番外、恋する少女
東方の神山にて、無銘の少年が修行を始めたその頃・・・。ある貴族の屋敷では。
リーナは自室で夜空を見ながら想いを馳せていた。リーナが想っているのは当然無銘の少年の事だ。
「・・・・・・・・・・・・」
リーナは自身の胸の前で両手を組み、祈るように星空を見上げていた。いや、実際に彼女は星空に祈りを捧げていたのだ。少年を想って、祈りを捧げていた。
あの少年は東方の神山へと向かったという。その神山は死者の国に通じる禁足地。それも、戦士達の霊が集まる聖域でもある。
あの神山に足を踏み入れて無事だった者は過去、一度も存在しない。そう、一度もだ・・・。
そうなった以上、生きて帰れる可能性はほぼ皆無だ。もはや生存は絶望的だろう。
リーナの胸が、締め付けられるように痛む。痛い、胸が痛い。
「ムメイ・・・。どうか、無事帰ってきて・・・」
必死に祈りを捧げる。その姿はとても健気で、思わず涙を誘う。
リーナの脳裏に、初めて彼と会った瞬間の記憶が蘇る。彼の事を想うと、胸がきゅんっと締め付けられるような感覚に襲われるのだ。
山賊を相手にたった一人で果敢に立ち向かった姿。傷を負っても、それでも自分を守ってくれた。
リーナの為に、少年はあそこまで傷を負いながら山賊に立ち向かったのだ。
知らない少女の為に、初対面の筈なのに・・・。彼は立ち向かったのだ。
リーナは決して鈍感では無い。この気持ちが、きっと恋なのだろう。
リーナは想う。あの時、何故自分は彼を行かせたのか?何故、彼を囮に自分だけ逃げたのか?
何故、何故、何故・・・。それだけが、頭の中をぐるぐると廻る。ずっと、廻り続ける。
それが、悔しくて堪らない。それだけが、リーナの心残りなのだ。
「・・・・・・っ」
ぎゅっとリーナは唇を嚙む。その事を思うと、胸が裂けそうな程に苦しくなる。リーナは今、罪悪感で圧し潰されそうになっているのだ。リーナの頬を涙が伝う。
と、その瞬間・・・。
こんっこんっ。ドアをノックする音が響く。
「リーナ、まだ起きているか?」
「え?あ、はいっ‼」
父親の声。リーナは慌てて涙を拭う。
直後、部屋に父が入ってきた。父は娘の顔を見た瞬間、表情を曇らせた。
この時、リーナは酷い顔をしていた。かなり、酷い顔をしていた。
「リーナ、また少年の事を考えていたのか?」
「・・・・・・・・・・・・はい」
リーナも表情を曇らせる。此処まで来たら、父親も理解出来る。娘が恋をしている事を。
父親とて馬鹿者では無い。娘の幸せの為なら、恋の応援だってする。
娘の初恋、応援してやらねば親として失格だろう。そう、本気で思っている。
しかし、相手の少年が禁足地の神山に踏み入ったのだ。そうなった以上、もはや生死不明だろう。
もう、二度と会えない可能性が高いのだ。故に、無念に思う。何故、神山に入るその前にその少年を止められなかったのかと。何故、もっと早くその事実を察知出来なかったのかと。
止めていれば、こんな事にはならなかった筈なのに・・・。悔やんでも悔やみきれない。
「そんなに、あの少年の事が好きか?」
「・・・・・・っ、はい」
リーナは悲しげに目を伏せ、答える。その返答に父親は表情を暗くする。
やはり・・・。娘の返答に、父親は沈鬱な表情で唇を嚙む。
「リーナ、お前はその少年をどうして好きになったんだ?」
「・・・・・・それは」
リーナは考える。どうして、リーナは初対面の筈の少年を好きになったのか?
リーナにとって、少年とは初めて会っただけの。それこそ言ってみれば全くの他人に近い筈。
解っている。その少年はリーナを助けてくれた。自分の命も顧みず、それこそ傷を負ってでも。
しかし、恋をしたのは本当にそれだけか?それだけが、理由か?
