楓2
俺は橘の後を追う。
通話の様子から、楓ちゃんのせっぱ詰まった感じが、とても心許なく、気が気でなくなる。
一秒でも早く楓ちゃんの元へ行かなければ、いけない感じがするのは気のせいだと思いたい。
走っていて体力の限界に近づいて来たが、それでも俺は先を急ごうと走った。
町を抜け、とある河川敷に到着した。
堤防をあがり、河川敷を見渡すと、橘が「あそこだ」と指を指す。
その方向に目を向けると、草むらに大きなコンテナが置いてあった。
走って呼吸が乱れ、すごく苦しかったが、楓ちゃんの元へと一秒でも早く駆けつけたいと言う思いが勝っていた。
コンテナを開けると、ここは楓ちゃんの秘密の基地か?天井に電球をつるして、ほのかな明かりが楓ちゃんを照らす。
楓ちゃんはよつんばになって、俺に気がつくと、涙腺が故障したかのように、どばどばと涙を流していた。
「おい。・・・大丈夫なのかよ」
楓ちゃんの無事を確認して、俺は走りすぎたせいで息もまともに出来ない。
「どうしてこの場所が分かったの?」
「橘に聞いたんだよ」
「橘先生は生きているの?」
橘が生きていると期待を込めた表情になる。だから俺はその期待には応えられず、
「いや」
と否定した。
楓ちゃんは残念そうにその瞳をうつろわせていた。
「そんな顔するなよ」
そういって楓ちゃんの方に視線を向けると、片手にカッターナイフに手首を当てている。
「お前何やってんだよ」
疲れた体を引きずるように、楓ちゃんの元へと身を乗り出して、カッターナイフを取り上げた。
腕を見るとカッターで切りつけたためらい傷があった。
「何やっているんだよ」
叱咤する思いを込めて言う。
すると楓ちゃんは大泣きしながら、
「死のうとしても死ねないの。だから隆さんの携帯にかけたの。隆さんなら私の事、助けてくれるって」
話を聞いて楓ちゃんの事を思い出す。
楓ちゃんは本当の本当にダメだと言う時にSOSを出すと。
「迷惑だと言うことは分かっている。でも私、死ぬのが怖いし、私にはもう帰るところがない」
楓ちゃんは学校ではいじめられ、家では親に虐待を受けていると聞いた。
その気持ちを考えれば、本当に辛いんだと分かる。
事情を聞こうとしても、何かそれは彼女にとって聞いてはいけない事だと思って聞かなかった。
でも本当に行き場をなくした楓ちゃんをどうすれば良いのか?
橘の方を見ると、俺に任せる感じで笑顔でほほえんでいた。
だから俺は、
「とりあえず、家に来る?」
楓ちゃんは口をつぐんで、おもむろにその首を縦に振った。
家に到着して楓ちゃんを招き入れた時に、楓ちゃんの事がいっぱいで忘れていたが、部屋にはフィギアや美少女巫女奈々のアニメポスターが所狭しと壁に貼ってある事を思い出し、どん引きされる事を覚悟した。
でも楓ちゃんは唇を綻ばせて、
「アニメって、夢が合って良いよね」
「ああ」
と返事をして置いた。
まあ、そうして共感をしてくれるのは嬉しいが、本当に楓ちゃんをどうしようか分からない。
もし楓ちゃんの遺族が心配して、俺を誘拐犯におとしめる事だって出来るんだよな。
まあそれはともかく、楓ちゃんはシャワーを浴びたいようなので、バスルームを貸す。
何か俺の中で想像してしまう。
楓ちゃんは今バスルーム中。
やめよう。俺は落ちぶれてはいるが、そんな最低な人間にはなりたくない。そこで橘が、
「楓ちゃんにおかしな事をしちゃだめだよ」
「そんな事はしないよ」
とにかく楓ちゃんがバスルーム中、テレビでもつけて見ようと思う。
ぼんやりとテレビを見ていると、楓ちゃんがバスタオルを巻いて俺の元にやってきた。
「ちゃんと」『着替えろよ』と続けたかったが、楓ちゃんはどうしてしまったのか?バスタオルを俺の目の前ではずす。
「ちょっ。何やっているんだよ」
視線を反らして、見ないようにする。
