★20★ 変わらずの距離感と変わる想い。
昨日はここ数日で一番体調が良かったので、珍しく書類整理の仕事を一日中机に向かって行うことが出来た……までは良かった。その翌日である今日は、また常と同じようにベッドの中で書類を繰る仕事風景になるのだから、何と脆弱な身体かと己を呪いたくなる。
しかし先日取り敢えず渋るヘレフォード家の当主と、ソフィアを裏切った馬鹿息子を交え、俺も同席のうえ開かれた両家当主の話し合いの結果、散々あちらの当主が見苦しく抵抗したものの、何とか無事に向こうが婚約不履行を認めた。
その場で即刻両家連名の書類を作成し、家格が高いヘレフォード家から典礼局に今回の婚約破棄を申し出る書面を送りつけ、今日それを認める王家の認印を捺された書類が発行されたと通達があった。
これでもう、ソフィアとヘレフォード家を繋ぐものは何もない。それは即ち、レッドマイネ家とヘレフォード家の縁が薄くなったことを表すものだが、すでに因習のようなものだったので、今回のことを期に一度切れた方が良かったのだろう。
後はソフィアとヘレフォードの馬鹿息子がお互いに、卒業舞踏会で新たなパートナーと出席すれば良いだけだ。そうすれば周囲の貴族階級は両家の婚約が解消されたことを知り、今後どちらにつこうか身の振り方を考える。
だが普通に考えれば家格の高いヘレフォード家につく家の方が多いだろうことは、容易に想像出来た。レッドマイネ家は窮地に立たされることになるが、それはもう仕方のないことだ。
今まで散々俺の体調のせいで不安を感じさせてきた妹の肩に、もう何も重石を乗せるつもりはない。妹は頼りない兄から離れ、自分の人生を手に入れることが出来た。後の幸せはバルクホルンが与え、妹はそれを補う存在になるだろう。
そこまで考えてから、不意に。
まるでぽっかりと胸に空洞が出来たような心許ない気分になる。
そうしてそんな風に弱っている時はほぼ無意識に、傍にクロエの姿を探す自分の駄目さ加減に辟易するのだ。五歳年下の相手にどれだけ依存しているのだ、と。
彼女からは安心を与えられてばかりで、俺から与えてやれるものが少なすぎた。求婚したあの日についてもそうだ。本当なら自分の好意を押し付ける前に、彼女の不調に気付いてやるべきだったのに。
「……どこまで自分本位なんだ、俺は」
思わずそう口を吐いて出た悪態に、しかし今更それを自覚したところで苛立つばかりで。むしろ目の前の仕事についての考えが纏まらず、悪循環を招くばかりだ。いっそ今日の仕事は諦めて明日に回し、作業の立て直しを図ろうかと思案していたその時、部屋のドアがノックされた。
相手が誰かを特に考えることなく「どうぞ」と声を上げると、ゆっくりとドアが開かれて、そこから見知った人参色の三つ編みが覗く。それだけで身体の不調が少しマシになるような気がするのだから、もうどうしようもないと自分でも笑えてしまった。
そこでまだ三つ編みしか見えていなかった人物に「クロエか。ちょうど会いたいと思っていたところだ。入ってくれ」と声をかけたのだが、室内に入ってきたその姿に思わず息を飲んだ。
「お久し振りですわ。昨日ようやくソフィア様にオースティン様を見舞う許可を頂きましたの。お加減は如何ですか?」
そう言って微笑むのは、今の今まで探していた姿だが――……部屋の入口に立っていたのは、記憶の中にある見知った姿ではないクロエだった。しかし身体的な特徴や纏う雰囲気は揃っているのだから、身構えることなどない。
最近ソフィアがやけに美容に特化したメイド達を連れているとは思ったが……たぶん間違いなく、この為に暗躍していたのだろう。
一番近い感情としては気恥ずかしいとでも評すればいいのだろうが、とにかく口から出た最初の一言は「クロエ――……目が、開いたのか」という、酷く不躾な発言だった。
精査せずに口にしたその言葉に、入口からこちらへ歩み寄りベッドの端に腰を下ろしたクロエが、やや掠れた喉で「その発言を聞いたのはもう何人目だか数えておりませんが、皆さん人のことを何だとお思いなんですか? 生まれたての赤ん坊でもないのですから、目が開いていて当然でしょう」と不満そうに答えた。
咄嗟に「ああ」と返事をしたものの、彼女には悪いが周囲の人間の反応も無理からぬことだと思う。一瞬だけとはいえ十年も一緒にいた俺でも驚くのだから。けれど動揺を隠しきれないこちらの言い訳を聞こうとしているのか、金茶色の瞳が興味深そうに俺を映す。
痩せたからだろう。低かった鼻が少し高くなり、顔の輪郭はふくよかなままだが、以前は分からなかった骨格の形が分かるようになった。いつも窄めたようだった唇はぽってりと分厚いものの、艶がある健康的なものに変わっている。
