サクラコと道場
今は朝の4時過ぎ。
私は眠い目をこすって、濡れた雑巾を絞ると広い道場の中を見渡した。
うちの道場に武術を習いに来てくれるお弟子さん達が来る前に、道場のお掃除をするのが私の朝の日課。
もともとの道場主だった私の父が、1年前に事故で他界してから、この道場はお父さんに小さいころから武術を仕込まれていた私の道場になった。
私の高校の入学祝いに幼馴染の和也の家族も一緒に家族旅行に行った帰り道、車の事故に巻き込まれて、私と和也の両親は亡くなってしまって、道場主がいなくなったうちの道場は、本来なら、後見人の叔父さんのものになるはずだったのだけど、私のわがままで、このまま私が運営していくことになったのだ。
ごしごしと、道場の床を磨いていつもの日課をこなしていると、よく見知った気配を感じて声をかける。
「和也、おはよう。いつも早いね」
私がそういうと和也は、「はよう」と言って眠そうな顔で道場の中に入ってきた。
私の幼馴染で、一つ年下の高校1年生。
一年前の事故で、私と同じで両親を亡くしている。
事故の前までは、私のお隣に住んでいたんだけど、今は隣町の親戚の方の家で暮らしていて、ここまで距離があるはずなのに、それでも毎日道場に通ってくれて、私の手伝いをしてくれる変わり者。
昔は、この道場の門下生だったけれど、今はやめちゃったから、別にうちの武術道場で鍛錬するわけでもないのに、こんなに朝早く手伝いに来てくれる。
「和也はもうお弟子さんじゃなくなったし、朝稽古の時までこなくてもいいのに」
「営業状況を見るのも俺の仕事」
和也はあくびをしながらそう言うと、おもむろに雑巾を持って、道場の床拭きを始めた。
私は、後見人になってくれた叔父さんのところには行かずに、お父さんの残してくれた古武術道場を継いだのはいいけれど、経営とか、税金とかもうよくわからなくて困ってた時に、和也が手伝いを申し出てくれた。
和也は私と違って頭が良くて、道場の経営関係は、ほとんど和也に任せっきり。正直すごく助かっている。こうやって朝もお手伝いしてくれるし。
二人で黙々と朝の準備をしていると、続々とお弟子さんがやってきた。
お弟子さんといっても、色々。
強くなりたくて通っている人もいれば、習い事としてやってくる小学生、健康のために通っているおじいちゃんもいたり、ダイエット目的のおば様もいる。
特に和也が、道場を手伝いだしたここ1年でダイエット目的のおば様がかなり増えた。
和也は、なかなかのイケメンなのだ。髪の毛さらっさらで、均整のとれた顔をした優等生風イケメン。
弟のような和也が、格好良いと褒められるとなんだか鼻が高い。自慢の弟って感じ。
和也はすごくモテモテらしいのだけど、不思議なことに彼女を連れてきたことがない……。
もしかしたら、私に内緒でいるのかもしれないけれど、でも、実際、和也に彼女とかできたら、焦るなぁ。
弟に先を越されたくない姉の矜持みたいなのが……うん。
でも、ダメだよね、和也に彼女ができたらちゃんと祝福できる姉でいたい。
それにしても、彼氏、か。あー憧れるなぁ。彼氏かぁ。欲しいなぁ。
私だって、まだ17歳の女子高生! 恋とかしてみたい、けど、今の状況だとなかなか難しくて……。
この辺りだと、強すぎる女子高生みたいなこと言われて、かなり有名だし。
陰でアルゾックとか、セコミとか防犯会社の名前があだ名になってるの知ってるし。うん。
それに普通の男の子なんか、私と目が合うだけで逃げるし、たまに話しかけられたと思ったら、不良少年が喧嘩売ってきたりするだけだし。
花の女子高生なのに...。
これでも、髪型だって、正直男受けを狙って、黒髪ロングとかにしてるし、服装だって毎月雑誌を買って流行りをチェックしてるし、雑誌のコラムの言う通り、男性の胃袋を掴むためにお料理だってマスターした。
でも、全然、全然、私に恋の神様は訪れてくれない。
やっぱり武術をやっているっていうのが、ダメなのかな?
中学の時に、道場主の娘だからと、しつこく喧嘩を売ってきた不良グループを一人で壊滅にまで追い込んだのがいけなかった……。
武術は好きだし、運動も好きだし、お父さんの道場を継いだってこともあるから、辞めるつもりはないけれど、もし、今度生まれ変わる機会が会ったら、私、少女漫画に出てくるようなふわっふわで守りたくなるような女の子になりたいなぁ。
こう、『お前は俺が守る』みたいなこと、言われたいなぁ!
「桜子、何ぼーっとしてんの?」
いつの間にか和也が目の前にいた。
ていうか、既にお弟子さんが胴着に着替えて待っていた。
時計を見ると、すでに朝稽古が始まる時間!
いけない! 私ってやつは、神聖な道場でなんてふしだらなことを考えているんだ!
「す、すみません! えっと、それでは今日の鍛錬を始めます!」
慌てて、そう言って、いつもの稽古を始めた。
朝稽古に来てくれる人は、昔からのお弟子さんが多いので、『いいよいいよー』と笑って許してくれたけれど、もっとちゃんとしなくちゃ!
