プロダクト
~すべき、という言葉が頭の中に住み着いたのはいつからだっただろう。グローバル化が進むから英語を学ぶべき、学生時代頑張ったことで差をつけるためにインターンをすべき、特にやりたいことなんてなかった自分には、どこにでもいる有識者の言った「やるべき」ことにただひたすらこなすことしかできなかった。いや、やりたいことはあったのだ。ただやりたくでもできなかっただけ。それはギターで自分の好きな音楽を鳴らすことであったり、日々の割り切れない思いを文章でつづることだったりした。いくらか手を出す機会はあったが、それは何のためになるんですか、生産的ですか、なんて声がどこからか聞こえてきて、はたと手を止めてしまうのだ。
例えば高校生の時、軽音楽部に入り、ギターを握るはずだった右手は、高校生のうちは体力をつけるべき、という声によって、バドミントンのラケットを握らされていたし、心理学を学びたいと思ったその意志は、同じ心理学でもマーケティングのほうが実用的だという声によって、商学への漫然とした興味へとゆがめられていた。もちろんそれに気づいたのは高校を卒業してからなのだけど。大学生になった僕は、今度はビジネス本を手に取り、名前だけ聞いたことのある会社の革新的な経営スタイルを頭に詰め込む。ただただ聞こえてくる声におびえて、「生産的」な活動に身を投じる。読む本が小説からビジネス本に変わり、イヤホンから流れる音が轟音のギターから英語に変わるにしたがって、自分は本当に「生産的」になりたいんじゃないかと思えた。
「生産的」でない人間を馬鹿にするようになったのもこのころからかもしれない。授業に出席せずひたすら楽バンド活動をする学生。ひたすら合コンをして夜の街に消えていく学生。サークルの部室で暇をつぶす学生。彼らに「非生産的」の烙印を頭の中で押し続け、優越感に浸る。少しだけ前より楽になった気がした。
十一月、友人に誘われて大学の学園祭に顔を出した。なかなか面白そうなコンテンツが並んでいて、それなりに楽しめた。いつもどこか張りつめていた自分にはいい気分転換だった。競馬実況のブースを見物しているときに、友人にバンドサークルに友達がいるから少し顔を出したいといわれたので、ついていった。ライブが行われている教室に行く途中何かいやな感じがした。見てはいけないものを見てしまう。そんな気がした。いつもは一段飛ばしで上る階段も、なぜか今日は一段ずつ上った。赤、茶、金、様々な色の、ボブ、ロン毛、パーマ、様々な髪形が目に入る。楽器の音が教室から漏れている。友人が扉を開けた。恐る恐る中に入る。ギター、キーボード、カホンの楽器編成にメインボーカルとコーラス3人が目に飛びこんでくる。みんな笑顔だ。メインボーカルが渋く味のある声に、コーラスの明るくもどっしりと地に足着いた歌声が絡まる。音を少し粘っこくゆがませたギターのカッティング、陽気なメロディラインのキーボード、それらすべてを柔らかい音で支えるカホン。80年代のファンク、もしくはディスコミュージックだろうか。気が付いたら身体が縦に揺れていた。自分がカッティングの音が好きだったことを思い出す。メインボーカルの女性は、まるで宝物を触るように、その存在を確かめるように、大事そうにその歌を歌いあげた。彼女の顔だけが妙に光って見えた。ステージはまぶしかったけど、目をそらすことができなかった。
次の曲が始まる。今度はブラスバンドも出てきた。会場の雰囲気はますます盛り上がり、みな踊り始める。ハッピー、アメイジング、ポジティブな歌詞が断片的に聴こえてくる。みんな笑顔だ。曲を聴いている人も演奏している人も。曲の中盤、それぞれの楽器のソロパートが始まった。気持ちよさそうにギターを鳴らす男子。キーボードで超絶技巧を繰り出す女子。今この瞬間が楽しくてたまらないとでも言いたげなその顔には、将来に対する恐怖なんて微塵も感じなかった。とにかくここで音楽を弾くことに夢中になってる彼らには、自分のどんな誹謗中傷も効かない気がした。ただただ彼らがうらやましかった。「生産的」な僕が崩れていく。身体が大きく動く。周りの人と目を合わせる。「非生産的」な僕がどんどん表に出てくる。曲が終わるころには、生まれ変わった気さえした。いま現在ここに存在する自分を満足させること、未来を恐れないこと。彼らがこんなことを思っているかどうかなんてどうでもいい。僕がこう思えた、それだけで救われた気がした。帰ったらしばらく開けてなかったあのフォルダを開けるつもりだ。何か書けるかもしれない。何も書けないかもしれない。それでもいい。机に向かって何かを書きつける。この行為だけで、好きな自分、「非生産」的な自分になれると思えた。