慢で不遜な態度も、大国の王族ならば仕方がない。とはいえ彼の継げる爵位自体はヘレフォード様とさほど変わらないので、特別ソフィア様のお立場が変わるわけでもないのだろう。
そんなバルクホルン様は、オースティン様とファーストダンスを踊った後のソフィア様を連れて、ホールの真ん中で踊っている真っ最中だ。他の出席者達も、今後のレッドマイネ家とヘレフォード家のどちらに肩入れしようか考えつつ、見た目だけは優雅に華やかなダンスに興じている。
ちなみに私はバルクホルン様からのファーストダンスを断り、壁際で二人の帰りを待っていたのだけれど、バルクホルン様は意外にも義理堅く『じゃあ、オレはここでクロエ嬢に近付く連中の番でもしているか』と嘯いた。
そして今、私とオースティン様はと言えば、会場の端の一角で壁にもたれてぼんやりとダンスを眺めながら、しみじみと何度目かの溜息を吐いているところだ。これでソフィア様は幸せになれる。私はその最後まで侍って見届けることが出来た。
――もうこれで満足だ。
後は私も今夜ここで、子爵家の娘としての務めを果たすだけ。
「私、ここである人を待っておりますの。ですからオースティン様は私のことはお気になさらず、誰かと踊ってきて下さいませ。今夜はせっかくの舞踏会ですもの。ソフィア様だけでなく、オースティン様にも良いご縁があるかもしれませんわ」
内心ではちっともそんなことを思っていないのに、それを悟られないように明るい声で言うと、オースティン様は隣で壁に背を預けたまま「ああ、そうだな」とダンスホールから視線を動かさずに答えた。
それから少しの間、オースティン様がこの場を離れるのを待とうと思ったのに、何故か彼は無言のまま隣にじっと立っている。もしかするとどの女性を誘えば良いのかお困りなのかもしれない。
そう思って「えぇ……と、あちらの方など如何です? ソフィア様ほどではありませんが、お美しくて品もよろしそうですわ」と紫色のドレスの女性を視線で促せば、オースティン様は「確かに品のありそうな女性だが、俺の好みではないな」と首を横に振る。
成程言われてみれば好みは重要であるに違いないと思い、
「ではあちらの方はどうでしょう? 綺麗と言うよりは可愛らしい方ですけれど、オースティン様には意外とああいう活発そうな方がお似合いかもしれませんわよ」
――と、今度はオレンジ色のドレスを着た、さっきとは全然方向性の違うご令嬢を選んでみたのに、オースティン様は「確かに活発そうな女性だが、俺の好みではないな」と、これにも首を横に振った。
言われてみれば全く方向性が違うのは極端すぎたかと反省して、
「だとするならばあちらの方は? 少し痩せ気味ですが、背も高くてオースティン様との釣り合いが取れそう。姿勢も良いですし……ドレスを着るならあれくらいスッキリとした立ち姿が素敵ですわ」
――と、今度は丁度先の二人の中間におられるような、若草色のドレスを着たご令嬢を選んでみたのに、オースティン様は「確かに姿勢が良くて立ち姿も凛とした女性だが、俺の好みではないな」と、またしても首を横に振る。
こうなればこちらもやや熱が入ってきて、その後も七人ほど具体的に説明をしながら女性を次々に選んでいくのだけれど、どのご令嬢もソフィア様ほどではないにしても、文句なしに美人の範疇に入るにも関わらずオースティン様は首を縦には振らなかった。
「うーん……オースティン様は意外と女性のお好みにうる……んん、こだわりがあられるのですわね。ではどのような方がお好みなのでしょうか? 私の方の待ち人もまだいらっしゃいそうにありませんし、次はそれを参考に探してみますわ」
危うく“うるさい”と評しそうになったところを、寸でのところで飲み込んで視線をダンスホールに向けていると「隣にいるな」とオースティン様が仰られた。その言葉に弾かれたように隣のオースティン様を仰ぎ見ると、彼はほんの少しだけ私を見つめて、それからすぐに視線を逸らした。
「隣……私のいる延長線上のことですか? それは確かに盲点でしたわね。その位置から見える先におられるうちのどの方です? ご自分でお声をかけに行くのが恥ずかしいようでしたら、私がお呼びしてきますわ」
「…………はあぁ」
「そのように深い溜息などついてどうなさったのですか、オースティン様。あ、もしやご気分が優れませんか? もしそうであれば今夜はドレスなので、出来るだけ早く申告して頂けると助かります」
やっと引き出せた好みの女性の情報に、目の色を変えていて失念しかけていた可能性を口にすると、急にオースティン様の表情が険しくなり「お前のその自己評価の低さと鈍さは、時々恐ろしく腹立たしいな」と低く唸るような声音で仰られた。
一瞬何を言われたのか分からなくて、真っ白になった頭が言葉を読み込むまでに少し時間がかかり、ジワジワと理解が追いついてきたと同時に「腹立たしい、です、か」と。自分のものとは思えないか細い声が喉を震わせる。
そんな私を上から見下ろすように、壁にもたれたままのオースティン様は眉間に皺を寄せて「ああ、物凄く腹立たしい」とさらに言葉を重ねた。彼の発するたった短いその言葉だけで、明るいダンスの音楽と、温かな明かりを落とすシャンデリアの彩る会場内で、私は一人だけ吹雪の中に放り出されたように血の気が引く。
それでも思わず「今までの会話で、何か不敬なことを申しましたでしょうか?」と訊ねてしまった私を不機嫌そうに見下ろした彼は「不敬、か」と、さらに眉間に神経質そうな皺を刻んだ。
最早それ以上言葉を重ねることすら恐ろしくて黙り込んだ私に向かい、ふっと溜息を吐いたオースティン様は「お前に不敬かなどと他人行儀に問われると、存外辛い。どういう意味だなどと、馬鹿なことは訊いてくれるなよ?」と仰る。
その言葉に何度もこくこくと頷くと、骨ばった手が伸びてきて、私の頬を両側から包み込むように添えられた。そして身体を屈めて覗き込むような形で私と視線を合わせたオースティン様は、少しだけ気恥ずかしそうに微笑んで。
「他の婚約者候補にはこの話から降りてもらった。だからクロエ。お前の婚約者候補として残っているのは、残念ながら俺だけだ。無理強いするつもりは毛頭ないが……出来ることなら、この一ヶ月のようにこれからもずっと。レッドマイネの屋敷にいてはくれないか?」
そう夢の続きのような言葉を口にされたオースティン様の瞳の中には、呆然とする丸い子豚ではなく、間抜けなアナグマが映り込んでいた。




