★16★ 気付かせないでくれ。
それぞれの二週間の過ごし方。
今回はオースティン視点です(´ω`*)
――昔から漠然と、眠ることが怖かった。
一度高熱を出すと一週間はそれが続き、身体の中をかき混ぜ、暴れ回りながらズタズタにされていくような、自分の体内に空洞が増えていく気分に苛まれていた。
朝はいつでも変わらずやってくるものではないと。一度深く眠ってしまえば、次に目蓋を持ち上げることが出来ないかもしれないことが恐ろしかった。
その恐ろしさから逃れられるようになったのは、寝込んでいるとたびたび見舞いにやってきて、こちらが熱を出して眠っているのも構わずに、隣で妹とお茶を飲みだす無神経な子豚が現れるようになってからだ。
それまで喉の渇きも空腹も感じずに、ただ熱に押し潰されそうになっていた俺を、無遠慮に渇きと飢えで起こした子豚。
無理やり目蓋を持ち上げて起きると、常であれば不安そうに顔を覗き込む医師や、家族がいたのに。いつの間にか、そこには勝ち誇った様子で冷たい飲み物や果物を持って待ちかまえている姿があって。
一番最初に見る顔は、聞く声は――、
『おはようございます、オースティン様。今日は何で目が覚めましたか? 喉が渇きました? それともお腹が空きました?』
そんな、こちらの目覚めの苦しさと安堵感をない交ぜにさせるような、血色の良い顔と張りのある声。いつしかその姿を見た時が、俺の本当の目覚めのようになった。それなのに――。
『いいですかオースティン様? 私は物心をついた頃から、ずっとこの容姿なのです。もしも痩せたところで美しくなるどころか、今よりももっと惨めな容姿になったらどうすれば良いのですか。太っているから醜いのだという逃げ場まで奪われてしまったら、絶望しか残りませんよ?』
一週間前のあの日から、胸がやけに重苦しい。あんな風に引きつった笑顔をさせたいわけではなかった。だが、焦っていたのは確かだ。
最近ようやく体調が安定し始めてきたことで社交場に出る機会も多くなり、そのせいで初めて世間的に見たクロエの立場に、今までの自分の浅慮さを呪った。
“婚約者のいない身でありながら、独身の男の元へ通う不美人な子爵令嬢”
“レッドマイネ家の跡取りの身体が弱いのは、彼の子爵令嬢に毒でも盛られているせいなのでは?”
“暢気で害がないだけが取り柄のエヴァンズ家にも、野心があったとみえる。でなければ自分の娘をあのように醜いまま放っておきますまい”
“成程、レッドマイネ家の美しい兄妹には物珍しかったのでしょうな”
……おぞましい、吐き気がする、度し難い。眠りから目覚めない恐怖に打ち勝って見る世界の、なんと汚いことか。
何より俺の世話などに手を貸したせいで、心の醜さを補うように多少見目のマシな肉を纏っただけの屑共に、彼女は蔑まれてきたのだ。
一番度し難かったのは、そんなことにも気付かずに、長年彼女に世話を焼かせ続けた不甲斐ない自分の存在だった。
『実はオースティン様が仰るように、私にも縁談が来ておりますの。ですので、今日からソフィア様の卒業舞踏会までは、私も自分のお相手探しに熱中しようかと思います。縁談相手が決まるまではこちらに参りませんので、くれぐれも体調管理は念入りになさいませ。それでは、ご機嫌よう?』
立ち上がって背を向ける彼女に伸ばした腕が空を切り、呼び止めても振り返らないクロエがドアを閉めるあの日の場面が繰り返されて――。
瞬間、ガクンと身体が傾いで執務机に顔面から突っ込むところだった。そこで初めて、自分がいつの間にか作業中に眠っていたのだと気付く。周囲を見ると机の上に置いてあった書類が数枚、床に滑り落ちている。
頭痛と軽い吐き気を覚えて眉間を揉むが、視界が滲んだだけで気を紛らわせるほどの効果はない。
そこへ控え目なノック音がして、ここ一週間で訪ねてくる人物が変わったことに溜息を吐きながら「どうぞ」と声をかける。直後に開いたドアから現れたのはイグナーツ・バルクホルンだった。
彼は俺を見るなり「兄上……またそのような格好で寝ていたのですか」と眉間に皺を刻んだ。新しい婚約者候補はすぐにこの屋敷の使用人達に受け入れられ、このところ頻繁に訪れる。
彼いわく、ソフィアが衆目に晒されて婚約破棄をされる直前に婚約を申し込む為の書類を父に、受理してもらう為だそうだ。確かにまだ当主ではない自分には、その書類にレッドマイネの印を捺すことは出来ない。
それは分かる。しかしサラリと聞き流しそうになる会話中に混じる単語に、今度は俺の眉間に力が入った。
「何度も言っているがバルクホルン殿。妹と正式に婚約発表をするまで、わたしはまだ君に“兄上”と呼ばれる立場ではないのだが?」
「今それは置いておきましょう兄上。そんなことよりも、問題は本当に貴男が自覚をしていないことです」
「……またその話か。ソフィアにも言われたが、皆目見当がつかない。そしてわたしは今急ぎの調べ物をしている途中だ。話は簡潔に頼む」
この一週間、毎日のように部屋を訪れる妹がクロエの話題を持ち出す度に、俺はその名を聞きたくないと話を打ち切って遠ざけた。今までの人生で妹が訪ねてくること嫌さに自室のベッドから逃げ出したのは、初めての経験だ。それを察しているから、今日この部屋にやってきたのもバルクホルン一人だけなのだろう。