もしかして楓ちゃんは俺にその気が合るのだろうか?なら・・・ダメだ。俺はそんな最低な人間にはなりたくない。
楓ちゃんはまだ純真無垢な女子高生だ。
男だからいかがわしい事を考えてしまうのは仕方がないが、それを実行してはいけない。
でも・・・でも。
反らした視線をおもむろに楓ちゃんに向けると、楓ちゃんは下着は着ていたが、それよりも衝撃的で残酷を俺は目の当たりにする。
楓ちゃんの体には顔以外、体全体に痛々しい痣の後がある。
「それは?」
と聞いてみると楓ちゃんは、
「・・・」
黙り込み、涙を流す楓ちゃん。
「分かったから、服を着てくれ」
楓ちゃんの着ていた、服は汚れていて、とりあえず、少し大きめになってしまうが、俺の服を貸してあげた。
楓ちゃんはお腹が空いているだろうから、パスタでもゆでてあげたいとも思って、台所に立つ。
「本当にどうしたらいいんだよ」
と橘に楓ちゃんが聞こえないように小声で言うと、
「僕はたっ君の事を信じているから、任せるよ」
何か偉く信頼されているようだ。
台所から楓ちゃんの様子をかいま見ると、部屋の隅にうずくまるように体躯座りをしていた。
パスタをゆでて八分、お皿に盛りつけて、レトルトのミートソースをかけてできあがり。
台所からたった今、作ったミートソーススパゲティを持って、居間にいる楓ちゃんの所まで運ぶ。
「飯まだなんだろ。とにかく食べれば、少し元気が出るから、無理してでも食べろよ」
こくっとうなずいて、テーブルの前に座る。
俺も夜ご飯がてら、食べようと思う。
俺は自分の作ったミートソーススパゲティを口にして、あまりおいしいとはいえない。
でも楓ちゃんは何も文句言わずに食べていた。
それだけでも俺は何か嬉しかった。
「ごちそう様」
そういって立ち上がり、食器を台所に持って洗ってくれた。
その仕草を見ていると、楓ちゃんは育ちの良い女の子なんだなって思ったりもしている。
でもそんなお嬢様でも、先ほど楓ちゃんは生死を決めるべく残酷な選択に苛んでいたのだろう。
現実的に考えれば、俺が出来ることは楓ちゃんに対して、自殺未遂を止める事だけだった。
楓ちゃんの悩みを解決させる事は、俺には出来ないだろう。
だから本当に楓ちゃんの事をどうしようか、考えなければいけない。
楓ちゃんの方をちらりと見ると、相変わらず、部屋の隅で体躯座りをしてブルーな感じだ。
事情を聞こうと思ったが、何か喋りづらい。
先ほどの体中につけられた痣を思い出すと、本当に楓ちゃんを何とかしたい気持ちは合るが俺にはどうする事も出来ない。
とりあえず非常に聞きづらいが、事情を聞くことにする。
「いったい何が合ったんだ?」
と。
すると楓ちゃんは頭を抱えて、恐ろしいものを見るような顔でおびえてしまった。
俺はその目を閉じて、事情を聞く事を諦め、楓ちゃんの事を知る橘に助け船を差し出せと言わんばかりの目配せをした。
「楓ちゃんは一人じゃないよ」
と橘は楓ちゃんに寄り添って、誰もが安心するような笑顔で言う。
でもその声は俺以外の人間には聞こえていない。だから俺はその代理として「楓ちゃんは一人じゃないよ」と優しく言ってあげた。
楓ちゃんは顔を上げ俺を見つめると、瞳に涙を流して、断りもせず俺に抱きついてきた。
「おい」
と俺は動揺してしまい、楓ちゃんは俺の胸元を涙でぬらした。
何が合ったか知らないが、楓ちゃんにとってとても辛いことが合ったのだろう。
それで俺思い出す。
小学校の頃、俺の涙を受け止めてくれた女の子がいた事を。
俺はいじめられても、いつも涙をこらえながら耐えていた。
そんな時、俺はいつも思っていた。
あいつが現れない事を。
だがその願いとは裏腹に、現れた。
「松本君」
背後からあいつの声が聞こえて、俺は振り向かなかった。
「また誰かに嫌がらせをされたの?」
