*14* 子豚の尾を踏みましたわね?
「……はあぁ……」
誰が見ても一目で分かるように、今の私は憂鬱である。こんなに溜息ばかり出てしまうのは、今から遡ること八日前の出来事のせいだ。
ベルナドール家の夜会で倒れたオースティン様を、レッドマイネ家の馬車まで運ぶのを手伝って下さったまでは助かったのだけれど……問題は、その馬車にバルクホルン様もご一緒に乗り込まれた。正直この時点で嫌な予感はしていた。
常ならソフィア様の隣には私が座るのだけれど、当日はオースティン様が倒れてしまった為に、揺れる馬車内で私の膝を枕代わりに寝かせていたせいで阻止出来なかったのだ。さらにその直後、信じられないことにソフィア様が恐るべきことを言い出された。
『わたくしとバルクホルン様の利害が一致しましたので、次の婚約者候補は彼に決めましたわ。クロエには彼の選定を任せると言ったのに、言い出したわたくしが約束を違えてしまってごめんなさいね』
そう言って本当にすまなさそうに謝って下さるソフィア様に、何も言葉を返すことが出来ずにただただ頷くことしか出来なかった。それに『ごめんなさいね』の部分で上目遣いになるだなんて……ソフィア様のことだから計算してのことではないと思うけれど、天使すぎましたわ。
あんな可愛らしく謝られては文句など言えない。むしろ可愛らしい表情をありがとうございますと言いたいくらいだわ。実際、隣に座っていたバルクホルン様はそんなソフィア様の表情に釘付けでしたし。
私が“気安く見るな”という感情のままに脛を蹴ってやろうかと思っていたら『ソフィア、その顔は駄目だ』と、それまで窮屈そうに身体を折り曲げて膝の上で唸っていたオースティン様が、弱々しく注意してしまうほどに、あのソフィア様の表情は反則気味に可愛らしかった。
しかもバルクホルン様に肝心の身許のことを訊ねれば、まだ海の者とも山の者とも言い出せぬと言う。あの時は思わず『バルクホルン様……この期に及んで妻にと望む者とその家族にも言えない? そんなふざけた話が罷り通るとお思いですか?』と声を震わせた。
なのにそんな私の膝頭を軽く叩いたオースティン様は――、
『バルクホルン殿は婚約者候補に名乗りを挙げ、それをソフィアが認めた。ならばわたしが貴殿に求めることは、ただ一つだ。決して妹を裏切るな。もしもこの盟約を違えることがあれば、このように頼りない身であろうが、必ず貴殿にレッドマイネの牙をもって報復する』
と、膝枕の状態でなければとても格好良い発言をなされた。けれどその後すぐに辛そうに咳き込んで目蓋を閉ざしてしまわれたので、私はオースティン様がナメられない為にも、その背中をさすりながらバルクホルン様を睨みつけるしかなかったのだ。
「……はああぁぁ……」
もう一度あの馬車内での出来事を思い出して深い溜息を吐いていたら、すぐ傍から「クロエ、頼むからもうその溜息は止めてくれないか。どっと気力が持って行かれる」と、こちらもまた覇気のない声が聞こえてくる。
そう言う彼は、あの日から大事をとってベッドに私の監視付きで寝かされていた。それだけなら常の風景と変わらないこの部屋で一つだけいつもと違うのは、二人分のセットしか載っていないワゴン。
レッドマイネ家の熟練メイドが淹れてくれる紅茶も美味しいのだけれど、やはり私の舌にはソフィア様が淹れて下さる紅茶が馴染んでいるから、どうしても物足りなく感じてしまう。林檎を赤ワインで煮詰めたコンポートを口にしながらも、舌に乗せていた林檎を飲み込んでしまえばまた溜息が出る。
婚約破棄を申し渡される卒業舞踏会までそう日がないとのことで、色々な準備や手続きに奔走されてるソフィア様とは、この八日間、学園から戻る馬車さえ違うのだ。これで同学年の同クラスでなければ、私とソフィア様は卒業舞踏会まで全く接点のない生活になっていたに違いない。
「そうは仰いますが、オースティン様。どう考えてもあの夜会でオースティン様が乙女のように倒れられてしまったから、二人の距離が縮まってしまったのですよ? それを今更気力の心配だなんて」
たかだか子爵令嬢風情が、伯爵家の次期当主に対してきいていい口ではないものの、私の言葉が刺々しくなったのがただの八つ当たりだと分かっているオースティン様は「手厳しいな」と空気を微かに震わせるように笑った。
けれどその笑いの中に含まれているものが、私の心に澱のように降り積もる感情とは違う気配がして「何をそんなに楽しそうにしているのです」と、八つ当たりを続けたままの声音で問えば、オースティン様は「いや……これで俺の心配事も、一つ減ったと思ってな」と。
最近ではすっかり忘れかけていた、一瞬こちらがヒヤリとするような含みのある発言をされた。けれど以前までとは違って、その怜悧にも思える美しいお顔に翳りを感じることもなくなった今となっては、その言葉が果たして本気なのか冗談なのか計りかねる。
以前までなら絶対に良くない方の意味でしか受け取れなかったのに、嬉しい反面、何だか不思議な気分だわ。
