K貝類館
プラスチックでできている街だ、と思った。
私が、生まれてから過ごした街は、新幹線が通るとはいえ、駅前には申し訳程度のデパートが幾つかと、昼間に歩いても暗い商店街があるだけの、ローカル線に乗ると次の駅に着く頃には田園風景が広がってしまうような、恥ずかしくなるような田舎の町だった。
生まれて育った環境に疑問を持つはずも無く、私は学校帰りには舗装されていない田圃の畝を歩き、季節ごとに茂る草花の名前を覚え、土や木の匂いを嗅ぎ、庭に来る小鳥を見守り、土地の言葉に馴染んで屈託無く育ったと思う。同居する祖父母は本が好きで、幼稚園に上がる頃には文字が読めるようになった私に、色んな本を与えてくれた。
小学校の高学年になって、父の転勤で海に近い街へ越した日、私は不透明な違和感を抱いたことをおぼろげに憶えている。
きれいに整備された新興の住宅地。川沿いには緑道の公園が海へ続き、その傍らには大きな市立の図書館があった。天井が高く新築して間もない気配を漂わせる三階建てでガラス張りの建物は、いつも薄暗く人けが無かった。
緑道公園はきれいな場所だった。お世辞にも大きいとは言えない数メートルの川を挟み、海に続く道は桜の名所として知られていた。公園には見かけない種類の遊具までが備えられ、(まるで新品のようにペンキの剥がれも見当たらずツルツルと冷たかった。)絵に描いたように子供を遊ばせるための場所として用意されているのが分かったけれど、それはどこかよそよそしく、学校帰りの時間帯にでも子供が遊んでいる姿を見かけることは殆ど無かった。
人工のもので埋め尽くされ、きれいに整えられた、絵に描いたような生活感の無い住宅地。公園沿いには大きなマンションやアパートも立ち並んでいることから、人が住んでいるだろうことは予想が付いたけれど、住人の姿を殆ど見ない巨大な建物たちは、ぽっかりと恐ろしい空虚な暗黒の影を落として、私を怖れさせた。学校を休んだ級友の家にプリントを届けに行った時、その子の住むマンションの廊下が暗く湿っていて、死に近い患者の暮らす病院のようだと思って逃げ帰ったことがある。プリントを届けなかったことで次の日私は学校で糾弾を受け、プリントも渡さず逃げ帰った理由の説明も満足にできないまま下を向いて黙ってしまった。
その日から、私に話しかける同級生は一人も居なくなった。遊びに誘われることも、何かを頼まれることも無くなり、持て余した休み時間には本を読むことにした。そのうちに終礼後には読み終えた本を抱え、私は公園沿いの図書館で次の日に読む本を借りて帰ることが習慣になった。
一人で時間を過ごせる場所があるのは、有難かった。天井が高く、薄暗い図書館の中では、みな無言の静けさの中で端居する。話し相手なんか要らなかった。相手の機嫌を損なわないために、話し相手を失わないために、気を使って思ってもいないような褒め言葉をしどろもどろに探すくらいなら、話し相手なんて必要ないと思った。「誰がどんなゲームソフトを買った」だとか「あの子の家は夏休みにハワイに行くらしい」だとか「隣のクラスの誰々は」だとか、知らないし、興味も無い。
どうして図書館は、こんなに天井が高いんだろう。手を伸ばしても届かない本棚の上段を見上げる度に、私はそう思っていた。あんな高いところまでガラス張りにしていても、その向こうには緑道に茂る緑が薄暗く建物の中まで影を落としているだけなのに。
この街に来てから私は、世の中の全ては実は人工物で出来ているんじゃないか、と思うようになった。自然だとか宇宙だとか、人間が手が及ばないように見えるものでも、実は人間が全て、私のような子供には見えない社会の裏に隠れて、全部を組み敷いているんじゃないか。田舎というのはその手が及んでいないから、未開発のまま土や植物が生きているんだと思う。一旦人工物に覆われてしまうと、土は土で無くなり、木は木でなくなり、匂いや存在感を失って景色を都合よく埋めるための『もの』になってしまう。手の届かないように見える空でさえ、人工物の街ではビルの先に点る赤い光や衛星やヘリコプタの飛びやすい人工物であると思う。鳥が飛ぶための場所ではなく、雨が降り雷が光る場所でもなく、景色の背景として誰かに描かれた絵としての空。その日その日のシーンを映画のように演出する張りぼてとしての空。
