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*9* お茶とお菓子と作戦会議。



「イグナーツ・バルクホルン。歳はお前達と同じ十七歳だ。一応留学生という名目でこの国にやってきているが、その素性は伏せられているらしい。こうなると名前も本名であるのか分からん。身に着けている品から羽振りは良さそうだが、いずれにせよソフィアは厄介な男に粉をかけられたものだな」


 ベッドの上で焦りの滲んだ声でそう仰るオースティン様の前に、剥いたばかりの林檎を載せたお皿を差し出す。デザートフォークでくし切りにした林檎を刺すオースティン様の手許を見ながら、もう一つ剥こうかと悩みつつ、会話を続けるように視線で促されて、籠の林檎を弄る手を止めた。


「魔性の美しさが惹き寄せる怪しげな男、ですか。それだけ聞くとまるで小説の題材のようですね。けれど、ご安心下さいませオースティン様。要は私が心を許さなければ良いのですから」


 端から聞けば何を安請け合いをと思われそうな私の返事にも、オースティン様は「そうしてくれると助かる」と答えて、フォークに刺した林檎を一口齧った。瞬間林檎から甘い香りが立ち上り、室内に爽やかな空気が満ちる。


 その香りに鼻をひくつかせていた私の口に、オースティン様がお皿の上に載っていた林檎を一つ押し込んだ。シャクシャクと口の中にある林檎を咀嚼しながら隙間の空いたお皿を眺め、やはりもう一個剥こうと籠の中から色の良い林檎を選んで、ナイフをその鮮やかな赤い表面に当てる。


 あの面倒な宣戦布告を受けた、夏期休暇第一回目のお茶会から今日で四日目。この林檎は久し振りにオースティン様に会った友人方からのお見舞いの品だ。ついでに女性陣からは大量の全快を願うお手紙と、招待状が届いている。これでしばらくはお茶会の席に困らないわね。


 ――……要するに、暑気あたりを起こして戻ったあの日から今日に至るまで、オースティン様は熱を出してベッドの虜囚となっておられるということで。


「しかし気をつけねばならないのはお前もだぞ? 俺としてはお前という子爵家の令嬢を預かっている身として――、」


「はいはい、心得ております。心得ておりますので、どうぞ林檎をお召し上がりの時にはお静かに。そうでないとまた林檎の蜜で咽せますわよ?」


 ここ四日間続いた熱のせいでまた少しやつれたものの、以前のように全く食欲を失うようなことはない。だからこそこうして、医者いらずと呼ばれる林檎を一日に数個剥いて差し上げるのがこの四日間の私の仕事だ。


「お前が怒っているのは分かるが、林檎の生食は流石に飽きたんだがな……」


 ポツリとぼやくようにそう仰ったオースティン様に、危うく噴き出しそうになったけれど、我慢だ。もう少しでソフィア様がいらっしゃるはずだもの。


 笑いが込み上げてきて震えそうになるナイフの先に意識を集中させていると、それを怒りからくる震えだと勘違いしたオースティン様が「林檎の質が良いから生食も旨い」と仰る。わざとなのかしら……もう腹筋が、保ちそうにないわ!


 表面上は真顔のままに、頬の内側を噛みながら内心の笑いの砦を瓦解させないように踏ん張っていたら、カラカラというワゴンの音と共に、ついに天の助けがやってきた。


「クロエ、お兄様は――……あぁ、良かった、もう起きていらっしゃったのね。生食の林檎はそろそろ飽きた頃でしょうからと、料理長がアップルパイを焼いて下さいましたの。せっかくですから、今日はお野菜を使ったお菓子はお休みして、三人でこのパイを頂きましょう?」


 そう微笑みながら入室してくるソフィア様をお通ししようと、入口のドアを押さえに立ち上がった私の背中にオースティン様の視線が突き刺さる。それと同時に笑いの砦は陥落し、私は声を立てて笑ってしまう。


 ソフィア様は「どうしたのクロエ?」と目を丸くされたけれど、後ろから「何でもないよ、ソフィア。そこの子豚は放っておいていいから、兄さんに温かい紅茶を淹れてくれないか? 林檎の生食ばかりでは身体が冷える」と負け惜しみじみた皮肉を仰るオースティン様の声が聞こえて、さらに笑いの発作が大きくなったのは言うまでもない。



***



「あら、それではお兄様のご友人の伝手を頼っても、バルクホルン様の素姓はやはり名前以外分かりませんのね?」


「ああ……そうなんだ、すまない。俺があの時倒れたりしなければ、ソフィア達は会話を続けて敵、いや、相手の動向を探ることも出来ただろうに……不甲斐ない兄を許してくれ」


