ズッキーニ
夜になり、花里さんと別れて、頭の中を一人にすると、先ほどの花里さんの涙が気になった。
彼女の事情を聞いて分かる事だが、彼女は俺よりも辛い目に遭っているんじゃないかと思う。
彼女の過去に何があったのだろうと、考えて悩みそうになった時、俺のスマホに着信が入った。
画面を見てみると、花里さんからだった。
「もしもし」
「松本さん?」
と俺なのか確かめるように言う。続けて、
「松本さん。もしかしたら、さっきのあたしの涙を見て、悩んでいるかと思って電話したんだけど」
図星であり、隠してもばれてしまう事だと思って俺は正直に言う。
「うん。悩んでいる。花里さんの辛い過去を俺は聞きたい」
「・・・」
黙り込む花里さんに対して通話の向こうの花里さんの涙を想像してしまう。
そんな花里さんを想像すると、何か分からないけど、俺は辛くなってくる。
花里さんは、涙を堪えるような口調で俺に言う。
「ごめん。あたしも松本さんと同じように、思い出すだけでも、辛くなる記憶があるんだ・・・だからそれはお互いの事をもっと知り合ってから話し合いましょう」
通話口の向こうの泣き顔スマイルの花里さんを想像して、何か辛い気持ちが少しだけ楽になった感じだった。
そんな調子で花里さんは続ける。
「あの時、感じたけど、松本さんも思い出したくない過去があるって分かる」
あの時と聞いて、俺は以前、花里さんの前で怒鳴ってしまった過去がよぎる。
思えば、あまり良い思い出ではない。
とにかく話は終わって、思い出したくないお互いの過去を語り合うのは、もっとお互いの事を分かりあえたらと言う事で話は終わった。
通話が切れた時、気持ちは楽になった。
でも花里さんの思い出すだけで辛い過去の事を想像してしまい、もしかしたら、俺と同じように・・・やめよう。とにかく俺が一人で悩み苛んでいると、俺の彼女である花里さんは辛いと言っていた。
だから考えないように全速力で家まで走った。
家に到着して橘先生は、
「うん。そうやって気持ちをコントロールする事も大事だね」
と、その台詞から読みとると、きっと俺と花里さんの話を聞いていて、分かっているんだと思った。
あえて言わないのは、橘先生の教え方だ。自分で少しずつ考えて分かって行くのが大事だと言いたいのだろう。
それは教科書にも載っていない、今は勉強も大事だが、その気持ちを知る事の方が大事だと、橘先生は言いたいのだ。
以前はそんな気持ちよりも、勉強の方が大事だと思っていた自分がバカだったんだな。
そんな事を今更気がつくなんて、何か辛い。
でも始める事に橘先生は言っていたが、どんな年でもやる事に遅すぎる事はないと教えてくれた。
だから俺は少し胸を張って生きれば良いのだと思っている。
寝る前に気がついたが、だから俺は花里さんの事を好きになれるのだと。
次の日、今日、花里さんは用事があるので、勉強にはつき合えないと言ってた。
だからって、勉強をおろそかにしてはいけないと花里さんに念を押されていたので、勉強を始めている。
だから博識である橘先生に教わって家でやろうと思ったが、これからは人に頼らないで自分で出きるようにしたいので、花里さんといつも勉強をしている仕事場近くの喫茶店でやることにする。
中に入ると、お馴染みの高齢で品格があるマスターに、
「今日は一人かい?」
「はい」
「どうしたの?彼女と喧嘩でもしたの?」
何て冗談混じりに言って、何か親近感を感じて、
「そんな事はないですよ」
と笑ってしまった。
そんなマスターも俺を歓迎してくれた。
勉強も一息ついて、つい楓ちゃんの事を思う。
元気でやっているか、ちゃんと飯は食っているかと。
とにかく俺は楓ちゃんを信じるしかないだろう。
勉強も切り上げて、午後八時を回っていた。
夕食は外で食べようと思う。
どこで食べようかと、思って風俗店が並ぶ、繁華街にたどり着いた。
何度か客引きの店員に声をかけられたが俺はシカトする。
そんな時である。
「たっ君」