垂れ気味の目はくっきりとした二重ではなくやや奥二重の気があり、それがさらに柔和そうな印象を与えた。栄養状態なのか髪も人参色の輝きをより強く濃く保ち、代わりに減ったボリュームが気にならないほどだ。
覗き込んでくる明るい瞳には人懐っこそうな愛嬌と温かみがあり、クロエという人間にとても良く似合っていた。そういえば昔、初めて出逢った時にもそんなことを感じて口にしたことがある。
当時を思い出してから改めて、あの頃のまま変質することのなかった彼女の心の強さに感心してしまった。
「いや、その、すまん。久し振りに会ったものだから、少し会話の仕方を忘れたというか……お前の目はつり気味の糸目ではなくて、まん丸な垂れ目だったのだなと」
いつもは安心感を抱くはずの金茶色の瞳に、何故か落ち着かずに視線を泳がせながらそう答えれば、クロエは「はぁぁ~……そうなんですよ。まん丸な垂れ目だなんて、大して痩せてもない身体でまん丸垂れ目。これではまるでアナグマですわ」と溜息を吐いた。
こちらとしては“丸い垂れ目も可愛らしい”というつもりで言ったのだが、どうやらクロエはそうは受け取ってくれなかったらしい。
クロエの不満気な表情の理由が分からずに困惑していると、彼女はそんな俺に気付かずまたも「子豚からアナグマ……神様はよほど私を人間にするのがお嫌なんでしょうか?」と溜息を吐く。だが決して悲観するような要素のない姿をしているというのに、どうして落ち込んでいるのだろうか?
そう疑問に感じつつも、何とかクロエが納得するような言葉を探そうと泳がせていた視線を固定する。前より少し痩せたが、最初に見た時よりも落ち着いてから見れば、思った通り可愛らしいと思う。丸い垂れ目も本人が言うようにアナグマっぽい愛嬌はあっても、クロエが嘆くような部分は少しもない。
そこで今度は言葉選びを誤らないように慎重に言葉を探して、再度褒めようとしたのだが、その言葉は喉の奥にこびりついたように発することが出来なかった。
代わりに出たのは「せっかく痩せたのにどうした? それとも痩せたのではなくて体調が悪いせいでやつれた……と、言うわけでもなさそうだが、もしもまだ身体が辛いようなら無理をしない方が良い」という酷くつまらない発言で。今ここにソフィアやバルクホルンがいないことに、少なからずほっとしている自分がいる。
この姿を最初に褒めるのは自分でありたいなどと、浅ましい考えを悟られては困るからだ。
「ああ、そのことでしたら、体調の方はもうすっかり大丈夫なんですよ。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。今日からはまたいつも通りお傍に控えさせて頂きますわね」
そうふっくらとした頬を持ち上げて笑う表情に、胸がざわめく。しかしそんないつもの調子が出ない俺とは違い、クロエの方はまったくいつも通りの様子だ。前回気を失う直前に二人の間であったことなど、まるでなかったかのように。
そのことに少しだけ疑問を抱きつつ、ひとまずはクロエの表情を探りながら「お前の体調が悪くないなら構わない。けれど……それなら、この間の返事を聞かせてはくれないだろうか?」と言葉を続けてみたのだが――。
案の定こういった予感は往々にして当たるようで「え? 何のお話でしょうか?」と、心底不思議そうな表情を浮かべ、何の照れも見せずにズイッとこちらに顔を近付ける様子に、嫌な予感がした。
しかし、もしもこれが彼女が断りたくて、けれどソフィアの兄である自分を傷付けまいと、あの求婚をなかったことにしようとしているのであればどうだろうか?
最悪の場合、こちらが強く言えば思い出した風を装って承諾してくれるかもしれない。妹に絶対の忠誠を誓っているクロエであれば、あり得ないとも言い切れないものがある。けれどそれはただの悪手だ。
そんなことをして彼女を手に入れても意味がない。家名を振りかざして無理に婚約に漕ぎ着けて、クロエから笑顔が消える姿を見たい訳ではないのだから。
結局最初から仕切り直しかと内心溜息を吐きたい気持ちだったものの、ふと掌で俺の熱を計ろうと額に手を伸ばしてきたクロエが「そういえばあの日は倒れる前に一瞬だけ、とても良い夢を見たのです。きっとオースティン様のお陰だわ」と。
こちらの思い上がりでなければ、十年間共に過ごしてきた時間の中で初めて、僅かに照れくさそうに微笑んだ。
――それがクロエの本心から出た言葉なら、あるいはもう後少しだけ。
気付いてしまった想いの為に、足掻いてみるのも良いかもしれない。