「何を言っているの」と母は笑う。「ご飯にしましょう」。そう言って差し出される魚も野菜も、プラスチックで出来ているんじゃないかと思う。土に根付いて生きていた動物や植物を切り分けたと言われるよりも、米も水も魚も肉も野菜も、全て工場でプラスチックを原料に練って作られているんじゃないかと思う。実は大人は皆、知ってるんじゃないかしら。世の中の全てが人工物で、食べ物ですら全部プラスチックで出来ているということ。子供が知ると都合が悪いから、教育上伏せているだけで、大人たちは全ての秘密を知っているんじゃないかしら。
「ごはん、要らない。食べたくない」
そう言って休日の昼食の席を立つ私を母は窘めようとしなかった。
「図書館行ってくる」
「気をつけてね。早く帰るのよ」
無言で頷いて、玄関を開けた。言われなくても、図書館は夕方の五時には閉まってしまう。
私は誰にも会いたくなかった。学校の知り合いにも、近所のおばさんにも、両親にも、優等生の妹にも。誰も自分を知らない場所に行きたい。誰も私に興味を示さない場所に、気を使うことなく一人で居たい。休みの日にも図書館に出かける理由は、それだけのことだった。
無駄に立派な図書館は、ごく当たり前のように、子供だましの下品でつまらない本しか備えていなかった。暇つぶしに読むんだから何でも良いとはいえ、あまりにバカバカしい内容の本ばかり読んでいると、バカにされているような卑屈な気持ちになってくる。『小学生までの子供は子供向けの本しか読んではいけない』良識的に見えるそんなルールは、小学生の私に無力さという絶望を与えるだけのものだった。
それでも仕方が無いから、子供向けの本の棚に向かう。手に取りたいと思う本すら見つからないまま本棚の間を魚のように周遊する。背面の字面を作業のように追いながら、私は時間が過ぎることを一秒ずつ確かめる。貸し出しカウンターの奥の壁に掛けられた時計は、さっきから五分しか進んでいない。時間の鈍重さに諦めのような気持ちを感じて、私は本を探す作業をやめた。
何も借りないまま図書館を出て、まだ日が高い休日の午後に家に帰る気にもなれず、私は自転車を支えたまま、緑道公園に戻った場所で、途方にくれた。
風が吹く。木々が葉を揺らして音を立てる。鮮やかな緑に茂った葉の隙間から、少し傾いた日光が線を描いて歩道に光の玉を映す。
こんな時に、大人はいいな、と思う。百円が大金でなかったらジュースでも買って、公園のベンチで煙草でも吸ったらきっと、私の抱える不安や絶望なんてきっと吹き飛んでしまうんじゃないかと思う。もっと面白いことも沢山あるんだろう。つまらないことを考える暇も無くなって、目の前の忙しさに目を瞑ってしまうとどんなに楽に時間が過ごせるだろうと思う。
一人で電車に乗って、知らない街に遊びに行くことも出来る。欲しいものはクリスマスや誕生日を待たなくても自分で買える。教育に悪いからという理由でテレビや本まで制限されることも無い。面白い本を夢中で読んで、行きたい場所に行って、やりたいことをする。
そういうことを考えていると、私に許されている世界の狭さに泣きたくなる。『子供なんて、学校で友達と遊び、習い事のピアノを練習して、塾に通い、子供のための本を読んで、おこづかいで駄菓子を買うのがせいぜい。大人に不適当と言われることはしてはいけない』という線引きの中で、私に何が出来るというんだろう。そのルールに従って、長すぎる時間を暇つぶしするだけの子供の時間が私の人生にこれから何年も続いていくなんて、考えるだけでゾッとする。
海に行こう、と思った。図書館からなら海は近い。緑道公園の中のまっすぐな道を少し進むと、海に注ぐ河口に出る。海とは言っても、干拓の陸地が沖に作られたせいで川にしか見えず、テトラポットが置かれた砂浜には臭い泥が溜まっている汚い海だ。人の居ない浜辺。近くに住む人に見向きもされないあの浜辺なら、私が一人で時間を過ごしても、誰にも咎められないだろう。
浜の白い堤防に沿って立つ白い壁の大病院は、末期の癌患者が入院しているんだという。椰子が植えられ、光の強い浜辺に空虚に佇む清潔な病院は、外来患者を受け付けず、ただその大きな建物の影を一帯に落としているだけの場所だった。
