楓とたっくん
「大丈夫?松本君」
俺は朝の光に瞳をくすぶられ、目覚めた。
また幼い頃の夢を見たのだと、嘆息の息が漏れる。
俺がいじめられていた時、俺は誰も助けてくれる人なんていないと思っていた。
でもあの時、俺がいじめられて、密かに心配してくれる人がいる事を知ったのだ。
それに気がつくと、心が少しだけ救われたような気持ちだった。
橘は相変わらず俺にとりついて、俺の周りを気持ちよさそうに浮遊していた。
そんな橘に今日はいらだちを感じなかったが、でもやっぱりうっとうしい。
それでどうしてか、橘の生徒であった楓ちゃんとやらの事が気になってしまった。
あれから二日経過したが、彼女は大丈夫なのかと心配してしまう。
ちらりと橘に視線を送ると、朝っぱらから何がおかしいのか気持ちよさそうに、笑っていた。
「なあ」
と俺が橘に声をかける。
「うん」
と返事をする。
「一昨日会った楓ちゃんだっけ」
「うんうん」
と目を輝かせる橘。
その様子だと、俺が協力してくれると期待の込めた表情だった。
多分その通りだと思って俺は、
「楓ちゃんとやらの件、俺も少し協力するよ」
「本当に?」
と嬉しそうに笑う橘。そこで俺は、
「勘違いしないでくれよ。俺は早くあんたが成仏して、俺の前から消えて欲しいだけだからな。それと仮に楓ちゃんを何とか出来て、それでも成仏しないなら、今度こそ今後いっさい口を開かさないからな」
「それでも嬉しいよ。ありがとう」
久しぶりにありがとうと言われて、何かこそばゆい気持ちになった。それはそれで良いとして、
「あの子の事はあんたが知っているだろ。俺はその仲介として、あの子にあんたの思いを伝える。それで良いな」
「ありがとう。たっ君」
協力してしまったからにはもう遅いが、俺の気持ちはやっぱり橘を許せない気持ちも存在していた。
だからその気持ちはとりあえず、置いておくとする。
仕事中、昨日俺に気があると言った女性は今日もきた。
相変わらず俺のことをちらちらと見ていた。
目が合うと、顔を真っ赤にして、鞄で顔を隠しながらそっぽを向いたりもしていた。
改めて気がつくことだが、どうやら橘の言うとおり、俺に気があるみたいだ。
それは鈍感な俺にでも分かる。
でも俺は気持ちだけ受け取っといて、もし俺にアプローチする気なら、俺は彼女と距離を置く。
どうしてかと言うと、俺には彼女の事を幸せには出来ないからだ。
まあそんな仕事も終わって、今日は弁当屋で弁当とお茶を買って、それ以外に寄り道はしなかった。
とりあえず部屋に帰って、楓ちゃんの事がまとめられているノートに目を通した。
橘が言うには、その楓ちゃんはとても頑張りやさんで、本当にどうしようもない時に、この橘に相談していたみたいだ。
その時は泣きながら電話をしてくるみたい。
ノートを見ると、本当にそうみたいで、彼女は悲しそうに橘に打ち明けていた事を語っていたみたいだ。
それに相談だけでなく、その楓ちゃんは橘の声を聞いただけでも、それを勇気に変えられるともつづられていた。
一昨日の万引きしたのは、もはや橘が亡くなって、その思いを伝える人がいなくなり、そういった行動に出てストレスを発散させて来たのだと、橘は予想する。
彼女は今でもいじめに遭っている。
どんないじめを受けていたか、ノートを見てみると、毎日便所につれて行かれて、モップで顔を突きつけられたり、試験の時、白紙のまま提出させられていたりしている。
その内容を見てみると、俺の頭の中に過去に俺をいじめた連中のその嫌らしい笑みが思い浮かび、気持ちを共感でき、憤りを感じる。
楓ちゃんとやらは橘に救われていたみたいだ。
だから今の楓ちゃんが存在しているのだろう。
もし誰も打ち明ける人がいなかったら、自分の中の弱い気持ちに打ちひしがれ、永遠の闇に葬られてしまったかもしれない。
俺もいじめられた時、俺を心配して涙を流してくれる奴がいた。
同じように俺もそんな奴がいなかったら、闇に葬られていただろう。
・・・。
それで俺を心配して慰めてくれた奴は・・・。
やめよう。
思いだそうとすると、なぜか心が壊れそうな気持ちに翻弄されてしまいそうだ。