後ろから抱きしめられる感触に堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
「また泣いているの?」
「泣いてねえよ」
ぶっきらぼうな口調で俺は言った。
「松本君、私に強がらなくても良いよ。だから胸を貸してあげるから、思い切り泣きなよ」
「何でお前はいつもそうなんだよ」
涙声で俺は訴える。
「友達だからだよ」
「俺はそんな風に思った事なんてねえよ」
「松本君はそう思っても、私は友達だと思っているよ」
そういって、あいつは俺を抱きしめてくれた。
俺はもう観念してあいつの胸元を涙でぬらすのだった。
男の俺が、泣き虫な俺自身を誰にも見られたくないと思ったが、こいつにだけは見られても良いと思った。
もしあの時、俺にこうして涙を受け止めている奴がいなかったら、俺は多分永遠の闇に葬られてしまっているかもしれない。
それであいつは・・・。
ダメだ。その事を思い出そうとすると心が壊れてしまうような衝撃を受けてしまう。
とにかく楓ちゃんの涙のはけ口として、俺はこうして受け止めている。
楓ちゃんがどうして死のうとしたかは事情は聞き出せないが、ただこうして楓ちゃんの涙を受け止めるだけで良いのだと、あいつに習った事だ。
涙が乾いた頃、楓ちゃんは。
「私帰りますね」
立ち上がり、楓ちゃんの顔を見ると、帰りたくないと言うような、視線をうつろわせていた。だから俺は、
「今日ぐらい泊まっていきなよ」
「それは良いよ。これ以上隆さんに迷惑かけたくないし、それに私が隆さんの家で泊まった何てばれたら、色々と誤解されちゃうじゃん」
確かに楓ちゃんの言っている事は合っている。
でもそのままほっといて、良いのだろうか?俺の中で葛藤が起きる。
橘に視線を送ると、その目を閉じて、俺に任せると言ったような感じだ。
楓ちゃんは着替えて、玄関のドアノブに手をかけた時、身を乗り出してその手を握った。
「とにかく今日の所は泊まっていけ、帰ればまた何かされるんだろ」
「でも・・・」
「良いから」
楓ちゃんは了承してくれた。
とりあえず、楓ちゃんを引き留めたのは良いが、そこで後悔してしまう。
引き留めてどうするんだろうと。
俺にはどうする事も出来ないのに、どうして引き留めたかは?
そうだよ。そのまま帰ってしまったら、楓ちゃんが真っ暗な永遠の闇に飲み込まれて二度とその姿が見られなくなってしまう事を恐れていた。
俺はもうあの時のような目には会いたくないのだ。
あの時って何だろうって考えると、心が崩壊するような感じに至り、俺は思い出さないようにした。
とにかくどうすることも出来ないが、これからの事は明日考えようと思う。
楓ちゃんにいつも俺がベット代わりにしているソファーを譲って、俺は床に布団を敷いて寝る事にする。
楓ちゃんの事が気になったが、ちらりと楓ちゃんの方に視線を送ると、楓ちゃんは小さな寝息をたてて眠っていたことに俺は安堵する。
朝の光が俺の瞳をくすぶっている。
朝が来たのだろう。
何かいい匂いがして、立ち上がり、台所に行くと、楓ちゃんが台所の前で何か作っている。
「どうしたんだよ」
「朝ご飯作ろうと思って」
照れくさそうに視線をさまよわせながら言う。
「楓ちゃんの手料理か。僕も食べたいな」
そんな事を呟く橘に楓ちゃんが今たたされている現状が分かっていないような笑顔で俺はいらだった。さらに橘は、
「たっ君。もし楓ちゃんの事が気に入ったら、一生楓ちゃんを永遠のパートナーとして人生をエスコートしてあげたら僕は安心なんだけどな?」
「何訳の分からない事を言っているんだよ」
つい声に出してしまい、楓ちゃんは、
「どうしたの隆さん」
心配そうな眼差しを俺に向ける。
「ご、ごめん何でもない」
台所から出て、
「お前はもう黙っていろ」
と橘にしか聞こえない小さな声で叱咤する。
でも橘が先ほど言った事を俺は本気になって妄想する。