朝稽古では、まずは準備運動、そして組手の型をやってから、二人一組となっての鍛錬。
今日はお弟子さんの数が奇数なので、余った人は私と組む。
あ、今日のお相手は、最近入った大学生のツヨシさんだ。
ちょっとかっこいいんだぁ。
名前も剛って名前で強そうだし。弱いけど。
と思いながらツヨシさんの拳をいなしていく。
力がうまく拳にまで届いてないのよね。こう体全体を使ってやらないと。
あー、でもこうやって一生懸命に打ち込んでくる姿って素敵。
それに目元の黒子とかがちょっと色っぽくていいなぁ。
こんな人が彼氏になってくれたら素敵だろうなぁ。
あ、でも脇が甘い。
私はすかさず攻撃に転じると、彼は床に尻をつけた。
「やっぱり桜子先生は強いですね。そんなに華奢で可愛らしい見た目なのに、敵わないな」
床にしりもちを付けたツヨシさんは、そう言ってハハハと笑った。
「え!? そんな……可愛らしいだなんて! そんなこと!」
ツヨシさんい突然褒められて、もじもじとそう答えると、となりいた常連のおじいさんが「桜子ちゃんは天才やぞ。10歳の時で既に先代より強かったからの」と冗談をいってきた。
確かに10歳ぐらいの時からお父さんに負けたことないけど、あれはお父さんがわざと倒れたふりしてくれただけだよー。
「もー、あれはお父さんの冗談みたいなものですよー。ほら、ヒーローごっことかして怪人役になったお父さんがわざと負けてくれるのと一緒です」
と言って微笑んだけれども、常連さんは信じてくれてないみたい。なんだか生暖かい目で見られたような……。気のせいかな。
いつもの流れで無事に朝稽古も終えた。
私は軽くシャワーを浴びて、制服に着替えると道場を出る。
和也は違う学校だけど、駅までは一緒にきてくれるジェントルマンで、すでに道場兼我が家の門の外で待っていた和也に声をかけて合流した。
そして、世間話をしながら二人で並んで歩いていると、前方から何やら嫌な気配……?
構えると、案の定、唸りながら口から泡を吹いてるような大きな黒い野犬が私に向かって走ってきている。
私はカバンを盾にして、犬に噛ませると無防備な首のあたりに拳を振り下ろす。
「ギャフン!」という声を出して、野犬は昏倒した。
「ああ、やだ。またカバンがダメになった!」
「ていうか、また野犬!? ここ最近、野犬に襲われることが多すぎないか!?」
隣で顔を青白くさせた和也はそう言って慄いている。
そう、和也の言うとおり、ここ一年ぐらい三日に一度は野犬に襲われてる。
一度、絶滅していたと言われた日本オオカミも襲ってきたことがあって、あの時はさすがにびっくりした。
「あ! 和也、ちょっとどいて!」
上から嫌な気配を感じて、和也をどかすと、上から降ってきた植木鉢を蹴り上げて粉砕した。
あぶない、あぶない。こんなもの頭に落ちてきたらさすがに痛いもんね。
「また、植木鉢が降ってきたのか!? これで何度目だよ!?」
「うーん、ここ1年で666回ぐらいかな?」
「なんて不吉な数字! ていうか植木鉢落ちすぎだろ!」
「なんか、ほんと、最近植木鉢に限らず上から物がよく落ちるんだよね。まあ、今のところ大丈夫だからいいんだけど」
「良くないだろ!? 普通は大丈夫じゃない!」
いつも朝はテンションの低い和也がなんかものすごい喋ってる。珍しい。
あ、また背中の方がゾクゾクする。
振り返ると案の定、電信柱が倒れてきていた。私はおもむろに倒れてきた電信柱を両手で受け止める。
「和也、どいて。倒れた電信柱を下ろすから」
「なんで、そんなもんが倒れてくるんだよ!? ていうかなんで何事もなくキャッチしてるんだよ!?」
なんかさっきから和也、語尾に『!?』つけ過ぎじゃない?
「大丈夫よ、これもいつものこと。一週間に一回は倒れるもの」
「おかしいだろ!?」
私は元気に語尾に『!?』を付ける和也を横目によいしょと声を出して電信柱をそっと地面においた。
電気会社の人呼ばないと。
「ここ一年の桜子の周り、なんか異常だよ。大人しく家にいたほうがいいんじゃないか?」
「え? でも、学校いかなくちゃ……あ、犬が!」
目の前の横断歩道が赤信号なのに、道路を突っ切ろうとしてる。そこに大きなトラックが迫って来ていて、考える前に体が動いていた。
犬を抱えてそのままダッシュで道路を突っ切る。
足が速くて助かった。この瞬足がなければ絶対にトラックに引かれてた。
犬を下ろそうとしたら、ただの犬じゃなくて、正気を失った様子の野犬で、口を大きく開けていた。私は素早く犬のお腹に拳を入れて気絶させる。
また野犬だったのか。危うく噛まれちゃうところだった。
気絶した野犬をそっと地面に下ろす。確かに、和也の言うように野犬多いかも。事故になっちゃう。あれ、というか、この野犬、また日本オオカミじゃない?
と考えたところで、また近くの電信柱が倒れてきた。危なげなくキャッチしたんだけど、反対方向から工事をしていた建物から鉄鋼が落ちて来るのが見えた。
さすがにあれはキャッチできないから電信柱を置いて避けようと思ったんだけど、近くに日本オオカミを寝かせていることに気づいた。
あ、このままだと日本オオカミ、死んじゃう? 絶滅……。
その一瞬の迷いが、いけなかった。
鉄鋼がもう目の前に迫っていた。
目の前が真っ暗になる中、和也の声が聞こえた気がした。
しばらくは連続更新します!