幕間☆ 一度は共に歩んだ人。
今回はソフィアの視点でお送りします(´ω`*)
「なぁ……あんまり口を挟みたくはないんだが、いくら何でもこのやり方は少し意地が悪いんじゃないのか? 兄上は本当に体調が悪そうだった。それを自分の家でない場所で療養させるっていうのは――、」
「“あまりにも無慈悲”だとでも仰るおつもりでしょう? 分かっていますけれど、こうでもしないとあの二人は進展どころか、きっとお互いの気持ちに気付きもしないもの。特にお兄様はクロエに引け目を感じすぎていて全然駄目ですわ」
バルクホルン様が仰っていることが正論であるとは思いつつ、それでは間に合わない。そもそもバルクホルン様がご自身の説明を先延ばしにするせいで焦っているというのに、この方にその意識が薄いのも問題だわ。
「そうは言っても、気が休まらないだろう。兄上の体力的にそろそろ無理矢理にでもちゃんとした睡眠を取らせないとだな……」
「それなら尚更クロエの傍に置いておく方が安全ですわ。彼女はお兄様の起こし方も眠らせ方も熟知しているし、無自覚に人を安心させるというか……そういう気配を纏っているから、きっと大丈夫よ。それより、貴男は今日の話し合いで余計な横槍を入れたりしないで下さいませね?」
口にしてから、そう言えばお兄様が倒れた時に、一番最初に頼るのは家族ではないと気付いたのはいつ頃だったかしらと、ふと記憶を遡りかけるけれど……それが如何に無駄な行為か気付くことにそう時間はかからなくて。
だというのに、肝心の本人達がそのことに気付かないことが昔から不思議でたまらなかった。
「ジェームズ様」
背後からそう呼びかけた瞬間、この名を口にしたのが随分と久し振りだということに気付いて、もうこの名がわたくしの世界と交わることはないのだと理解する。でなければ、こんな風に上級貴族が悪巧みに利用する店に招かれても現れたりしないはずだから。
呼びかけに反応した肩が少しだけ揺れて、振り向いた表情に浮かぶ苦しげな表情に安堵した。彼はすでに決心を固めているのだと。ここに彼女を連れて来なかったのも、今まで積み重ねてきた関係が全て無に帰して、これで“さよなら”だと言うまでに何かが起こると薄々感じているからかしらね?
「本日はこちらの急な予定にお時間を割いて頂きまして、ありがとうございます。今日のこの席について、何か疑問がございましたら、本題に入る前に仰って下さいませ」
白々しい貴族間で行われる腹の探り合いは、本当はあまり得意ではない。けれど、世間の人達はお兄様仕込みの処世術で身を守るわたくしを、謀略家のように扱う。それはきっと、目の前に座る彼にしても同じことで、今更ながらにわたくし達の距離の遠さを思わせるに充分だった。
「今日はこうした席を設けてくれたことに感謝する。そして、今回の件はすまない。長年君を騙し続けて、家の繋がりが貴族に課せられた仕事なのだと分かっていながら、僕は――、」
「ええ、そちらの方は失礼ながら調べ上げさせて頂きました。彼女は男爵家の私生児として貴男の領地にある教会に預けられ、そこでシスター見習いをなさっていた方だと。貴男は幼い頃からお父上に連れられて慰問に行っていたそうですね?」
勝手に感傷的な雰囲気に持ち込まれて、こちらの言及の手を緩めさせられては癪だから、そうならないように言葉を挟めば「もうそこまで調べ上げていたのか。流石はリディーだ」と、いつも二人で論じ合った頃のように少しだけ笑った。
それは天気の話をシャーロット様と交わす時の笑顔とは違ったけれど、わたくしだけが知る彼の笑みだ。
「お褒めに与り光栄ですわ。好き合った者同士で番のが本来はよろしいのでしょうし、わたくしは彼女のように貴男を愛してなどいなかったのですもの。ただし、それは貴族社会で行うべきことではない。それはお分かりですわね?」
こちらがあげつらう内容に、彼は一つも反論することも、表情を動かすこともなく「ああ、その通りだ」と答えた。要するにシスター見習いとして置き去りにした娘が、偶然にも大物の侯爵家の跡取り息子を釣り上げたことを、彼女の父親である男爵が嗅ぎつけたのだろう。