と橘先生が何かせっぱ詰まったような口調で俺を呼び、振り向いて橘先生の方に振り返ると、セーラー服を着た楓ちゃんが繁華街の中央に位置する噴水広場の石段に座っている。
「楓ちゃん」
と身を乗り出して近づこうとしたところ、俺の声は届いておらず、何かいかにも素行の悪そうな男に愛想を振りまいて、立ち上がった。
再び声をかけようと思ったが、俺は怖くて後込みしてしまう。
そこで俺はこのまま楓ちゃんをほおっておいたら、・・・また嫌な事を思い出しそうになり、最大限の勇気を振り絞って、楓ちゃんの元へと行く。
「楓ちゃん」
今度は聞こえたみたいで、楓ちゃんが俺を見ると目を丸くして驚いて、ばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。
素行の悪そうな兄ちゃんが、
「何だよてめえ」
何て怒鳴られて、俺は後込みしそうになったが、再び最大限の勇気を振り絞って、叫び声を上げて、素行の悪そうな兄ちゃんを驚かせて、その隙に楓ちゃんの手を取って走った。
兄ちゃんは追いかけては来なかったものの背後から「待てよ」何て叫んでいた。
とにかく楓ちゃんの手を握って俺は走った。
結構な距離を走って、とある公園にたどり着いて、俺は息を切らしていた。彼女も同じように息を切らしていた。
「何、やって・・・いるんだよ」
呼吸が整わず、訥々とした感じで言った。
「・・・」
すると彼女は俺の顔を見て、反らしてしまった。
俺にあんなところを見られて罰が悪いという気持ちだろうか?とにかく俺は、
「何やっているんだよ」
と怒鳴ってしまった。
彼女はしゃがみ込んで泣きながら、『ごめんなさい』と連呼していた。そこで橘先生が、
「たっ君。気持ちは分かるけど、言い過ぎだよ」
と言われて俺は冷静に考えて、
「ごめん」
と楓ちゃんに謝った。
楓ちゃんの話を聞かせて貰うことにする。
話したくない事でも俺は心を鬼にして、何があったかを聞くことにする。
そういえば、楓ちゃんは学校でもいじめられ、家庭でも虐待を受けていると言う。
それは聞いたが、彼女はもっとひどい目にあっているみたいなのだ。
学校でのいじめも家庭内の暴力もエスカレートして、聞いた俺でも鬱になりそうで想像すらできない内容だった。
話を聞いた時、それが人間のする事なのかと俺は疑ってしまうが、楓ちゃんがそんな嘘をつくようなひどい女の子ではない。
今まで俺に話せない気持ちは分かった。
でも楓ちゃんは俺に話して、少し落ち着いた表情をしていた。
多分、俺に話しただけでも、気持ちにゆとりが出来て、少し安心したんだと思う。
だが、楓ちゃんは痛烈な思いを込めて言う。
「私の事はもうほおっておいてよ。この事を隆さんに言ったって、どうにもならない事じゃない」
「・・・」
確かに彼女の言った事は紛れもない真実だ。そう、とても残酷な真実。
俺にどうする事も出来ない。
じゃあ、ほおっておくしかないのか?
そう考えると、またあの事が思い浮かびそうになり、心が引きちぎられそうな思いにされる。
だから楓ちゃんをこのままにしておくわけにはいかない。
そして俺は意を決意して、楓ちゃんの肩に手を添えて。
「俺に任せろ」
と言ってしまった。
「無理しないでよ。そんな事、隆さんに迷惑でしょ」
「とりあえず、うちに行こうよ」
ちょっと強引だが、楓ちゃんの華奢な手を取り、俺のうちまで連れていった。
たどりついて、楓ちゃんを中に入れ、不安そうな表情で部屋の隅にうずくまっていた。
「お腹すいているだろ」
黙ったまま頷く楓ちゃん。
最近料理なんかもして、レパートリーも増えていった。
だから俺の得意なパエリアでも作ってあげる事にした。
出来上がり、楓ちゃんの元へと運んでいった。
楓ちゃんは一口食べて、
「おいしい」
と言ってくれた事に何か嬉しく思って、
「俺の自信作何だ」
何て言ったら、唇を綻ばせてようやく笑ってくれた事に何か安心してしまう。
きっと行き場をなくした楓ちゃんは一人で不安でいっぱいで長い時間何も食べないで、行く宛もない町を歩いていたのだろう。
辛かっただろう。
