*1* そうだ、切り捨てましょう!
「……先日のお茶会も、ここ最近の昼食も、こうも明らかにこちらの形勢が悪くなってしまってはどうにもなりませんわね……」
ふと王城でのパーティー会場で見るような洗練された仕草で、レッドマイネ家の料理長が腕によりをかけて作ったローストビーフサンドを食べていたソフィア様が、そう言って小さく溜息を吐かれた。
私はそんなソフィア様の様子と、バスケットの中に残っているサンドイッチを交互に眺めながら「そうですねぇ」と頷く。
何だかんだあって盛者必衰の理をあらわす、 おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし……とは遠い国のありがたい言葉にありましたけれど、あの衝撃的な出逢いから十年後。
まさにかの異国の言葉通り栄枯盛衰の理をあらわしたかのように、私が敬愛する女王様ことソフィア・リディアローズ・レッドマイネ様は、この十七年の人生で初めての挫折を味わっておられた。
けれど別に容姿が成長と共に衰えたとかそういったことではない。むしろ成長するにつれ、柔らかさと気品を兼ね備えたハニーブロンドはさらに艶やかに、アーモンド型のサファイアのような美しい瞳は輝きを増した。
口紅を引かなくてもふっくらとしたチェリーのような唇は魅力的で、スッと通った鼻筋と幾らか気が強そうな印象を与えるつり気味の眉も完璧。
要するに腕の良い人形師が丹精込めたような美少女が、自ら発光するように見える美女に成長したのだ。ちなみに私は幼い頃よりも少し背が伸びたこともあり、当時の“もっちゃり”体型よりは辛うじてまだ“ぽっちゃり”と評せる体型になった。
悪意のある人からは“どすこい”体型だと評されるけど、言い得て妙だから放置している。
問題は昔から大嫌いな自分の人参色をした派手な膨張色の髪が、少し身体の嵩が減ったことで、昔より悪目立ちすることくらい。おまけに髪質がソフィア様のように素直でないから、雨の続く時はギチギチの三つ編みにしないと失敗したパンのようになってしまう。
肉に埋もれていた鼻と唇が出てきたことで、幼少期よりは少しだけ人間に近くなったけれど、頬肉に押し上げられてしっかり開くことのない金茶の瞳は未だに見えない。
この瞳だけが私が唯一お母様から受け継いだ綺麗な部分なのに……少しだけ残念。でもどうせパッチリ開くようになったところで容姿に大した違いがないから、どうでも良い――……と、話が逸れた。
「ですがソフィア様、今はそんなことよりも、そのサンドイッチを美味しく召し上がることの方が大切です。それに食事はストレスを感じないで召し上がらないと、美容にも良くありませんわ」
「そうかもしれないけれどクロエ、あなたの場合はこのサンドイッチの方が心配なのではなくて?」
「いえ、そんなことは……と、言いたいところですが、正にその通りです。せっかくのレッドマイネ家の料理長が作ったサンドイッチ。ふわふわのパンが乾いてしまっては勿体ないです」
私が大真面目にそう返すと、次の瞬間その美しい顔に苦笑を浮かべたソフィア様は「……はぁ、食欲の塊みたいなあなたと話していると、まるでわたくしの悩みがとても小さなことのように思えてしまって癪ですわね」と、そう笑って下さった。
少し元気が足りないその答えに「ええ、まあ、実際問題些細なことですし」と返せば、ソフィア様はヒクリと頬をひきつらせて「……何ですって? この子豚ちゃん」といつもの調子を取り戻す。
人間の一人や二人は氷漬けに出来そうなその視線には慣れっこなので、怯むこともなく「その調子ですよ!」と適当に合いの手を入れつつ、小振りなランチバスケットに詰められたサンドイッチを一つ頂いた。
摘み上げた瞬間、指先に吸い付くようなキメの細かいしっとりとしたパンに笑みを浮かべ、周囲にソフィア様以外の方がいないのを良いことに、お行儀悪く大口を開けてかぶりつく。
そんな私を見たソフィア様は苦笑して「まるで平民の食べ方ですわね」と呆れた声をあげるけれど、その瞳に蔑むような色はない。