お兄様が用意してくれた書類には、男爵が久し振りに会いに行った娘が美しく成長した姿を見て、即日連れ帰ったのだと記してあった。彼女は彼女で成長するにつれ身分差で悩んだ恋が、末端であろうと貴族位に上がれるのなら、平民よりはずっとチャンスがあると思ったに違いない。
けれど……だとすれば、ジェームズ様達が先に両家でならわしのようになっている、婚約制度をどうにかすべきだったのだわ。それをせずに彼は、一足飛びに噂を立てて父親である侯爵の面子を潰し、縁を切らせる道か、たった一人しかいない血を分けた優秀な息子を許すかを迫ったのだ。
恋とはここまで人を変えてしまうのかと思わずにはいられないくらい、わたくしの知っていた彼からはかけ離れた甘い考えに笑えてしまう。
とはいえ言っておかなければならないことは多々あるのだけれど、絶対に許せないことがあるとすれば、まずはそれを優先させるべきだわ。
「貴男方の身勝手でお目出度いその行いで、どれほどの苦痛をわたくしの元に最後まで残ってくれた取り巻きが負ったかお分かりかしら? 当のわたくしすら味わっていない苦痛を、何も負うべきではない取り巻きの彼女や、わたくしの兄が負ったかお分かりかしら?」
どちらかというとこちらが本命の怒りなので、向かい合って腰をおろしていたソファーから立ち上がり、間に挟まれたテーブルに両手をついて身を乗り出す。
隣に座っていたバルクホルン様が、スカートの裾を引っ張って「待てソフィア嬢、少し落ち着け」と早速口を挟んだけれど、きっぱりと無視する。
「貴男が彼女が愛しいのと同じように、わたくしにも愛しい者がおりますのよ? 貴男のせいで虚弱な兄がどれだけ身体を酷使したか分かって? そんな兄やわたくしの為にエヴァンズ子爵令嬢は、ひたすら自分を悪し様に言う人間達の前に出て庇ってくれたの。貴男その時にどこで何をしておいでだったのかしら?」
答えがあるとは思えないし、期待もしていなかった。彼は恋の病に踊らされ、不格好なダンスを踊っていたに違いないのだから。
案の定「本当にすまない」としか言わないジェームズ様に、呆れや悲しみを通り越して怒りが沸き上がる。
「本当に狡い方。こんな方と少しでも一緒に歩いて行けると思ったあの頃の自分を、ひっぱたいてやりたいですわね」
今日まできちんとレッドマイネ伯爵令嬢として振る舞ってきた。だからこそ、似た者同士だと思っていた同類の裏切りが許せなかったのだ。最初から話してくれればなんて、そんな仲でもなかったくせに。
どうしてだか悔しくて歯を食いしばった頬を、温かいものが数度、伝って落ちた。だけど、これでいい。これでもう今回の出来事は許して、伯爵家の人間らしく振る舞うことが――……。
“出来る”と思った直後に隣から「おい、ちょっとあんた、歯ぁ食いしばれよ」とやけに低い声がして。わたくしとジェームズ様が揃って「「え?」」と声を上げた瞬間、いきなりそれまで冷静に見えたバルクホルン様が、ジェームズ様の右頬を殴りつけた。
かけていたソファーごと後ろに倒れるジェームズ様を、一瞬呆然と眺めてしまったけれど、段々とお腹の底から奇妙な爽快感が湧き上がって。おまけにバルクホルン様が「口は挟んでない」などと屁理屈をいうものだから、つい淑女としてはあるまじきことだけれど、声を上げて笑ってしまった。
しばらくそうやって笑っていたら、さっき流したものとは違う、もっと愉快な涙が溢れて頬を濡らす。でもずっと笑っている訳にもいかないので、グイッと乱暴に袖で涙を拭って「君がそんなに笑う人だとは思わなかったよ」と苦笑するジェームズ様に向かって居丈高に顎を反らして言い放つ。
「痛かったでしょうけど、自業自得だと思ってお許し下さいませ。それに、わたくしもこうして新しく頼りがいのある番を見つけましたの。ここから先はそろそろ腹を割って、新しい契約の話をしましょう?」
婚約破棄の“さよなら”にしては可愛気がないけれど。きっと、その方がわたくしらしくて丁度良い。けれどその後しっかり腹を割って話し合ったわたくし達の元へ、クロエが倒れたと連絡が入ったのは、本当に青天の霹靂のようだったわ……。