堤防沿いに積まれたテトラポットの隙間には、多くの野良猫が住み着いている。転校してきて間もない頃に、同級生が餌をやりに行くのに付いていったことがあった。
「餌をくれれば、誰にでも懐くの。ちょっと臭いけど」
そう言った香織ちゃんの横顔を思い出す。
私に話しかけることはなくなったけれど、私は香織ちゃんのことを恨んではいなかった。少し前のことなのに、すごく何年も前のことに思えて、懐かしい気持ちになる。
鞄の中には、家から持ち出した貰い物のカップケーキが封を開けずに入っている。私は自転車のスタンドを蹴り、猫に会いに行こうと思った。
鬱蒼と茂った並木を抜けると、太陽が遮られることなく白く降り始める。夏の近さを思い出す。海に近づくと、聞きなれない海鳥の鳴き声が聞え始め、風の中に潮の匂いが混じる。海の手前を走る国道を信号に従って渡ると、そこにはコンクリートで固められた河口の景色が在った。白く乾いた砂と 打ち上げられた海草とゴミ。干拓された海の対岸には、鉄筋作りの高層団地が高く聳えて楼閣のように見えた。
不思議なくらい静かだった。波打ち際のかすかな水音と、中空を飛ぶ海鳥の声を残して、世界の音が消されたみたいだった。図書館で感じた時間の重さは、海に来ても変わらない。普段見慣れない場所に来れば、時間ももっと軽やかに流れるんじゃないかと思っていた気持ちが打ち消されて、私は他人事のように冷静に落胆した。
砂浜を歩くと、運動靴に砂が入る。こんな汚い海では、裸足になって水辺で遊ぶ気にもならない。私は思いのほか強い日光を遮って座れる日陰の場所を探して、自転車を止めた。
ふと、堤防の上に掲げられた古い看板に目が留まる。
『K貝類館 階段下』と矢印に示されただけのそっけない看板はペンキも剥げていて、何十年も雨ざらしになっていたことが見て取れた。住宅街の中や公園の近くに、一般公開された私設の博物館や資料館が点在する地域だから、貝類の展示館があっても不自然ではないけれど、近隣にある博物資料館などは、ひととおり知っているはずだった。学校に案内も貼ってある。
耳慣れぬ『貝類館』という言葉に興味を惹かれて、私は浜から堤防へ上がる階段に足を向けた。堤防の上から見ると正面にある病院は、通り過ぎる毎に見かけるとおり、全ての窓が閉まっていた。
『K貝類館 階段下』
近寄ってみても、看板にはそれ以上の情報は記されていなかった。手書きらしい巻貝の絵が添えてある。電話番号や地図も無い。私は「そんな場所聞いたこと無い」と思いながら看板に示された階段の下を覗き込んでみた。病院の傍らに位置するその区画は住宅地の無い開発区画らしく、休日の午後なのに人のいないテニスコートが放り出されているだけしか見て取ることは出来なかった。
「もう、だいぶ昔に閉まってしまった施設なのかも」
それらしき建物も看板も見つけることが出来なかったものの、一度うずいた好奇心が抑えられず、私はその閉鎖された跡地でもいいから自分の目で確認してやろうという気持ちで堤防から病院側に下る階段を下りてみることにした。
『K貝類館 入口』
階段の下へ降りてみると、難なく貝類館の建物は見つけることが出来た。古い洋館を庭から伸びた蔦が隠し、上から覗いただけでは病院の一角に植物が茂っているようにしか見えなかったのだということに気付く。
『入口』と書かれてはいるものの、その看板が掲げられた鉄製のフェンスは閉ざされていた。
『入場料 大人二百円 子供百円』 そう書いてある看板の上にまでも、建物を覆う蔦が侵食している。
背伸びをして、建物の様子を伺うけれど、人の気配は感じられず、屋内に点る照明すら見て取ることができなかった。
「やっぱり、もうだいぶ前に閉鎖された施設なんだわ」
フェンス越しに見える中庭には手入れされていない草花が生え茂っていて、久しぶりに嗅ぐ緑の草花の匂いがした。
「あなた、観覧?」
突然に掛けられた声に驚いて見上げると、誰もいないと思った洋館の二階の窓から顔を出す白髪の老女と目が合った。
「待ってね、すぐ開けるから」
私の返事を待たず、老女は首を引っ込めたかと思うと、裏手にあるのだろう階段から中庭を通って、私の居る入口の鉄門を押し開けた。