俺と楓ちゃんが結婚したら、俺の念願の夢にたどり着ける。
子供は女の子一人に男の子一人が良いな。
こんなボロいアパートに暮らすのではなく、ゆとりのあるマイホームを買って幸せな毎日にしたい。
それからそれから・・・。
そこで身の程を思い知る。
俺は大学も出ていないし、かといってまともな仕事にも就いていない。
それに楓ちゃんは高校生だ。
だから俺は自分自身に自重すべきだと、肝に銘じて置いた。
ため息がこぼれそうな時、楓ちゃんの料理が運ばれてきた。
「お待たせ」
と。
「おう」
と言ってテーブルの前で腰を下ろした。
「お口に会うかどうか分からないけど、有り合わせの材料で作りました。卵チャーハンです」
見た目は卵しか入れていないシンプルなチャーハンだが、ごま油の香ばしい香りが食欲をそそる。
「おいしそうなチャーハンだね。僕も食べてみたいよ」
橘は言うが、それはシカトしておいて、スプーンを手に取り、俺は食す。
その姿を楓ちゃんは固唾を飲むような緊張した顔をして見つめていた。
「どうでしょうか?」
「おいしいよ」
それは楓ちゃんに気を使っているのではなく、俺は本心から出た言葉だった。
「本当に本当ですか?」
テーブルの向かいで座っていた楓ちゃんは身を乗り出して俺の目を見つめる。
「ほ、本当だよ」
少し照れてしまった。
すると楓ちゃんは昨日の夜から朝まで、絶望的な表情だったが、パァーとほっこりとした笑顔になった。
俺は正直、そんな楓ちゃんを見つめて何か安心してしまった。
食事も終わって俺はバイトに行かなくてはいけない。
昨日は楓ちゃんの事は明日考えれば良いと、思ったが、それは今に至って何も答えなど出なかった。
だから俺は、
「俺はそろそろバイトに行かなきゃいけないから」
「・・・」
先ほどの笑顔はどうしたのか?何かしょんぼりした表情でおもむろに首を縦に振った。
バイトに向かいながら、橘が、
「楓ちゃんの事、どうするの?」
「まあ、俺には自殺をくい止める事しか出来ない。だからほおって置けば楓ちゃんもきっとあるべき所に帰るよ」
「・・・」
黙り込む橘に対して、俺にも橘にもどうする事も出来ない事を悟ったのだろう。
それで橘は急に話題を変えて、
「あのチャーハンおいしかった?」
「ああ」
「楓ちゃんにとってはサラダ記念日曰く、チャーハン記念日だったんだね」
何て訳の分からない事に俺はスルーしてバイト先まで急ぐ。
バイトでは仕事をしながら、頭を空っぽにすると、楓ちゃんをどうしようか?考えるが、考えてもたどり着く答えはどうしようもないと言うことだった。
その度に俺はため息をこぼしたりしていた。
「たっ君たっ君」
橘が指さす方に目を向けると、またあの子が来たみたいだ。
相変わらず俺と視線が合うと、目を丸くして驚き、すぐにナイフのような鋭い視線を俺に向ける。
俺の事が気になることは分かったが、そんな目で見られると、あまりいい気分はしない。
そして彼女は店に入ってきた。
昨日はお洒落をしていたが、今日は学校帰りか?制服で髪の毛の色も黒に戻して、顔には少しだけお化粧が施されていた感じだ。
俺はとりあえず、彼女をお客様として迎え入れ「いらっしゃいませ」と声を上げる。
すると彼女は俺の元へとやってきて、「ねえ」となれなれしく声をかけられ、やはり不快な気持ちに陥ってしまう。とりあえず俺は「はい」と答える。
「制服の姿もかわいいじゃんって言ってあげなよ」
橘が俺の耳元でささやく。
昨日と同じような事には従わないと言わんばかりに、俺はシカトした。
女の子は相変わらず、不機嫌そうな顔をしてこちらを見ている。
俺もどんな事を言えば良いのか?言葉を選んでいた。
お互いに緊迫した空気が漂っていて、女の子は顔をみるみる真っ赤に染めて、そのまま走って帰ってしまった。
そんな彼女の様子を見て橘が、
