混乱より締め切り
痛む鼻を抑えた新見さんと、痛むおでこを抑えた僕は、いったん別れた。
これ以上一緒にいても、いい案が浮かぶとも思えなかったし、お互い、一人になって考えたいところだったのだ。
僕は、お茶を飲んだカップを片付け、冷蔵庫に入っていたアイスノンを額に当てて、考えた。
(さて……このままだと困ることは何だろう?)
僕は在宅の仕事をしているので、基本外に仕事に出ることはない。聞いてみたら、新見さんも在宅の仕事だと言っていた。おかげで、新見さんのふりをして仕事場に行って、あら大変、なんてことにはならずに済んだ。
しかし、僕も仕事先の人と連絡を取らないといけないし、新見さんだってそうだろう。この状況が終わるまで部屋に閉じこもっているわけにもいかない。
(いや……僕の場合は、何とかなるか……)
今抱えている仕事については、担当者とメールでのやり取りで続けることができる。本当は電話をしたほうがいいのだが、ちょっと立て込んでいるとかなんとかいえば、あっさりわかってもらえるはずだ。なんなら、新見さんにお願いして、その時だけ話をしてもらえばいい。仕事先とは、それほど親密に話すことはないし、絶対にばれないという自信もある。
(あとは、友達とか、家族とか……)
こちらも、問題ない気がする。幸い、昨夜母親とは電話で連絡を取ったばかりだったので、これからあと一か月くらい音沙汰なくても、心配はされないだろう。何なら、珍しくメールを送ってもいい。それで、問題はないはずだ。友人関係に至っては、おそらく、年末の飲み会までは会う機会はないだろうし……
「あれ?なんとかなるな……これ……」
僕は改めて自分の生活を見直して、ちょっと驚く。
一人でいることを好む僕だが、ここまで人と接触を持っていなかったとは、驚いた。これで恋人でもいれば、大変だっただろうが……
「そうだ、恋人……新見さんは、いるんじゃないかな?」
僕は、自分の服装を見て改めて思う。
僕の適当に見繕った服とは違い、明らかにおしゃれをしている新見さんは、交友関係も広そうだ。時折、大勢の友人たちを家に招いているのを見たことがある。恋人がいてもおかしくはない。
もし、その恋人が、新見さんの体に隣人とはいえ、見ず知らずの男が入っていると知った日には……
(まずい……そんなことになったら、僕だって怒るし、めちゃくちゃ心配する……)
僕は思わず立ち上がった。
ひとまず、新見さんの恋人だけには話しておいたほうがいい。後でばれて、修羅場のような展開になるのだけはごめんだ。
僕は立ち上がって、新見さんの家に行くことにした。
いきなり女性宅に押しかけるのもためらわれるが、こんな非常識な状況で、そんなことを気にしてもいられない。
その時、僕はふと、自分の部屋を見回した。
(殺風景だな……)
今までそんなことを思ったことはなかったはずなのに、そう思ってしまったのは、この目が新見さんの目だからだろうか?
必要最低限の家具しかない部屋は、よく言えば、すっきりと整っており、悪く言えば、シンプルすぎて、まるでどこかの会社のオフィスのようだ。絵や観葉植物の一つでもあれば、リラックスできる空間になるのかもしれないが、そんなものは一つもない。この部屋にある色と言えば、カーテンの青か、家具の茶色か黒か、壁の白だけだ。華やかさが微塵もない。
(いや、男の部屋に華やかさってのも……)
そんなことを思っていると、備え付けの鏡が目に入った。
そこには、赤と茶色の格子縞のスカートと、薄いえんじ色上着を着た新見さんの姿が映る。
(ああ、そうか……この服の色合いがちらちら目に入るから、よけいに殺風景に見えるんだな)
この部屋に、新見さんは場違いだった。
髪も染めているらしく、明るいブラウンだし、朝から化粧もばっちりしてある。手の爪にもマニュキアが塗られていた。
(あれ?もしかして、これから外出する予定だったんじゃ……)
新見さんは一言もそんなことは言ってなかったが、もしかして、混乱して忘れているのかもしれない。
そのことも含めて、新見さんの家に行くべきなのだろうが、僕はどういうわけか、仕事がしたくなった。
(この変な状況でなら、今までとは違うものが書けそうな気がする……)
僕は、手に取っていたカギを置き、仕事部屋に向かった。
パソコンと机と椅子と、本棚しかないその部屋は、さっきの居間より、もっと殺風景だ。きっと、新見さんの部屋は、この服と同じく、華やかな色に包まれているに違いない。
そんなことを考えながら、パソコンを立ち上げ、キーボードに向かう。
幸い、新見さんの爪は短く切ってあって、キーをたたくのに、不便はなさそうだ。
いざ、キーをたたこうとした時、インターフォンが鳴った。
「…………」
お楽しみを奪われた思いだったが、僕は立ち上がり、玄関に向かう。
来客は予想通り僕の姿をした、新見さんだった。
「どうしました?」
「お願いがあってきたの」
新見さんは、真剣な顔で僕の顔を見てそう言った。
「あの……ひとまず、うちに来てくれない?」
そういって、僕の腕をとる。
「わ、わかりました」
僕は新見さんに引っ張られるまま、家を出た。すぐ隣の扉は、本当にすぐ近くだったが、中に入るのには一瞬ためらわれた。
何せ、女性の部屋だ。
「あのね、匠太君と入れ替わって、もしかして、匠太君が私の体を好き勝手するんじゃないかとか、変なポーズで写真撮ったりするんじゃないかとか、友達呼んで変なことするんじゃないかとか、いろいろ不安なことが沸き上がってきていたんだけど……」
新見さんは、そんなことを言いながら、僕を家の中に引き込む。
新見さんの家は玄関からして、僕の予想通りだった。 玄関には三足以上の靴が置かれていて、下駄箱にもまだまだあった。下駄箱の上は置物でいっぱいだし、玄関を入ったところにビーズでできた簾もどきがかけられていた。
その、どれもこれもが、キラキラしていて、華やかだ。
(う、うわー……女の子の部屋だなあ……)
僕はちょっとドキドキしながら、靴を脱ぐ。入った時から甘い香りが漂っているのも、男の家とは違うところだ。
新見さんの部屋は僕のシングルタイプとは違い、ファミリータイプのようだ。居間の広さが違うし、奥に二つ部屋がある。
その一つに、新見さんは僕を引っ張っていった。
「……でも、そういう心配はひとまず置いておいて、今、私が心配すべきなのは、仕事の締め切りだと気づいたのよ。お願いだから、協力して」
新見さんはその部屋を僕に見せ、そう言った。
その部屋には仕事用の机と思われる机が6つあった。そのせいで、広い部屋がものすごく狭く感じる。机の上にはそれぞれ蛍光灯があり、鉛筆や定規やインクの入った瓶や消しゴムが置かれている。
「私、漫画家なの」
「……そうですか……あ、僕は小説家です」
僕は何となく、自己紹介した。