とにかく思い出したくない事を無理して思い出さなくても良いと思う。
それはそれで良いとして、その楓ちゃんの理解者であった橘は亡くなり、今はその打ち明ける人がいなくて、あのような犯行に至ったのだと、俺も橘も分かった感じだ。
そして橘は言った。
俺に楓ちゃんの理解者になってくれと。
アドバイスは幽霊である橘がすると。
本当に今でも信じられないが、橘は幽霊でその存在や声は俺にしか気づく事はない。
次の日の朝、仕事前に楓ちゃんの自宅の前で楓ちゃんが通学するのを待つ。
時計は午前八時を回っている。
本当にストーカーみたいで嫌な感じで、この件を引き受けてしまったことに少しばかり後悔している。
それはそれで良いとして、早速楓ちゃんが自宅から出て来た。
「よう」
と俺が声をかける。
すると楓ちゃんは少し驚いた顔をして、顔をこわばらせギラリと光ような眼差しで俺を見た。
「万引きの件で私に弱みを握るつもりなら、もうばらしても良いよ」
「別にそんな弱みとかじゃなく、俺は橘に頼まれて来たんだよ」
「橘先生」
楓ちゃんとやらは視線を俯かせて、瞳をうるわせた。
きっと橘に対して彼女も、とても辛かったのだろうと何となく分かった。
「あなた橘先生の何なの?」
何なのと聞かれて、俺は困惑してしまう。
まさか俺にとりついて、その存在や声は俺以外、気がつかないんだと言っても、きっと信じてくれないだろう。だから俺は、
「何なの?と聞かれても俺にも分からないけど、あんた学校で散々ひどい目に合っているみたいじゃん。それで橘に聞いたけど、橘の話を聞くだけでも、それだけで明日に繋がるように生きてこれたって言っていたみたいじゃん。
おこがましいけど、俺はその代わりというか、まあ仲介人として俺は橘があんたに伝えたい事を伝えに来たんだよ」
「何よ伝えたい事って?」
「あんたは一人じゃない。いや一人にはさせない」
「くだらない」
背を向け去ろうとしたところ、楓ちゃんの肩に手を乗せて、振り向いた楓ちゃんは、
「何よさわらないでよ」
ちょっと傷ついたが、それはさておいて、
「これ」
と言って俺の携帯をメモった紙を差し出す。続けて、
「どうしてもダメなときは、万引きなんてしないで、俺の携帯にかけてこいよ。
これだけは言っておくけど、どんな事があっても不良になんかなったって、何も良い事はないからな」
と。
彼女はメモを受け取って鞄の中に入れて、ふんぞり返って行ってしまった。
しばらくその後ろ姿を見て、ぼんやりとしていた。
そして楓ちゃんの後ろ姿が見えなくなって、俺はあることに気がつく。
時計を見ると、八時二十分を回ったところだった。
「やべえ。仕事に遅れる」
バイト先であるコンビニにたどり着いたのは九時一分で一分の遅刻だった。
一分遅刻したくらいなら許してくれると思ったが、店長は、
「お前、何遅刻しているんだよ」
俺はがみがみ言われて、給料から罰金として千円ひかれる事になった。
今まで遅刻したことがないのに、それくらい大目に見て欲しいと思ったが、仕方がないと嫌なことをすべて仕事に打ちこんだ。
こんな事なら楓ちゃんの件に関わらなければ良かったと、思ったりもしている。
でも橘に約束してしまったのだから仕方がない。
それに俺もなんか楓ちゃんの事が心配だ。
メモした携帯にかけて来なかったら、俺はもう楓ちゃんの事に関与しない。
そこは橘と話し合って、もしかけて来なかったら、楓ちゃんを信じるしかない。
きっと楓ちゃんは困難を乗り越えて行く事を。
でも俺の気持ち的にはあのまま罪を繰り返して、心を真っ黒に染めて永遠の闇に葬られるんじゃないかと心配するが、俺は彼女に対して言うべき事は言ったから、心配の気持ちを押し殺して、関与するのはよそうと思う。
バイトが終わって、携帯を確かめると、着信履歴にはなかった。
どうやら俺は心配で、楓ちゃんから連絡がある事を期待していた俺自身が、存在しているみたいだ。
話は変わるが俺は橘に、
「今日はあの子来なかったな」
「いや、来ていたよ」
「いつ?」
「二時くらいにお店には入ってきてはいないけど、外からたっ君に気がつられないように見ていたよ」