その孤独の悲しみは、手に取るように分かる。
楓ちゃんは食べ終わって、
「ごちそう様」
と立ち上がり、
「じゃあ、ありがとう」
と言って帰ろうとしたのか?俺は心許なくなって、その楓ちゃんの背後から、腕をつかんだ。
「どこに行くんだよ」
「分からないけど、これ以上隆さんに迷惑はかけられないよ」
何て心配も迷惑もかけたくないのか?悲しみを押し殺すように楓ちゃんは笑っている。
一瞬心配はいらないと思ったが、それは楓ちゃんのまやかしだと言う事に気がついて、楓ちゃんを抱きしめた。
俺の思ったとおりであり、俺がその少しの衝撃を与えたら、壊れてしまいそうな楓ちゃんを抱きしめたら、その笑顔はすぐに壊れ、俺の胸で思い切り泣いている。
「やめてよ。隆さん。そんな事をされたら私、隆さんの事が好きになっちゃうよ」
「・・・」
それは困るが、俺は今楓ちゃんを離してはいけない気がする。
離したら俺はまた・・・。
とりあえず、今日のところは楓ちゃんの事を引き取る事にした。
楓ちゃんは余程疲れていたのか?その瞳を閉じて小さな寝息をたてて眠っている。
さっきは威勢良く『俺に任せろ』何て言ってしまったが、本当にどうしよう?と橘先生の方を見る。
「いっそうの事、楓ちゃんともつき合っちゃう?」
「何考えているんだよ」
とつい大声で言ってしまう。
「冗談だよ」
大きなため息がこぼれて、時計を見ると、深夜一時を示している。
眠らなくては、明日仕事にも勉強にも支障が出るだろう。
本当に自分の事を大切にしたいなら、楓ちゃんの事をほおっておくしかなかったのかもしれないが、その選択肢は何かいけないような気がする。
もしかしたら、楓ちゃんの事が心配なんじゃないかもしれない。ただ俺は同じ事を繰り返して、あのような思いをしたくないだけなのかもしれない。
だから俺は橘先生に、
「俺は別に楓ちゃんの事が心配何じゃないかもしれない。ただ俺は・・・」
その続きを語ろうとしたが、あまりにも恐ろしくて言えなかった。すると橘先生は、
「それで良いんだよ」
「えっ?」
橘先生の顔を見て、疑問の声が漏れた。
「まあ僕はたっ君が間違った事をしているとは思えないし、たっ君の過去にどんな辛い事があったか知らないけど、その思いがたっ君をつき動かしているんだと、僕は思ったよ」
「でも俺は思い出したくもないし、たまに思い出そうとすると、心壊れそうな気持ちになるんだよ。本当に言うと忘れたい」
「僕が思うには、その事を忘れてしまったら、楓ちゃんを助けよう何て思わなかったと思うよ」
「どういう事だよ」
橘先生の発言にいらだちを感じて、威圧的な口調で言ってしまった。
「まあ、それは自分で考えるんだね」
自分で考える。それは橘先生の口癖だ。
そこで俺は考える。
橘先生の言うとおり、あの思い出したくもない過去があったからこそ、楓ちゃんを助けたいと言う気持ちになるのだろう。
でも忘れたい。
そこでピンと来て、そういった忌まわしき過去があって、心引きちぎられそうな思いも人間にはあって良いのかもと。
だから忘れなくて良いのかも、いや忘れてはいけない事なのかもしれない。
忘れてしまったら、楓ちゃんを助けようなんて思わなかったのかもしれない。
そこで分かった事だが、忘れていたら、俺は楓ちゃんの事を見捨てていただろう。
どうする事も出来ないが、それでもどうにかしたいなんて思わなかっただろう。
まあ、それはそれで良いとして、楓ちゃんをどうしようか、とにかく考えるしかないだろう。
楓ちゃんにはもう頼る人がいない。
俺は本当の孤独の辛さを知っている。
それは本当に目の前が真っ暗になって絶望に苛み、死にたいけど死にきれない、この世の生き地獄みたいなところだ。
俺と同じ人間である楓ちゃんも味わったのだろう。
そう思うと楓ちゃんの事をほおっておくことは出来ない。
だから俺にはどうする事も出来ないなんて、ほざいてないで考えなくてはいけない。
でも・・・。
「スッキーニ」
って言ってごらん。
どこからか?橘先生の声が聞こえる。
「ズッキーニ?」