そこで急に、私は自分がソフィア様が幸せを掴むまでのことしか考えていなかったのだと自覚した。きっと今のオースティン様もそんな風な内心からの言葉だったのだろう。
私達はソフィア様が幸せを掴む為に手を取り合った、互いが互いを利用する共存体。それが今までの私達の有り様で、書面でのやりとりのないだけで違えようのない契約のようなものだった。
こんな風に気安い距離で接して下さるお二人に、妙な勘違いをしたりしないで自分の立場さえ理解していれば、今まではその先にある未来に目を瞑ることも出来た。けれどそれもそろそろ終わりが近付いている。
私はつい今し方の自分の言葉を、そそくさと部屋の隅に追いやりながら、「もう、またそんな気弱なことを仰って。気力が足りないからそんな言葉ばかり出るのですよ」と内心の動揺を隠して口にしたけれど――。
「そう俺のことばかり言うがな……クロエこそ、そんなに自分の容姿にコンプレックスがあるなら、一度思い切って痩せてみたらどうだ。俺と違ってお前は動き回れる体力があるのだし、端から痩せる努力をしないで鬱々としても時間の無駄だ。それにソフィアが嫁げば、次はクロエの番だろう。いつまでも俺の世話をさせていては、エヴァンズ子爵に申し訳が立たん」
さも当然のように、実際当然のことを仰っただけなのだが……何故だろうか。今までどんな発言をされてもやり返せてきたのに、この発言に返す言葉を、私は一瞬すぐには思い浮かべられなかった。
けれどここ最近は体調も良く、少し食事を多く摂られるようになったと屋敷の人達が喜んでいたように、ベッドの上に背中を支える枕を使わず起き上がれるようになったその顔は、嫌味なほどに整っている。
紙のように白かった肌はやや血行が良くなり、痩けていた頬は陰影がつかない程度に肉付き始めていることに気付いた時、心底カッチーンときた。気分は不敬とはいえ“お前がそれを言うか?”だ。
「あのですね。そうは仰いますが、そんなことは元からお綺麗なオースティン様には分かりませんわ」
喉の奥から絞り出した声は“苛立ち”に震えていたけれど、私のその声と言葉を“動揺”と捉えたオースティン様が「急にどうしたんだ?」と訝しんだ声をかけてくる。ああ、ほら、やっぱり綺麗な顔の方にはこのコンプレックスは分からないのだ。
「いいですかオースティン様? 私は物心をついた頃から、ずっとこの容姿なのです。もしも痩せたところで美しくなるどころか、今よりももっと惨めな容姿になったらどうすれば良いのですか。太っているから醜いのだという逃げ場まで奪われてしまったら、絶望しか残りませんよ?」
自分で言いながら惨めな気分を味わっていると「そんなことはやってみなければ分からないだろう? 俺は今のままでも構わないが、痩せてみても可愛いと思うぞ」と、ソフィア様という美の体現者を妹に持ち、自身も美しいオースティン様が仰るのだ。
これは高度な嫌味なのか? そんなペットの子豚を褒める体で、気軽にこのどすこい体型な令嬢を可愛いなどと言わないで欲しいと思う。おだてたって豚は逆立ちしたりしない。だが、信じられないことにオースティン様の悪気のない助言はさらに続いた。
「お前はよく気もつくし、頭の回転も悪くない。性格もある意味ではイイ性格だ。だとしたら、もう改善する部分など体格くらいだろう。見た目で物事を判断しようとする愚か者は唾棄すべき存在だが、多少痩せて体裁を整えることはクロエの健康にとっても悪いことではない」
名案だとばかりに、ベッドに起こした身体をこちらに向けて熱弁して下さる。その気力、使いどころが八日ほど間違っているのでは?
それにむしろ私としては、また貶され倒してまで婚約者探しをするくらいなら、いっそ修道院にでも入りたいという心境なのに。家は弟が大きくなってから継げばいい。そうだ、それが一番良いと思って説明しようと口を開いたのに――。
「うふふふふふ、この姿のままの私でも、爵位狙いの縁談くらいございます。貴族間の結婚に愛だの恋だのは不要ですから、オースティン様にご心配頂かなくても結構ですわ」
言葉として飛び出したのは、そんな全く別の内容だった。
勿論そんな気はさらさらないし、ソフィア様の婚約発表と結婚式までのらりくらりと引き伸ばして、今より太った万全の状態でお見合いに挑もうと思う。そうすれば申し訳ないけれど両親も諦めて、私の修道院入りを許してくれる目も出るかもしれない。
そんな私の言葉に、一瞬驚いた様子で目を丸くしたオースティン様に心がスッとしてさらにこう続けた。
「実はオースティン様が仰るように、私にも縁談が来ておりますの。ですので、今日からソフィア様の卒業舞踏会までは、私も自分のお相手探しに熱中しようかと思います。縁談相手が決まるまではこちらに参りませんので、くれぐれも体調管理は念入りになさいませ。それでは、ご機嫌よう?」
そう言いたいことを言い切って、オースティン様が引き留める言葉も聞かずに部屋を飛び出したのはいいけれど……ああ、私はいったい何に腹を立てたのかしら?