本当かよ。何て疑ったが、こいつはそんな野暮な嘘を言う奴じゃないことを俺は知っているし、それに俺にそんな嘘をついたって何の得にもならないし。
まあそれはそれで良いとして、
「楓ちゃん大丈夫かな?」
とちょっぴり俺は心配の気持ちを橘に知らせた。
「僕の予想だと、きっと来るよ」
「どうして分かるんだよ」
「最初彼女の表情を見た時、本当にせっぱ詰まったような感じだったけど、たっ君に声をかけられた時、少しばかり安心したような表情をしていたよ。
僕から見たら彼女は今頃、電話しようか電話しまいか部屋で悶々としているんじゃないかな?」
と橘は言う。
まあどちらでも良いけど、何事もなければいいと思っている。
テレビをつけながら、コンビニで買ってきた弁当を食しながら俺は見ていた。
やっぱり気になるのが、俺の携帯である。
楓ちゃんがちょっと、いやちょっとどころじゃないかもと言う感じで心配だった。
この俺の心配を取り除くのは、楓ちゃんが何事もない事を証明してくれる事だけだ。
俺はそれが分からないから心配なのだ。
ふとテレビに注目すると、ニュース番組で、高校でいじめを受けて自殺してしまったと言う悲しい事が報道されていた。
その事を楓ちゃんと重ねると、ますます心配になってしまう。
十時を回り、いつもならシャワーを浴びる時間だが、楓ちゃんが俺にかけてこないか心配で携帯を見つめる。
「そんなに心配かい?」
橘にそう言われて気持ち的に憤ったが、ここは素直になり、
「ああ」
と返事をしておく。
「実を言うと僕も心配なんだよ」
俺は橘に視線を向けて、
「信じているんじゃなかったのかよ」
「信じているよ。それに心配もしているよ。信じるも心配もまた矛盾するようだけど、また別の事だと僕は思うんだけどね」
また理屈っぽい事を言っている事に対して、憤りを感じたが、押さえてため息と共に橘に伝える。
「そうかよ」
って。
次の日のバイトの時間帯、俺はいつものように仕事を熱心にやっている。
しんどいが、人間は命を懸けて金を稼ぐしかない。
それはサバンナで生きるために食料を狩るライオンのように。
最初はそんな暮らしはダサいと思っていたが、最近では自分で言うのもかっこいいことだとも思っている。
それに橘の言う通り、そんな俺を見ていた奴がいたことに日に日に自分に自信がついてきた。
そんな中でやっぱり心配なのは楓ちゃんの事だった。
でもここ一日経過して、心配な気持ちが徐々に薄れていく。
とにかく思い返せば、俺はちゃんと彼女には伝えたいことは伝えたのだ。
だからもう気にしたって仕方がない。
それに考えてみれば、俺には関係のない事だったのだから。
ふと考えていると何かおなかが空いてきた。
時計を見ると午後三時を示している。
客足も落ち着いてきたので、俺は休憩をとることにする。
そんな時である。
俺の携帯に着信が入った。
友達の少ない俺に着信が入る事は極めて珍しいことなので、以前俺の携帯にかけて来いと言った楓ちゃんじゃないかと思って携帯を見ると、登録していない番号で、楓ちゃんだと思って出た。
「もしもし」
「あの。桶川楓さんのお兄さんと伺って電話をしたのですが?」
楓ちゃんの声ではなく、何か声質からして、中年のおじさんっぽい声がして、分からなくてその話の続きを促すと。
「あの。あなたの妹さんの楓さんがうちの店に万引きをしましたので、とにかく保護者のあなたに電話を入れたのですが」
話が見えてきた。
つまり楓ちゃんの万引きが発覚して、親に言えず、俺を兄として仮定したのだろう。
お店の場所を聞いて駆けつけると、楓ちゃんは口をつぐんでばつが悪そうに黙り込んでいた。
そしてお店の店長らしき中年の男は、
「警察には通報しませんでしたが、妹さんに今後このような事がないように、厳重に注意してください」
おっしゃる通りだと思って、俺は楓ちゃんの兄と偽って、「すいません」と謝っておいた。
「話はそれだけです」
とにかく帰って良いみたいなので、相変わらず視線をさまよわせながら困惑している楓ちゃんの手を取り、
「ちょっとこいよ」
と強引に連れ出した。
外に出て楓ちゃんは、
「離してよ」
