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★10★ 欠点、時により長所。

腹黒お兄様再びです(´ω`*)



「うーん……やっぱり夏場は熱が思うように下がりませんね」


 そう呆れたような声と共に、額に載せられていた温んだ布が取り去られ、代わりにペタリと肉厚な掌が額に当てられた。取り替えられたばかりの水で程よく冷えた掌に、昨夜からぶりかえしていた熱が吸い取られる。


 うっすらと目蓋を持ち上げた先にある人参色の三つ編みが揺れて、最近頬肉が少しだけ落ちたと思ったのに、また頬肉に押し上げられてしっかり開くことのなくなってしまった金茶色の瞳が見える。


 その金茶色の瞳が俺を見下ろして「やっぱり明後日のお茶会は欠席しましょうか。誘って下さった先方様には申し訳ないですけど、オースティン様のお身体が第一ですからね」と、もともと笑みの形になっている目をさらに細くして笑った。


 夏期休暇に入って数日置きに茶会に出席しただけでこれかと、自分で自分の虚弱な体質に呆れる。やはり最初の茶会の後で一度熱を出したことでケチがついたか……? とはいえ、それでも以前のように二、三日意識のないまま眠るようなことはなくなった。まぁ現状良いところなどそれだけなのだが。


「もうすぐソフィア様がこちらにアイスティーを持って来て下さるそうなので、目が覚めたようでしたら少しだけ身体を起こしましょうか?」


 かけられたその問いかけに頷くと、クロエは手慣れた様子で頭の下から枕を引き抜いて半分に折ると、汗で湿った俺の背面に腕を入れ、上半身を持ち上げた隙間に枕を戻した。


 ふわりと背中を支える枕の感触にホッと息を吐けば、それに気付いたクロエが「呼吸しやすくなりました?」と訊ねてくる。その言葉に頷き返すと、今度は「結構汗をかかれたようですから、人を呼んで着替えを手伝わせましょうか」と提案してくれるので、これにも頷く。


 するとクロエはもう一度絞った布で俺の額を拭い「では、そのように伝えてきますわね」と言い残して部屋を出て行った。


 こういう時に、五歳も年下の妹の取り巻きに頼りきりなことが歯痒くないと言えば嘘になるが、この時間にぼんやりとした安心感を持っているのも事実だ。体調の良い時には裏表なく会話を交わし、好き勝手に言葉を投げて打ち返される感覚は、外の世界にはない。


 そういう風に振る舞ってきたことを後悔したことはないが、もうこの部屋以外で脱ぐことの出来なくなった心の鎧が重く感じることはままある。


 そんな心の弱る時にばかりクロエを呼びつけたくなる自分の癖に、気付かない訳ではなかった。そして妹に忠誠を誓っているクロエが、この呼び出しを断れないことも。


 歳月にして十年。長年に渡って狡いことをしている自覚はあった。普通に考えて妹の取り巻きを呼びつける兄というのはおかしい。それに寄りかかることについては尚更だろう。


 生命力に溢れた人間は、クロエの他にも多くいる。しかし代わりになれるような人材には、今まで一度も出逢っていない。例えば良く笑い、良く食べることだけなら、他の令嬢にも出来るだろう。


 しかしクロエは汗や、時には吐瀉物に触れさせてしまうようなことがあっても、笑って人を気遣う優しさを持っている。誰にもその体格を嘲られることがなければ、彼女は卑屈な性格になることもなく、自分達兄妹に捕まえられる人種にはなっていなかったはずだ。


 だから痩せさえすれば自信を持つようになるかと思い、妹と相談した上でお膳立てをしたというのに……何故また太ったのだろうか?


 痩せて瞳の色が見えるようになった時『私を形作るものの中で、唯一の自慢なんです』と、嬉しそうに言った笑みを思い出す。――そして、暑気あたりを起こして倒れた日に、同年代の仕事仲間と揉めた原因も。


 妹と一緒にいる男の素性を聞き出すついでに世間話をしていた時に、仲間内の一人がクロエのことを訊いてきた。そこでそういえばその場にいる中にも、まだ婚約者が決まっていない顔が混じっていることに気付き、クロエの話題を広げてみることにしたのだ。


 そして興味を持つ者がいたら、裏ルートで経歴や現在の資産総額などを調べさせようと思っていたし、これでようやく年長者らしいことをしてやれるという、安堵に似た感情もあった。



『妹の友人でクロエ・エヴァンズ子爵令嬢だ。なかなか良く気もつくし、頭の回転も早い。他の令嬢に比べれば少し肉付きは良い方だとは思うが、良い妻になると思う。まぁ……妹の友人ということで、若干欲目のようなものはあるかもしれんが』



 それは実際には欲目も何も混じっていない、俺から見たクロエの評価で。他者がクロエの容姿に色眼鏡をかけ直す前に、最初に見せておきたい彼女の魅力だった。


 ――しかし、ある一人がそれを聞いて『おいおい、正気かよ? お前暑さで参ってるんじゃないのか?』と嗤ったのだ。


 次いで飛び出した言葉の数々は、クロエの容姿と、どこから聞いてきたのかという、彼女を貶めるような酷い内容の噂ばかりで。


 特に『夫を探すなら社交場じゃなくて牧場だろう。ベーコンとして出荷される前に良いお相手が見つかると良いな』という暴言には、怒りで吐き気すら覚えた。同時に、殺意も。


 あれが彼女の見聞きする世界なのだとしたら、この世は彼女にとってどれほど苦痛であるだろうか? 自分達兄妹と出逢う前の幼少期からこんな世界しか知らずにいれば、卑屈になるなと言う方が無理だろう。当時の彼女の心が壊れていなかったことが、奇跡のように思えるほどに。