と良いながら、俺は目覚めて、俺の胸元を思い切り掴みあげて、必死になって言っている坂下さんがいた。
「何であなたがその事を知っているの?」
って。
とにかく何で俺が坂下さんに攻められなきゃいけないのかとりあえず、周りを見てみると、そこは俺が住むアパートの廊下だった。
どうやら気がつかないうちに、俺は夢遊病にでも陥ったのか、廊下で坂下さんに胸元を掴まれ詰問されていた。
「聞いているの?」
掴む胸元の手が力を増す。
とにかく苦しいので掴む胸元の手を振り払い、
「何ですか、いきなり?」
「質問に答えなさいよ。何であなたが橘先生しか許していない、あたしの呼び名を知っているの?」
「呼び名って・・・ズッキーニ?」
「そうよ」
そこで俺のあたりをふよふよと浮いている橘先生の顔を見ると、何やら笑顔でウインクをしている。
その仕草から見て、この坂下さんも橘先生のかつての生徒だと分かった。
どういう因果関係があるか知らないが、橘先生は亡くなって俺に取り付いて俺以外見えないなんて言っても、信用してくれないだろう。
まあとりあえず俺は、
「坂下さんも橘先生の生徒だったんですか?」
と聞いてみる。
「生徒って言うかあたしの恩人よ。借りは返したいと思ったけど、もうあの人はいないと聞いたわ」
「それでズッキーニ?」
気になって聞いてみる。すると、再び胸元を掴まれて、
「それはあの人とあたしとの秘密の合い言葉みたいなものよ。何であなたが知っているの?」
真実を聞いて貰おうとしたが、話がややこしくなりそうなので俺は黙っていた。
しばしの沈黙。
橘先生は俺のそばにいる。
そのズッキーニって言う単語にどんな因果があるのか俺には分からない。
だっていきなり、橘先生に寝ぼけていた俺にそう言えって言うものだから、言ってみたら、坂下さんに胸元をつかまれて詰問されたのだ。
聞いてみれば、そのズッキーニっていう単語は橘先生と坂下さんをつなぐ、秘密の合い言葉みたいだ。
その秘密を口にした俺に対して、橘先生が坂下さんを裏切ったんじゃないかと疑ったのだろうか?
でも坂下さんは、
「まあ、良いわ。どうしてあなたが合い言葉を知っているのか分からないけど、あの人は人を裏切るような事はしないわ」
と聞いて、橘先生の偉大さを改めて知った。
それで話が終わって、とりあえず、楓ちゃんを俺の家に留守番させて、俺は仕事に出かけた。
働いている時、俺は楓ちゃんの事でいっぱいだった。
とりあえず、留守番をさせたが、居なくなるんじゃないかと思って心配になってくる。
仕事が終わって、いつものように花里さんは、俺が勤めるコンビニに赴いていた。
「今日はごめん。一緒に勉強できない」
すると花里さんは俺の顔をジッと見つめて、俺の心を読むような視線を送っている。
この人に嘘は通じないと思って、俺は事情を説明した。
「なるほど、以前言っていた楓ちゃんを引き取っているのね」
「・・・」
誤解されるんじゃないかと、思って黙っていると、
「安心して、あたしは松本さんが楓ちゃんに対して、やましい事なんてしない人だって知っているから」
「そう」
花里さんの言うとおりにして俺は安心してしまう。
「とにかく。楓ちゃんの件だけど、あたしも協力させて貰うから」
「えっ?」
と俺は驚く。
それはちょっとまずい気がするが、花里さんはそんな考える俺に余裕を与えないかのように、鋭い視線を俺に向ける。
仕方がないと思って俺は、
「じゃあ、お願いするよ」
まあ、協力してくれる事はありがたいが、楓ちゃんの今の状況を花里さんに何が出来るのか?分からなかったし、何かややこしいいざこざが生じるんじゃないかと懸念してしまう。
でも心強い。
花里さんも協力してくれるので、とりあえず、楓ちゃんを花里さんにあわせる事になり、俺が住む家までついて来てくれるみたいだ。
家に到着して、楓ちゃんはちゃんと俺の家でおとなしく留守番しているか心配になった。
その事を花里さんに話したら、『そんなに心配なら首輪でもつけておきないさいよ』と、冗談にも程があるような事を言っていた。