・・・・・・ああ、なるほど。そういう事か。リーナはようやく理解した。
「私は、きっとムメイの心の中の優しさを理解したんだと思います・・・。ムメイが捨て切れなかった心根の優しさを理解したんだと、そう思います」
「・・・それは、巫女としての直感か?」
「はい」
それを聞いて、父親は渋面を浮かべる。
リーナは巫女の資質を持っている。その副産物として、直感に優れるのだ。
「リーナ、神託はもう聞こえないか?せめて、その少年の生死の事だけでも・・・」
「ごめんなさい。祈ってはいるのですが、あれ以来神託が降りないのです・・・」
「・・・・・・そうか」
それ以上、父親は何も言えなかった。ついに二人とも黙り込んでしまう。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
黙り込む二人。自然と空気も暗くなる。気分が重苦しい。
・・・やがて、リーナがぽつりと話し始めた。
「お父様・・・、あの子・・・ムメイの事なのですが・・・」
「・・・・・・ああ」
父親は真剣な顔で頷く。リーナは悲しげな表情で、話を続ける。
「とても寂しい顔をしていたんです。・・・とても孤独な、それでいて誰も信じる事が出来ない。そんな顔をしていたんです・・・とても、孤独な顔を」
「・・・・・・・・・・・・」
父親は思わず、悲痛な顔をした。それだけで、その少年の心の闇の深さを垣間見た気がした。
父親は知っている。その少年の母の、マーヤーの人柄を。彼女の許で育ったなら、何故そんな人格が形成されるというのか?まるで理解出来ない。
彼女の許で育ったなら、虐待や育児放棄など絶対にありえない。そんな事をする人では断じてない。
なら、他に理由があるとしたら・・・。先天的な何かか、或いは別の何かしらの要素があって。
「お父様、私はどうすれば良かったのでしょうか?私はあの子に何がしてやれたのでしょうか?」
「・・・・・・・・・・・・」
父親は黙り込む。娘にどう声を掛けてやるべきか、判断に迷う。
リーナは表情を更に暗くする。
「私はムメイに何もしてやれないのでしょうか?私が出来る事など、何も無いのでしょうか?」
「いや、そんな事はないさ・・・」
父親は優しく微笑んで、リーナの頭を撫でた。大丈夫、そう父親は優しい声で言った。
「リーナがその少年に対して真摯に、そして献身的に接してやればきっと心を開いてくれる筈だ」
「・・・・・・本当、ですか?」
「ああ、本当だとも。きっと彼もその心を開いてくれる筈だ。・・・その為には、リーナも根気強く接してやる必要がある」
解るな?と父親はリーナに微笑み掛けた。その笑みは、何処までも優しい笑みだった。
思わず、リーナも笑みを浮かべた。
「はい、お父様・・・。もしムメイと再会したら私、絶対にムメイの傍を離れません!!!」
「・・・うん、その意気だ‼」
父と娘は互いに笑い合った。どうやら、空気が多少和んだらしい。
・・・・・・・・・
リーナはその日、夢を見た。自分と無銘の少年が結ばれる未来を。
多くの人に祝福される。リーナとムメイは互いに笑みを浮かべ合う。とても幸せで、満たされている。
とても幸せな日々。そう、リーナはとても幸せだった。
しかし、それなのにムメイは何処か辛そうだ。
彼は優しい笑みを浮かべながらも、それでも何処か辛そうにしている。何処か、無理に笑みを浮かべている気がするのだ。
何故?何故、そんなに辛そうなのか?どうして彼は、そんなに満たされないのか?
解らない。リーナにはとても理解出来なかった。
こんなに幸せなのに。こんなに満たされているのに。それなのに、リーナにはそれだけが心残りだ。
自分では、ムメイを幸せに出来ないのか?自分では、ムメイの心を救えないのか?
何故?どうして?・・・一体どうすれば良かったのか?リーナは彼にどうしてやれたのか?
闇は、未だ深い・・・。
もう、何も解らない。リーナの夢は、其処で暗転した。