 だからこそ奴が吐いたその言葉に、これまでの人生で感じることのなかった、身体が震えるほどの怒りを感じたのだろう。


 ともすれば貴重な経験だと言えなくもないが、そのせいで過呼吸を起こして倒れ、次に目覚めたのがベッドの上では、自分の不甲斐なさを嗤うことしか出来ずに寝込んだ。


 後日寝込んだ俺の元にクロエを嗤った男から、詫びのつもりか林檎が送られてきたが、到底それで赦せる訳もない。一人から上がった嘲りの声は、あの周囲にいた者達にも伝播した。あの場で話をしていた者達の中で、クロエの価値が貶められたのだ。


 林檎の籠は手紙と一緒に届いた時点で処分させようと、サンダースを呼んでおいたのに、その直後にやってきたクロエが『あら、綺麗な林檎ですね。林檎は“医者いらず”とも呼ばれるくらいですから、すぐに剥いて差し上げますわ』と言ったせいで、処分し損ねた。


 結局大量にあった林檎は生食と菓子の材料として消費され、残されたものは空になった籠だけだったが、俺は腹いせに調べ上げさせた情報から、奴が現在不倫関係にある女の夫に手紙をしたためて送ってやった。


 勿論、相手にもクロエ達にも足が付かないように秘密裏に。


 今頃どうなっているかは知らんが、奴が得意気に吐き散らかしたクロエへの侮辱の言葉の数々は、今もあの場に居合わせた人間達の心に居座っているのだろう。人の口に戸を立てられないことはどうしようもない。しかしそれでも後数ヶ月は、あの場にいた者達の近況報告を待つ日が続くことだろう。


 人の悪意には心身を病ませる毒気がある。それをもろに受けて寝込む自分が、それを内包しつつも折れない彼女に憧れを抱くのは無理からぬ話だ。しかし今の関係性がずっと続くことが望ましいかと言えば、そうでもない。


 クロエの世界は今やソフィアを中心に回っている。けれどその妹が結婚して他家に嫁いでしまったら、彼女の取り巻きとしての役目は終わってしまう。その時にクロエに残るのは子爵令嬢としての勤めである婚約者探しだ。

 

 しかし妹の取り巻きとして長年侍っている彼女が、自分の婚約者を探している姿を見たこともなければ、エヴァンズ子爵が娘の婚約者を探しているという話も聞いたことがない。


 ……だから、俺が探してやらなければならないと……と。


「二人ともお待たせしましたわね……と……あら、お兄様だけですのね? 嫌だわ、わたくしの支度が遅いからクロエが厨房に呼びに行って、入れ違いになったのかしら?」 


 ――どうやら、熱で働きが鈍るのは頭だけではなく耳も同様なようだ。ソフィアはアイスティーを載せたワゴンをカラカラと押しながらベッドの隣につけ、こちらの顔色を確かめようと顔を覗き込んでくる。


 その表情の変化を見るに“大変満足”には遠いものの、頷いた仕草から“それなり”という評価を得られたようだ。


「アイスティーは飲めそうですか? 駄目そうならば無理には勧めませんが、そうでないのなら冷たいものを飲んで、少し気分をすっきりさせては如何かしら?」


 ふわりと微笑む妹は、一番心を凍らせていた時期を思えば別人のように穏やかで。そんな変化を兄妹揃って得られたことがクロエの出現であることは、疑いようもない事実だった。


 そんな妹に対して「ああ、頂こう。ちょうど喉が渇いていたところだから嬉しいよ」と答えれば、嬉しそうに「まぁ、良かった。少しお待ちになって下さいませね」と弾んだ声が返ってくる。


 ソフィアの手でワゴンに載せられたガラスのボトルから、蜂蜜色をした紅茶がグラスに注がれるのを待つ間に、ふと気になっていたことを訊ねてみることにした。


「そういえば、ソフィアに訊きたいことがあるんだが構わないかい?」


「勿論ですわ。わたくしでお答え出来ることなら何でも仰って下さいませ」


「うん……そのな、ソフィアがどうしてバルクホルン殿の求婚を受けようと思ったのかを、まだ訊いていなかったと思ってな」


 本当はもっと別のことを訊いてみようと思っていたのかもしれないが、熱でぼんやりと霞む頭ではこれが精一杯なようだ。それにあまり口出しをすると鬱陶しがられるかもしれないと質問を控えていたが、実際のところかなり気になっていた。


 思慮深いはずの妹から前回一度だけ受けたあの説明では、どうにも納得しきれなかったのだ。身元を巧妙に隠してなかなか尻尾を掴ませない奴に、妹が脅されるようなことがあってはならない。


 しかしそう気負って真剣に訊ねた俺の言葉に対して、ソフィアは「大したことではないのですよ?」と前置いてから、当日の出来事を思い出しているのかほんの少し微笑む。


 そうして再び唇を開くと「そうですわね……わたくしの気が強くて“おっかない”ところ……意訳すれば“気性の荒い”ところが気に入ったのだと、そう言って下さったことが嬉しかったからかもしれませんわ」と晴れやかに言った。


 そんなこちらが想像していたよりも遥かに単純明快な答えに、バルクホルン殿が妹の根の素直さを見抜いてそう言ったのではないかと……邪推してしまった自分の心の黒さに、小さく細い溜息が漏れるのだ。

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