恋は盲目 3
気が付けば僕は、電車に乗っていた。
(あれ?僕、ちゃんと小町さんに、帰るって言ったっけ?)
近藤さんと一緒にいた新見さんの姿を見た後の記憶が曖昧だ。
編集長の机の周りで、皆が祝福の言葉をかけるのを聞いていられなくて、荷物を纏めて慌てて出てきたのだ。その時、小町さんはどこにいただろうか?
僕はのろのろと携帯電話を取り出し、小町さんに「突然帰ってしまってすみません」とメールを打った。
返事はすぐに来た。「オレは怒ってる。罰としてお前の彼女の写真を送れ」と書かれていた。
「……はは」
自分の口から、乾いた笑いがこぼれた。
(彼女じゃない。まだ告白してもいない)
気が付けば、僕は深く深く俯いていた。
両手で顔を覆うと、後頭部がずどんと重くなるのを感じた。
(恋人がいたんだ……全然気づかなかった……)
入れ替わっていた四日間、あんなに傍にいたのに。
結婚を考えている恋人がいたのに、どうして気づかなかったんだろう?
それとも、僕があまりに鈍感で気づかなかったのだろうか?
(そうかもしれない……)
僕は自分の鈍感さに、更に後頭部が重くなるのを感じた。
重くて重くて、顔を上げる気にもならないなんて、初めての経験だ。
しかし、降りる駅がだんだん近づいて来る。一瞬、このまま乗り過ごしてしまおうかとも思ったが、別の駅で降りて折り返しの電車を待つのを考えると、さすがに嫌になった。
駅について、重い足を動かして、電車を降りた。
しかし、すぐに帰る気にはなれず、遠回りして帰ることにした。気の向くままに足を動かして、来たこともない公園を見つける。小さなベンチがあったので、そこに腰かけると、本当にお尻に根が生えたかのような気分になった。
公園には、ゾウをかたどった滑り台があった。まだ、作って間もないのか、とても綺麗だ。二人の子供がそれで遊んでいる。滑り台の傍には、カモノハシの形をした揺れる遊具もあった。
(新見さんがこれを見たら、きっと可愛いって言うんじゃないかな?)
僕はぼんやりとそんなことを思った。
そして、目に涙が浮かんできた。
ついさっきまでの、浮かれていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。
朝起きて、外に出る用事があるたびに、新見さんと会うんじゃないかと思うと、だらしない格好はできなくなった。髪を整え、着古した服でも、ちゃんと整えてから外出するようになった。
扉から外に出ると、必ず新見さんの部屋の扉を見てしまう。
新見さんが顔を出さないかな、と期待してしまうのだ。
この髪型だって……
建前は、今度の鍋パーティーで、アシスタントの皆を誤魔化すためのものだ。あの日、新見さんの家にいて、皆に迷惑かけたのは、自分の従弟だとかなんとか言って、誤魔化そうと思っていたのだ。これだけガラリと雰囲気が変わったのだ、きっと騙せると思っていた。
そして、その後にでも、新見さんからこの髪型についての感想を言ってほしかった。気に入ったのなら、笑顔で良いと言ってほしかったし、気に入らなかったら、どんな色が好きなのかを聞きたかった。
あのお店に、もう一度行ってみたことも、話したかった。新見さんはどんな反応をするだろうか?あのお兄さんに、「もう、告白した?」って聞かれた話をしたら、新見さんは慌てだすに違いない。
(もっと、いろいろ話をしてみたかった……)
僕の頭は、またもや沈みだす。
頭の中に浮かぶのは、出版社で見た、新見さんのキラキラした笑顔だった。幸せそうに笑っていた。皆からおめでとうと言われ、嬉しそうだった。
(僕も、もっと近くで、新見さんの笑顔を見たかった……)
鍋パーティーでも、漫画の締め切りの手伝いでもいい。なんなら、新見さんが張り切っている年末年始のバーゲンセールに、荷物持ちで付き合うのもいい。
前回は僕の買い物に行ったのだから、今度は新見さんの買い物に一緒に行ってみたかった。新見さんが、どんなふうにはしゃぎながら買い物するのか、見てみたかった。
女性の買い物に付き合った男性は、だいたい「うんざりする」とか「もう、二度と行き無くない」と言うが、僕は、うんざりするほど新見さんに付き合ってみたかった。
きっと、真剣な顔で服を選び、買った後は幸せそうに笑うに違いない。
(でも、そんな相手はもう、いたんだなあ……)
僕はそのまま、日が暮れるまで公園のベンチに座り込んでいた。
さすがに寒くなり、僕は身を震わせながらベンチから立ち上がり、帰途についた。
落ち込んでいる割に、涙はほとんど出なかった。
(新見さんと話すようになって、まだ……二週間も経ってないんだ……ショックったって、こんなもんなのかな……)
僕は歩きながら、そんなことを思う。
好きになって、まだ日が浅い。浅いうちに、諦めることができて、僕は幸運なのかもしれない。でも……
歩いていた足が止まる。
僕の家は新見さんの隣だ。いくら注意したって、絶対に顔を合わせることになる。
(今は……顔合わせづらいな……それに、鍋パーティー……)
僕は、のろのろと歩きながら、どうするかを考え、実家に逃げることにした。