「たっ君。何か言ってあげれば良いのに」
「・・・」
俺は黙って仕事に専念した。
あの女の子が俺に気があるのは分かったが、とにかく俺は誰一人女性の人を幸せにする自信などない。
それよりも楓ちゃんあの後、ちゃんと帰れただろうか?心配だった。
仕事が終わり、いつものように弁当と飲み物を買って、家に帰った。
ドアノブをひねってドアを開けると、部屋の中が綺麗でびっくりした。
それよりもびっくりしたのが、楓ちゃんが台所に立って料理を作っている姿に唖然とした。
「楓ちゃん。帰っていなかったの?」
「ちょっと待っていてくださいね。今おいしいカレーを作っているから」
何て楓ちゃんは言葉を濁している。
お互いの為に楓ちゃんを追い出すべきか?考えたが、なぜかそれは出来なかった。
とりあえず、テーブルの前に座って帰りに買った弁当を食べようとすると、楓ちゃんが俺の元に来て、弁当を取り上げられてしまった。
「このお弁当って、安さが売りのお弁当でしょ」
「えっ?」
「こういうお弁当には、添加物が大量に入っていて体には毒ですよ。だからこれは私が処分しますので、今日は私が作ったカレーを食べてください」
「・・・」
本当にどうしよう?
何とかならないのか?と言うような、視線を橘に送る。
「そんな目で見ないでよ。とにかく楓ちゃんのおもてなしを受け入れようよ」
と暢気に橘は言う。
居間から楓ちゃんの姿をかいま見ると、嬉しそうに料理を作っている。
いくら楓ちゃんが居場所がないからと言って、俺にはどうする事も出来ない。
このまま居座られて、妙な誤解をされたらたまったものじゃないが、楓ちゃんが嬉しそうに料理を作る姿を見て、追い出す訳にはいかない。
「料理が出来ました」
そういって居間にカレーライスを持って来た。俺は意を決して、
「楓ちゃん」
と真摯な瞳を楓ちゃんに向けると、楓ちゃんは俺の言うことを悟ったのか?急にその顔を曇らせてしまった。
そんな楓ちゃんを見ると胸がぎゅーっと締め付けられるような感じで何か苦しい。
だから俺はもてなされたカレーを食すことにする。
食べて見ると、それは今まで食べた事のないようなおいしいカレーだった。
「おいしい?」
と聞かれて、
「うん。おいしいよ」
それは嘘偽りのない、俺の心の底からの台詞だった。
すると楓ちゃんは先ほど曇らせた顔を綻ばせて笑ってくれた。
まあ楓ちゃんがその笑顔を見せてくれるのは俺にとって嬉しい事だが、これから楓ちゃんの事をどうすれば良いのか考えてしまうと、何か先が思いやられる。
それに楓ちゃんがいなくなった事に、その親族や関係者は大騒ぎをしているだろう。
いくらその人達の元へ帰りたくないと言っても、本当に俺にはどうする事も出来ないし、妙な誤解を招いてしまい俺が迷惑をしそうだ。
でも昨日の事を考えると、あの体中につけられた痛々しい体や、絶望的な表情で涙している姿を思い浮かべると、何とかしてやりたいとも俺は思う。
でも俺は、・・・無力・・・だ。
無力。無力。
その単語が俺の頭に思い浮かんだ時、体中が震えて、また以前のように過呼吸に陥りそうになったが、気持ちを落ち着けて、呼吸を安定させた。
その様子を目の当たりにした楓ちゃんは、
「大丈夫?隆さん」
心配され、俺は笑顔を取り繕って、
「大丈夫だよ」
って言って安心させた。
どうやら俺の心には気がつかぬうちに、思い出してはいけないパンドラの箱があるみたいだ。
パンドラの箱と言えば開けてはいけないものであると神話では語られているが、何だろうか?それがパンドラの箱なのかどうか分からないが、俺はいつかその箱を開けなければいけない感じがする。
それはそれで良いとして、まあ楓ちゃんの事だが、これ以上俺にはどうする事も出来ない。
辛い気持ちは十二分に分かるが、本当に俺にはどうする事も出来ないのが真実だ。
でも楓ちゃんにはその旨はいえない。