「最近はお客さん来ないから、閉めてるのよ」
不意の誘いに私は断る理由も思いつかず、老女に案内されるままに門をくぐった。
「ちょっと待ってね、電気つけるから」
真っ暗でひんやりとした室内は不思議な匂いがした。どこかで嗅いだことのある、だけど何だったか思い出せない匂い。
「どうぞ。ごゆっくり。帰る時に声を掛けてね」
展示物に掛けられた布を一枚ずつ剥がしながら、老女が言う。ひんやりとした室内にその声は不思議に柔らかく滲んで聞えた。布が剥がれる度に、空気を小さな塵が舞う。窓から差し込んだ細い光に塵は反射して沈殿してゆくのが見えた。
『腹足類』『斧足類』『掘足類』『多板類』『頭足類』
見慣れぬ分類毎に、ショーケースに納められた幾百にもなる貝殻は、どこでいつ採取されたものなのかを沿えて、蛍光灯の光に照らされていた。一種類につき一つを展示しているのかと思いきや、同種のものでも採取時期や場所によって、いくつも並べられているようだった。
かつて生き物として海の中に在ったということを、私は頭で理解しながら、信じていない。白く乾いた幾百の巻貝ひとつひとつの突起や曲線を眺めながら、そんなことを思う。
「オオイトカゲガイ」
「ムラサキムカデガイ」
「ユビサソリガイ」
「フシデサソリガイ」
目に付いた名前を一つ一つ口の中で唱える。かつては海の中で生きて暮らしていた生物、とは、やはり思えない。この名前を与えられるために、貝殻として造形された芸術品みたいな意味での人工物だ、と言われたほうがしっくりくる。
「頭部に一対の触角と眼があり、口内に歯舌がある。足は広く平らで、腹側にあり、這うに適する。」
そんな補足を読んでみても、目の前にある貝殻は、全て乾いたただの空洞なのだ。かつては生命だったという乾いた物体――。
小さな展示室が幾つか続く建物だった。巻貝や二枚貝の解説を挟みながら展示されるものは、貝類から次第にカタツムリに及び、ウニ、流木に続き、鷲やイグアナの剥製へと続いていった。
「ここにあるものは、隣の病院の院長だった人が世界中から集めたものなの」
老女が退席して、誰も居ないと思っていた展示室の中、不意に掛けられた声に驚いて身を縮めた。
「末期の癌患者が死を待つ病院の傍らで、その病院の院長がこれだけ死体を蒐集しているって、悪趣味な話よね」
声に導かれるようにして見渡すと、部屋の奥の棚の傍らに置かれた籐椅子に女の子が一人座っていた。
「……いつから居たの?」
「あなたが来る前からよ」
女の子は籐椅子に両膝を立てて座ったままの姿勢で、本を読んでいたようだった。年齢は私と同じくらい。通っている学校も同じなのかもしれないと思ったけれど、学校の中で見かけたことは無いと思った。
「……隣の病院の院長が死体を集めたって、本当?」
「うん。ここにあるもの、全部死体でしょ。死体が好きなんだと思う」
言われてみて、初めて気付く。貝殻と呼ばれるもの、剥製と呼ばれるもの、それは全部、もともと生き物だったものの死体だということ。
――ふと、『死体』という言葉が何かに結びつきそうな気がした。慌ててもう一度、思考を辿ってみようとしたけれど、何と結びつきそうだと思ったのか、もう思い出せなくなってしまっている。
「何で、そんなこと知ってるの」
「だって、あたしのお爺ちゃんだもの。これ集めたの」
女の子は椅子に座ったまま両手を上にあげて伸びをする。彼女は隣の病院の院長の孫だったのだ。
「こんなの一人で見に来るって物好きだね、あたしは静かだからこの部屋好きだけど」
「……物好きって言うか。暇だったから」
「そうなんだ。でも、怖くないの? 死体博物館だよ、ここ」
そう言われて、この部屋に入った時に感じた『知っているけど思い出せない匂い』が、病院にお見舞いに行った時に感じる匂いだ、ということに気付く。
「怖くはないけど……、病院の匂いするね。ここ」
「そりゃそうよ。病院の消毒液使うからね。死体を洗うとき」
「え、死体って、貝殻のことでしょ」
「貝殻に限らないよ。鷲とかイグアナとか、見たでしょ」
「見たけど、……剥製とかって業者が作るんじゃないの」
女の子は肩をすくめて「ちょっと喋りすぎたかな」と言う。