つかんだ腕を思い切り振り払い、楓ちゃんは逆ギレ状態だった。
「お前、自分で何をしたのかわかっているのかよ」
「私はそんなちっちゃな子供じゃないから分かっているよ。あなたを利用したことは謝るよ」
「じゃあ、分かっているなら何でそんな事をしたんだよ」
「・・・」
楓ちゃんは視線を逸らして、黙り込んでしまった。
「聞いているのかよ」
「悪かったわよ。その分体で返すから」
鋭い視線を俺に向け、そう言う。
ため息と共に、視線を橘に向け、俺は嘆息してしまう。
本当にそんな事を言われると、俺の心が傷ついてしまう。
だったら俺は、
「じゃあ体で返してくれよ」
すると楓ちゃんは、恐ろしい物を見る目で俺を見つめる。
その目からして、楓ちゃんは勢いでそんな事を言ったのだと思う。
だからその手をつかんで人目のつかない路地を回った。
「ここなら存分に出来るよな」
楓ちゃんは黙り込んで、怖がってその瞳から涙がこぼれ落ちそうな感じだ。
楓ちゃんの方に身を乗り出して近づくと、思い切り目をきゅっとつむって、体を小刻みに震えていた。
肩に手を添えて俺は言う。
「そんな事も出来ないくせに軽々しく言うなよ」
と俺は楓ちゃんを叱るように大声で言った。
すると楓ちゃんはその瞳からあふれんばかりの大量の涙をこぼして「ごめんなさい」と連呼した。
そんな楓ちゃんを見ると、橘のノートを見たとおり、本当は優しくて悪い子ではないのだろうと。
楓ちゃんの涙が落ち着いた頃、俺と楓ちゃんは近くの公園のベンチに座った。
「あんたの事は橘に聞いているよ」
「あなたには私の気持ちなんて分からないよ」
「聞いてみたところ、あんたいじめに遭っていたみたいじゃないか、少なくともその辛い気持ちは分かるよ」
「・・・」
再びその瞳から大粒の涙が頬を伝っている。
そんな楓ちゃんを見ていると、何かいたたまれない気持ちになり俺は、
「とにかく自棄を起こしたい気持ちは充分に分かるよ。でも楓ちゃんがそのまま罪を繰り返しているうちに、取り返しのつかない事になって、永遠の闇に飲み込まれてしまう事だってあるからね」
「永遠の闇?」
涙を拭いながらそう聞いてくる。
「そう。そこに落ちたら二度と戻れない永遠の闇」
俺がそう説明すると、楓ちゃんは固唾をのんで俺を見つめる。
ちょっと楓ちゃんには刺激が強すぎたかもしれないが、それは楓ちゃんの為だと思って心を鬼にして言う。
「俺もいじめられた時、楓ちゃんのように自棄を起こしたい気持ちに陥った時なんて数え切れないほど合った。
でもニュースを見て事件が報道されているのを見て俺は思うんだ。
こういう事件を起こす人間って心が弱いんじゃないかなって。それで誰の心にも存在する悪魔に翻弄されて許されない罪を犯してしまう
それで永遠の闇に葬られる」
すると楓ちゃんは立ち上がり、俺に面と向かって涙で真っ赤に染まったその瞳を突きつけはっきりとした声で言う。
「じゃあ、どうして橘先生は死んでしまったの?どんな辛い状況でも、橘先生に言えば、私は私でいられた・・・私だってこんな・・・」
言葉がこみ上げる涙で遮られたみたいだ。
だからその言葉の続きを俺は言う。
「本当はそんな事したくないんだろ。万引きして、その鬱憤をはらさなければ、楓ちゃんは楓ちゃんでいられなくなるからだろ。
俺は橘の代わりにはなれないけど、橘があんたに言いたい事を代弁して言っているんだ」
すると楓ちゃんは何の断りもなく俺にしがみついて、俺の胸元をその瞳から流れる涙で濡らす。
俺はそんな楓ちゃんに驚いて、
「お、おい」
と狼狽えてしまう。
楓ちゃんは嗚咽を漏らしながら泣いている。
きっと橘が死んでから、誰にもその悲しい気持ちを打ち明ける人がいなかったのだろう。
橘に視線を向けると、橘は穏やかな笑顔で俺と楓ちゃんの様子を優しく見守っている感じだった。
それはともかくこうして楓ちゃんと言う女の子に抱きしめられると、鼻孔に女の子特有のいい匂いがして、俺の中の煩悩が働いてくる。
このまま楓ちゃんを・・・。
ダメだ。
そんな事をしたら俺は本当に最低な人間になってしまう。
そんな気持ちを押し殺しながら、抱きつく楓ちゃんをそっとしていた。