「まぁまぁ、あまり卑屈になっては身体に毒ですよオースティン様。それにオースティン様のお身体が、夏のガーデンパーティーにはまだ早いことが分かっただけでも良しとしましょう」


 切り分けられたアップルパイの半分を三人で食べ終え、最近ではちょっとだけ敬遠していた高カロリーなお菓子の罪悪感から逃れるために、ひとまずあの不思議な味のするお茶を飲む。


 オースティン様だけは蜂蜜の入った紅茶でカロリーを摂って頂くことも忘れない。ヒヤッともスキッとも形容出来るけれど、慣れれば飲めると美味しいから飲みたいの間には、深くて暗い溝を感じるわ。


「クロエが俺に手厳しいのはいつものことだが、それにしても今日はいつもより手厳しい気がするのは気のせいか……?」


「気のせいではありませんけれど、それだけお兄様を心配していた証拠ですわ。だってあの日お兄様が倒れたと聞かされた時のクロエったら、凄く動揺していましたもの。あのね、」


「あーっと、そうですわソフィア様! そもそも、どうしてあの方の求婚をお受けになろうと思ったのです? 失礼ながらヘレフォード様とは全然違うタイプの方に見えたので、少々気になってしまって」


 大切な【お兄様】をからかいすぎた意趣返しなのか、突然ソフィア様が当日の私が起こした“おんぶ事件”を持ち出そうとしたので、全力で阻止した。もしもあの事件をオースティン様が知ったら、私は恥で死ねる。もっと言うのなら、オースティン様も引きこもってしまうかもしれない。


 ……でも、まさかあんなに軽いとは思いませんでしたけれど。


 いきなり大きな声を上げた私に「ご令嬢が今のような大声を出すものではないよ」と、至極一般的な教育をしてくれるオースティン様に生温かい視線を投げてから、再びソフィア様に向き直る。


 するとソフィア様は「ふふ、そこが間違いなのよ、子豚ちゃん。一度失敗したタイプと同じタイプの人間を選ぶよりも、全然違うタイプを探した方が勝率が上がる気がするでしょう?」と素晴らしい着眼点に気付かせて下さった。


 思わずその発想に感動して「成程、それは一理ありますね。流石ソフィア様ですわ!」と拍手を送っていると、今度はオースティン様がそんな私達に生温かい視線を向けてくる。


「大丈夫ですわ。オースティン様がお身体を張って下さったことで、この夏期休暇中に出席出来る場が増えましたもの。この休暇が終わる頃までには、他に二、三人良さそうな方が見つかりますわ。バルクホルン様はその内のお一人として取り置きさせて頂きましょう」


 その言葉に二人から賛成の声が上がり、オースティン様のお見舞いを兼ねたお茶会が楽しくお開きになったその日の晩に、帰宅した私を待ち受けていたのは――……腰の高さに「おかえりなさい姉上!!」と嬉しそうに突進してくる、両親譲りの可愛らしい顔をした弟のエドワードと。


 そんな弟を溺愛してやまない華やかな顔立ちのお母様に、久し振りに帰宅後に顔を合わせた柔和な顔立ちのお父様だった。


 顔面偏差値を考えれば、一人だけ橋の下で拾ってきたような容姿のこの屋敷で、卑屈な私は家族全員が揃うことを避けていたのに。家族が決して嫌いな訳ではないのだけれど、何となく申し訳ない気持ちになってしまうのだ。


 現在やや立場が悪くなっているレッドマイネ家に傾倒する娘を諫めることもなく、好き勝手にやらせてくれる暢気な両親には感謝しかない。


 私は訳もなく強張る身体に気付かれないように弟を引き剥がして、その頭を撫でながら「ただいま戻りました」と微笑む。非常に機嫌の良さそうな両親の表情に、弟が産まれてから久しく感じることの少なくなった嫌な予感を感じる。


 これは――……まさか、まさか、もしかして?


「ああ、お帰りクロエ。今日は最近ダイエットを頑張っているお前に、好みの男性のタイプを聞いてみたくてね。疲れているとは思うが、着替えが済んだら応接室においで」


 お父様からの言葉に「分かりましたわ」と応じつつ、このあからさまにすぎる発言が、ソフィア様と馬車の中で交わした可愛らしい女性同士の夢物語ではないことを感じさせる。


 今痩せたら私は間違いなく、ソフィア様が幸せを手に入れるところを見る前に【出荷】されてしまう。まだ余計な油を落としてカリカリベーコンになっている暇ではない。


 そんな唐突に出現した危機的状況から、私は再び高カロリーなお菓子を夜食として貪ることを決意した。

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