つけペンは難しい
新見さんは、現在、月刊誌数冊に、Nicoというペンネームで漫画を連載している、漫画家さんだった。現在人気上昇中の、売れっ子漫画家らしい。
「あ……この絵、見たことあります」
僕が、壁に張られた漫画の販促ポスターを見てそう言うと、新見さんは照れたような顔をした。
「そ、そうなの?どれか、読んでみた?」
「あ、いえ、表紙とか、販促のポスターとかを見ただけで、読んだりはしてません」
「……あっそ」
新見さんは、わかりやすく不機嫌になる。
「まあ、いいわ。私のはごりごりの少女漫画だからね。匠太君が読むわけないか」
「あ、いえ、僕、漫画自体あんまり……」
「……まあいいわ!」
新見さんは何かを吹っ切るように、手を打った。
「とにかく、締め切りが迫っているの!明日から、アシスタントさんたちにも入ってもらう予定だし、これから忙しくなるのよ!一晩なんて、待ってられないわ!」
「……なるほど……でも、僕は何をしたらいいでしょう?」
僕は、絵なんて描けないし、漫画家さんの仕事の内容もわからない。
「匠太君にやってほしい事は、一つだけよ。アシスタントさんの前で、私を演じて欲しいの。専門的なことは無し。挨拶とか。他の事は、全部私がやるわ。ええと、私の仕事について、ざっと説明するわね」
新見さんはそう言うと、机の上にあった、原稿用紙をつまみ上げた。そこには、女子高生のイラストが鉛筆でざっと描かれていた。
「これが、今描いている漫画の主人公。今回描くストーリーは、もう、決まっているわ。後は、これをもとに、原稿を完成させるだけ」
新見さんは、下書きの原稿というものを見せてくれた。落書きのような丸と線が描かれているだけで、僕にはさっぱりわからなかった。
「人物には、私がペン入れするの。背景はアシスタントさんたちにお願いしているのよ。あ、これ。ここに背景がペンで入れば、完成ってわけ」
そう言って、人物にペン入れされている原稿用紙を見せてくれた。それは、ほとんど出来上がっているように見えた。しかし、背景が、まだ鉛筆書きだ。
「なるほど、この背景をペンで描けば、完成なんですね?」
「そうよ。トーンとか消しゴムかけとかもあるけどね。で、その指示をアシスタントさんに出すのも、私の仕事なの」
「わかります」
「でも、このままじゃ、「私」は指示を出せないわ」
僕の姿の新見さんは、そう言って僕を見る。
「僕が、代わりに、指示を出しますか?」
「たぶん無理。どういうイメージで描くかを言葉で説明しないといけないから。だから、今、チーフアシスタントの子を呼んだの。もうすぐ来てくれるわ。その子に、今の状況を説明してほしいのよ」
新見さんは、すがるような目で、僕を見て、言った。
チーフアシスタントとは、アシスタントの中でもリーダー格の人らしい。
漫画家の先生と、仕事の進行の打ち合わせをして、アシスタントさんたちに代わりに指示を出す場合もあるらしい。
漫画家Nicoを支えているチーフアシスタントは、千早アイさんという女性だ。新見さんとは同じ年らしい。
彼女は、新見さんからメールで呼ばれ、いったい何事かと、やって来た。
千早さんの家にいる「僕」の姿を見て、新見さんの姿をしている僕に、「どうしたの?」と聞いてきた。「僕」の事を、かなり不審そうに見ている。
僕と新見さんは、何があったかを簡単に説明した。驚いてはいたが、千早さんは、もちろん信用したりはしなかった。
「え?なに?何かのゲーム?どっきり?」
そう言って、半笑いになった千早さんだったが、僕の姿をした新見さんが、つけペンというものを手に、紙に絵を描き始めると、さすがに顔色を変えた。
手慣れた手つきで、Nicoの漫画の主人公である、女子高生のイラストを描き終えた新見さんは、「どう?これで信じてくれた?」と千早さんに聞いた。
「ちょ、ちょっと待って、確かに、これは楓の絵だけど……」
そう言って、千早さんは新見さんの姿をしている僕を見る。
僕も、新見さんにペンを借りて、絵を描いて見せることにした。
このつけペンというものは、ものすごく描きにくかった。インクをつけすぎると、垂れるし、普通のペン先とは違うらしくて、力を入れすぎるとがたがたと線が崩れる。自分の手で、乾ききっていない絵に触ってしまって、せっかく描いたウサギの絵をダメにしてしまった。
「……これって、扱いが難しいですね……」
僕がそう呟くと、新見さんが「描き始めのの頃、そういうミス、よくやったわー」と、笑っていた。
千早さんはそんな僕の様子を見て、新見さんを見て、なんと言ったらいいかわならなくなったような顔をしていた。
「ねえ、アイ、心から信じてくれとは言わないわ。騙されたふりをしていてくれてもいいから、これだけはわかって。締め切りが迫っているの」
締め切りという言葉に、千早さんの顔が真剣なものになる。
僕も小説家という仕事をしているので、締め切りがどれだけ大切かはわかっている。
「迷ったり疑ったりする時間は無いわ。この原稿を片付ける間だけ、私たちに付き合ってちょうだい。じゃないと、アシさんたちに指示も出せないし、原稿を落としちゃうわ」
「………………そうね、わかったわ」
千早さんは、少し迷ったが、机の上にあるウサギの落書きと、女子高生の絵を見て、決断したようだ。
「あなたが楓なのね?ええと、こっちは……」
「匠太です」
千早さんはこくりと頷いて「よろしく、匠太君」と言った。
新見さんは、そんな千早さんを見て、ぱあっと顔を明るくする。
「良かった!それじゃあ、作戦だけど、私には他の仕事があるってことにして、匠太君と一緒に部屋に籠るわね。だから、アイはアシさんたちに指示をお願い。チェックするものがあったら、持ってきてほしいわ」
「わかったわ」
「今日頑張って、やれるだけ、人物にペン入れしておくわ」
「そうね……私も手伝う?」
「ううん。明ちゃん、お義母さんに預けているんでしょう?今日はいいわ」
明ちゃんとは、アイさんの子供だそうだ。アイさんは、去年お母さんになったらしい。
「僕が手伝いましょうか?初心者にできることってあります?」
僕が聞くと、新見さんは僕の顔できらりと目を輝かせた。
「あるある!よろしくね、匠太君」
「そう言えば、匠太君には、明日もいてもらうのよね?」
アイさんが、そう聞いてきた。僕と新見さんは頷いた。
「そうよ。私の代わりに、アシさんたちを出迎えてもらわなきゃね。他にも、休憩の時に、お茶を運んでくれると助かるわ」
「わかりました。任せてください」
三人で話し合いをしながら、アイさんは時折、疑惑の目で、僕と新見さんを交互に見ている。しかし、机の上の絵を見ると、納得せずにはいられないようで、「なんか、夢を見ている気分だわ……」と呟いていた。