「え、どういうこと? あの剥製って、ここで作ってるっていうこと?」
「そりゃそうでしょ。だって医者だよ? 自分で上手に出来るのに、下手な業者に頼まないよ」
女の子は私から目を逸らし、俯いて本の続きを読み始めた。私は今の会話を頭の中で反芻して、目に映る幾百の『死体』を改めて眺めた。夏も近い季節で、空調も入っていないというのに、部屋の温度は相変わらずひんやりと冷たい。腕の表面がぷつぷつと粟立ち始めるのを感じる。
「ここは、死体展示館なの。人間には絶対作れない自然のものの形を、死体に処理をすることで、美しい形で何十年も何百年も保管することができるの」
本に目を落としたまま、平然と話す女の子が、少し恐ろしく思えた。
「……死体を展示なんて、していいの?」
「だってただの貝殻とか剥製だよ。さっきまで普通に覗き込んでたのに、変なの」
何かが、繋がりそうな、気がした。
「ねえ、」
目を伏せたままの女の子に声を掛ける。
「私、ちょっと前に引っ越してきたんだけど、引っ越してきてからずっとこの街が全部、作り物しかないように思えて。ご飯に出てくる魚とか肉とか野菜まで、プラスチックを工場で練って作ってあるんじゃないかって思えて。空とか、絵に描いてあるんじゃないかって思えて。」
胸に詰まっている誰にも分かってもらえない違和感を、吐き出してしまいたいと思った。
「公園に茂ってる葉っぱも、道端の草とか、ここにある貝殻も、全部人が工場で作ったんじゃないかって。生命があるとか、生命がなくなって物体になるとか、よく分かんない。街自体が、映画の中とかの架空の街みたい。……ここにあるものも、死体って言われても、物としか思えない。生命がある、あった抜け殻が死体ってことでしょ? 生命があるから、死体になるんでしょ? 生命がなければ、物は物でしかなくなるでしょ?」
女の子は、本から目線だけをこちらに向けて、私が話すのを黙って聞いた。
「私、何かがずっと怖かった。生命があった物体が、物体にしか思えなくなったのが怖かった」
「あのさ、人が死ぬとこ見たことないの。それまで生きてた人が、白くて固い蝋みたいな物体になるの、知らないの」
「……知らない。知らないって言うか、身近な人が死んだとこ、見たことないから」
「あ、そう」
女の子は何かを考えているらしかった。私はその場に立ち尽くしたまま、彼女の言葉を待った。
「でもさ、ここにある死体は、幸せな死体だと思うよ。死体がきれいに保管されてるって、それだけで生きていた証だから」
「……普通は生きていた証って」
「燃やしちゃうじゃん。犬でも猫でも人でも。腐るかもしれないし、誰にも気付かれずに消えるかもしれないでしょ」
「…………」
「普通は生きてた証って、歴史に残るようなことするとか、作品を残すとか、建物建てるとか、子供作るとか、そんなことしないと残らないけど、ここにいる死体は、ただ生きてただけで形が残るんだもん。苦労しなくても形が残るって幸せだと思うよ」
「……それって人間の話じゃないの?」
「さあ? ただ、あたしは幸せだけど」
*
唐突に、部屋の電気が消された。振り向くと、私を迎えた老女は固く冷たい表情をして「閉館しますから、出て」とだけ私に告げた。
門を出るまで、老女に見送られ、私が敷地を出るとすぐに門は再び閉じられた。入った時から、どれくらいの時間が経ったのだろう。もう暮れていてもおかしくないと思っていたけれど、日は未だ落ちては居なかった。この中に居たのは、一時間くらいだろうか。ずいぶん長く――半日くらいの時間を過ごしたような気持ちがしていた。
老女が電気を落としたとき、部屋の奥にはまだあの子が座っていたはずだ。迎えてくれた時には穏やかで優しそうだった老女の、帰り際の冷たい強ばった表情が少し気になった。
あの子の名前は結局聞けずじまいだった、と思う。でも同じ学区で、年も同じくらいだから、多分小学校で見かけることもあるだろう。次に会えた時には、私から話しかけてみよう。――そんなことを考えながら、家へ向かう道を自転車で走った。不思議な子だったけど、あの子と話す時に、私は緊張せずに話せた。変な気遣いや遠慮をせずに、話ができた。こんな風に人と話せたのは、とても久しぶりなことのように思えた。