***
“クロエが倒れた”と血相を変えて、屋敷に戻ったばかりのわたくしの前でジェームズ様へ呪いの言葉を並べたお兄様を見てから、今日でもう二週間が経つ。
本来は目覚めたばかりのお兄様を診るはずだったお医者様を、全力でクロエの診察に当たらせて夜通し看病したのは、彼女と出逢ってから初めてのことだった。
「ご機嫌ようクロエ。体調はどうかしら?」
こちらのノックに対しての返事を聞くよりも先に、室内から何かがずり落ちて呻く声と、その何かがドアの前まで這って来るような音がする。カチャリと小さな音を立てて少しだけ開いたドアの隙間から、よく見知った金茶色の瞳がどこか怯えたように覗き込んできた。
そんなオドオドとした瞳の持ち主に「お見舞いにきましてよ」と微笑みかけると、ドアの隙間がわたくしが通れるギリギリくらいに開かれた。そこから滑り込むようにして室内に入ると、毛布を頭からすっぽりと被った人物は、ドアを閉ざして鍵までかけてしまう。
そのただならない怯え方に、本当なら笑いたいところをグッと堪える。本人は真剣に怯えているんですもの。せっかく信じて室内に招き入れてくれているのに、ここでわたくしが笑っては彼女は逃げ場をなくしてしまうわ。
彼女がまだこちらに背を向けている間に、弧を描きそうになる唇を何とか微笑程度に引き締める。廊下の音に聞き耳を立てていた毛布の人物は、わたくし以外の人間の足音がしないことを確かめると、ようやく安心した様子でこちらを振り返り、頭から被っていた毛布を脱いだ。
「まぁまぁ……ソフィア様、今日もいらして下さったのですね。私は果報者ですわ。ですが――、」
「“寒い中をいらして風邪でも召されたら大変です。卒業舞踏会までもうあまり日もありませんし、毎日いらして下さらなくても大丈夫ですわ”と言うのでしょう? それくらい分かっておりますわ。毎日飽きもせずにそればかりなんだもの。いい加減に憶えましてよ。それとも……子豚のくせにわたくしに意見するおつもり?」
「いいえ、とんでもございません! 私がソフィア様に意見など恐れ多いですもの。昔から、ソフィア様の仰ることに間違いなどございませんわ。このみっともない身体がいうことを聞くようになったら、レッドマイネ家の威を借りて、真っ先にヘレフォード様を張り倒してご覧に入れますわ」
そう言って、本当に長い時間をわたくしと共に歩んできてくれた“子豚”が微笑んだ。そんな言葉が嬉しくて「いいえ、それならもうバルクホルン様が済ませて下さいましたわ」と答えると、クロエは少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
けれど、その後すぐにパッと顔を輝かせて「それでは、私は殿方が手をあげられないシャーロット様を打ちますわね!」と元気に言うものだからおかしくて、嬉しかった。
「まぁ、何を言っているの? 今はあなたの身体の方が大切よ。お医者様にも、ようやく食事に固形物が食べられるようになったと聞いたから、うちの料理長に頼んで蒸しパンを作ってもらったの。一緒に食べましょう?」
そうわたくしが言い終わった直後に“グギュウウウウウウウウウ~……”と凄まじい音で催促するクロエのお腹の虫に声を立てて笑ったら、二週間でだいぶやつれてしまった彼女も一緒になって「私のお腹の虫もそうしようと言っているようですわ」と笑う。
そこにはもう見知った“子豚”の姿はほんの少ししか残っていないけれど、代わりに“アナグマ”のようにふっくらとした垂れ目の友人がいてくれる。
寝込んでいる間にミルク粥や果物をすりおろしたものしか食べられなかったせいで、目方が減ったこの姿を当の本人は「もう、この皮が! 身体の至る所の皮が弛んでみっともないんです!」と顔を覆って絶望しているけれど、ここにお兄様がいたらきっと面白い顔が見られるのに――……。
そう思うと、彼女の回復と入れ代わるように寝込んだお兄様がこの姿を見られるように、クロエの体重を維持させながらさらに身体を絞ることが自分の役目のように感じられて……あら、何だか俄然やる気が湧きますわね?