それどころか「あなたを見ていたら、わたくしもお腹が空いてきましたわ」と笑って、バスケットから摘み上げたサンドイッチに私の真似をしてかぶりついた。
……いえ、かぶりつくと言うにはお上品すぎる。小さく開けた口で一生懸命啄むようにサンドイッチを食べるソフィア様は、普段の近寄りがたい美貌もなりを潜めた、ただの美しいだけのご令嬢になった。
慣れない食べ方に苦戦している姿はやや幼い印象になるからか、何となくいつもより強めに擁護して差し上げたい気分になる。そんな私の褒め称えたい欲求が爆発するのはすぐだった。
「もう……もう、ソフィア様はそうやってサンドイッチを召し上がっているだけでも、センス、知力、スタイル、懐の深さ、全てにおいて冠絶! まさしく至高の存在ですわ!」
堪えきれずに口から迸った私の熱の籠もった言葉に、若干驚いた様子でサンドイッチにかぶりつく姿のまま一瞬固まったソフィア様が「あ、ありがとう、クロエ。ちょっと何を言っているのかよく分からないけれど……でも、もうそんなことをわたくしに言うのはあなたくらいよ」と困惑しながらもお礼を述べて下さる。
しかし、そこは考えを改めて頂きたい。何故ならここでソフィア様からのそんな言葉を私一人の手柄にしてしまえば、約一名、とんでもなく五月蠅い人物がいるからだ。
「いいえ、いいえ、ソフィア様。他の方々の目が節穴なのがいけないのですわ。貴女様が自らを貶めるような発言をする必要など、ほんの欠片もございません」
「そ、そうかしら……?」
「はい、断言します。失礼ながら私、ヘレフォード様は以前から、ソフィア様の伴侶として相応しくないと思っておりましたので」
常からソフィア様が全幅の信頼を置いて下さっている、今となっては最後の取り巻きになってしまった私からの唐突な告白に「え、ええ? そうなの?」と慌てられるソフィア様。
その姿がお労しすぎて、彼女の無能な婚約者を心の中で有らん限りの語彙を尽くして罵倒し倒す。
ジェームズ・クリストファー・ヘレフォード。この女神との将来を約束されていながら、先日平民階級から男爵令嬢になったばかりで、二学年も下のシャーロット・レインワースなどに心動かされた愚か者。
奴の心がシャーロット・レインワースに全力疾走してしまったお陰で、現在私の恩人であるソフィア様は社交的に微妙な立場に立たされている。それというのもレッドマイネ家とヘレフォード家は、このアストロメイア国の中でも勢力の強い有力貴族家。
両家共に血統の系譜中に王家との繋がりを持つ両家での婚姻は、習わしのようになっていたのに――奴はそれを踏みにじった。ずっと拮抗しているかに思われていた歴史の中で、ある理由から今回ばかりは自分の家の方が上だとヘレフォード家が思い上がったのだ。
確かに彼女は艶やかな栗毛の持ち主で、パッチリ二重な緑の瞳と、ちょっと微笑んだだけでも男性陣が放っておかないような、庇護欲をそそられる儚さを持っているけれども。
対してソフィア様は美しさなら完勝ですけれど、口を開けば伝説上のドラゴンが吐く、生きとし生けるものの命を刈り尽くすドラゴンブレスさながらの毒舌ですけれども。
だけど私は初めてお会いした時から、どうしてもあのシャーロット様が胡散臭く思えて仕方がないのだ。いったい何が? と訊かれても分からない。ただのコンプレックスの塊である女の醜い嫉妬心だと言われれば、それまでだろう。
けれど言わせてもらえるのならば、ソフィア様の傍に侍る時点で、私の女としての矜持などない。
それというのも、毎日同じ生き物であることすら烏滸がましいような人物の隣にいて、今更少し男性陣が浮つく程度の美人に嫉妬などしないからだ。
「そうですねぇ……頭の中身が、ホイップした生クリームのようなシャーロット様の会話内容に、ヘレフォード様を含む男性陣が“可愛い”を連呼する姿は、見るに耐えません。天気の話だけでああも盛り上がれるのは異常ですわ」