元々今回の一件は、妹に新しい婚約者を見つけることが俺達にとっての本題であった。それが果たされた今、彼女がここを訪れることがなくても仕方がない。
「では無礼を承知で言わせてもらうが……男爵位を持つ年頃の、それも金髪碧眼の男の名簿ばかり大量に広げている様は、この屋敷の使用人でなくとも端から見たら心配になる絵面だ兄上。貴男はご自分で何故こんなに偏った情報収集をしているのか、本当に分からないのですか?」
たたみかけるようにそう続けるイグナーツ・バルクホルンの言葉に、周囲に散らばった釣書と姿絵を流し見るが、特におかしなことだとは思わない。何故なら、俺には彼女の大凡の顔の好みが分かっていたからだ。
「クロエなら、恐らくソフィアの見た目に似た男が良いと言い出すだろう。だからその見た目に近い人材を探している。エヴァンズ子爵も自分の娘の好みは見当がついているだろうし、わたしとしては妙な相手であれば先回りして潰そうと思っているだけだ。今まで妹の取り巻きとして尽くしてくれた彼女の見合い相手に、手落ちがあってはならない」
何らおかしくはない。矛盾することなど何も。そのはずだ。そうあるべきだ。
だというのに、目の前に立つバルクホルンの表情は見る見る苛立ちと困惑に曇っていく。しかしこちらとしては、全く同じ表情で迎え撃つことしか出来ない。
するとバルクホルンは今度は俺が裏で手を回して探らせ、洗い出したリストを手に取ると、サッと撫でるように視線を走らせてから「では、これはどう説明をするおつもりか?」と尋ねてきた。
尋ねられた内容は、どれも不正を働いた内容を細かく調べ上げて、陛下に直接届けられるようにしたためた書面だ。臣下の不正を暴いて見せるのも、長くこの地位に据え置かれた家がなすべき仕事の一貫である。
「いったい何を言い出すのかと思えば……バルクホルン殿。臣下に不正があればそれを暴き陛下に報せるのも、また臣下の役目。それの何が気にくわないのだ?」
「それはそうだが、ここに名を連ねているのはすべて先の茶会や社交場でクロエ嬢を貶める発言をした者達ばかりだ」
「ふん……それは気付かなかったが、貴殿はわたしより余程エヴァンズ子爵令嬢の噂にお詳しいようだ。さぁ、話が以上ならお引き取り願おう」
今度こそ話は終いだという風に、俺は床に散らばった書類を拾い集めようと視線を下げた。するとあからさまな溜息が聞こえたかと思うと、バルクホルンは新しい話題を持ち出した。
「……今日オレがここに顔を出したのは、兄上に相談したいことがあったのです。クロエ嬢のことはソフィア嬢に頼まれただけのこと。本題はこちらの方だ。まだ会話を続けて下さるのなら、兄上の知恵を拝借したい。実は――、」
***
『ヘレフォード家の連中が、今更シャーロット・レインワースに接近して息子と別れるように説得し始めた。理由は至極簡単だ。貴男が驚異的とも言える回復を遂げ、社交界に姿を現すようになった。そのことでレッドマイネの領地を拝領出来ないと分かったヘレフォード家が、ソフィア嬢との復縁を望んでいる。オレはもう貴男の妹君を誰にも攫われたくない』
そうバルクホルンから相談を受けていた件を調べ始めてから早一週間。
クロエの姿を見なくなったあの日から、もう二週間が経っていた。
その日も俺とバルクホルンは、シャーロット・レインワースとヘレフォードの馬鹿息子の二人を尾行しながら、弱味として使えそうな情報を探り、不貞の現場を目撃した人間を証言に使うことが出来るよう、根回しをするために市井の市場にやって来ていた。
睡眠時間は一週間前からさらに減り、食欲もあまりないが、妹の婚約がまた台無しになるのが兄である俺のせいではあまりに不憫だと。そう自身を叱咤しながら目眩を堪えて二人の背中を追っていた。
人目を避けるようにふらふら移動する二人を追いかけるのは、必要以上に出歩かない俺の体力と気力を否応なしに削っていく。一緒に歩くバルクホルンにそれを悟られまいとすれば、精神の消耗はさらに早くなった。
逢いたい。
逢いたい。
誰に、と、問われても。
その存在と名を求めるには、あまりにも都合が良すぎる。
結果として霞む視界と込み上げそうになる胃液を飲み下し、正面を向いて二人を追うしかない。そう今にも膝を折りそうになる身体に鞭を打って、踏み出す足に力を込め直した時だった。
滲んで不明瞭だった視界に、馴染んだ人参色の髪を見つけたのは。
隣で同じものに気付いたらしいバルクホルンが、声をかけに近付くよりも早く身体が動いた。駆ける力が残っていたのも驚きだったが、何故子爵令嬢の彼女が、こんな場所に供の一人もつけずにいるのかと。そっちの方がより心配で。
苛立ちと共に、何かに気を取られている無防備なそのふくふくしい肩を力いっぱい引き寄せれば――。
「ご、ご機嫌よう、オースティン様?」
上擦った声で久し振りに俺の名を呼んだ相手は、ずっと逢いたいと、心で呼んだ。血色の良い丸い顔に、驚きと心配の表情を浮かべた子豚だった。