ビシッと目の前でふくふくしい自分の人差し指を立ててそう力説すれば、ソフィア様は少しだけ眉根を寄せて「あら、でもお天気の話は大切よ? 農作物にとっても人間にとっても重要な事柄だわ」と唇を尖らせた。
それを聞いて思わず膝を叩きながら「それです!」と声を上げれば、サンドイッチを手にしたソフィア様が「え?」と小首を傾げるのを前に、私は会話を続ける。
「そこでそういう風な会話の流れに乗せることこそ大切なのです! それを馬鹿みたいに“それじゃあ、今から遊びに行こうか?”などと返すことが、真の愚か者のなせることなのですわ!!」
「そ、そう、なのね……。でもそれは裏を返せば、その可愛げがわたくしになかったからジェームズ様のお心が離れたのではないかしら?」
「うふふ、いやですわソフィア様。これは世間一般で言うところの好機というやつですのよ。頭がお花畑の方々は、お花畑の方々だけで放っておけばよろしいのです。さっさとあちらの不貞を暴露して、サクッと婚約破棄をしちゃいましょう!」
「でも……お父様はともかく、あちらの家はお許しになるかしら? それに、わたくしが婚約破棄をされてしまえば、お兄様に迷惑がかかるわ。せっかくこの頃はベッドから起き上がれるほど調子がよろしいのに……」
先のヘレフォード家がレッドマイネ家の上に立ったと思い上がった理由。それが身体の虚弱な次期レッドマイネ家の当主である、ソフィア様の兄の存在だ。成人まで生きられないだろうと思われた彼は今年で二十二歳だが、まだ生きておられる。
ただし長時間座っていることもままならない体調なので、当主になれたとしても領地の統治は難しいだろう。今のところ病弱な彼に嫁ぎたがる娘も、嫁がせたがる家もない。仮に嫁がせたとしても、利用する前に死なれては旨みがないからだ。
この国では女の身では爵位を継げない。かといってまだ生きている長男を無視して婿養子を取ることも出来ない。
ご両親が健在な時はまだ良いものの、ご両親が亡くなり、兄上まで亡くなれば、お家は断絶か遠縁の手に渡る。前者であれば領地は国へ返還されて、婚約者に逃げられたソフィア様の身柄は宙ぶらりんになるだろう。
おまけに返還された領地は恐らく、家柄が拮抗して、なおかつ隣り合った領地を持つヘレフォード家に、これからも忠誠を誓うと約束させる代わりに下賜されると考えるのが妥当。あの無能め……二重、三重に許せませんわ。
仮に後者の場合でも、前任者の遺した後ろ盾のない絶世の美少女など、ろくな使われ方をしなさそうだ。
そして何よりも実はここが最も重要なのだけれど……。ソフィア様のお優しい言葉に、むしろそのお兄様が一番の曲者だと言って差し上げることが出来ればどんなに楽になることか。主に私の胃が。
何故だか皆さん“デブ=胃腸が丈夫”みたいな勘違いしていらっしゃる方が多いけれど、何も食欲旺盛だからといって胃が丈夫なわけではありませんのに。
「そこはご安心下さいませ。そもそもあちらの不貞が先なのですし、私達の結婚とは家の格を上げるもの。それにどうせ普通に結婚したところで、単純明快な政略結婚に愛など必要ありません。だとすれば要は新しい婚約者が、ヘレフォード様よりも家格が高ければよろしいのでしょう?」
「それは、そうね――」
「では、ソフィア様はそのように私にお命じ下されば良いのです。そうすれば私は全身全霊、あの手この手を使ってでも、ソフィア様に愛も才能もある素敵な殿方を探して来てみせますわ!」
「もう、あなたはいつもそのお肉の分も含めて暑苦しいですわね」
クスリと可憐に微笑むソフィア様を愛でながら、私は学園生活最後の年末に行われる卒業舞踏会までの、あと半年しかない期間の算段を頭の中で忙しなく組み立てる……が。
「そういえば……お兄様があなたに会いたがっていましたの。時間があるようでしたら今日にでも屋敷に会いに来て欲しいのだけれど。駄目かしら?」
上目遣いでそう可愛らしく訊ねられては、ソフィア様に忠誠を誓った私が断れるはずもなく。痛む胃を叱咤しながら「も、勿論ですわ……」と答えるしかなかった。