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――嘘だ。
硬いものがぶつかり合う音。それは、ばらばらになった伊號から発せられている。千々に引き裂かれ、単なる鉄の塊に還った残骸が、余すことなく海底へと沈んで行く。魚雷のマーキングとリリィ3の信号が消失。現時点では、彼の生存を確認することはできない。長い沈黙をおいてから、彼の名前を呟いた。
「……ヨースケ?」
海はまた静かになる。今の戦闘など嘘だったかのように。リリィ2機が爆発地点まで急ぐ。死んでいるとは限らない。脱出している可能性もある。
――きっと嘘だ。
泡立った海水が、視界を遮って行く手を阻む。彼女は、それでもスピードを緩めず、気泡の雲の中に機体を侵入させ、水中ライトを点灯した。浅いので陽光は十分だが、やはり細かい泡で何も見えない。ライトもまったく役に立たなかった。
「リリィ3! 返事しなさい!」
無線で彼に呼びかける。
返ってくるのは機械的な雑音だけ。
「あたしとの約束はどうなるの……! ほったらかしなんて、そんなことしたら、どうなるかわかってるでしょうね!?」
応えはない。
「……おねがいっ! お願いだから声きかせて……!」
目を閉じ、下を向いて叫ぶリリィ2。
その頬に一筋の熱いものが流れた。
「やめなさい」
その声に顔を上げる。リリィ1隊長の声だ。機体を後ろに振り向かせると、気泡の雲を払いのけて、隊長機とリリィ4の機体が姿を現した。ほかの小隊の伊號や、潜行機の〈呂號〉や〈波號〉の姿もある。
「隊長……」
「遅れてごめんなさい。リリィ3のビーコンが確認できない。おそらく……いや、確実にリリィ3は死んだ」
淡々と言う隊長の声と共に、応援に駆けつけてくれた友軍ダイバーたちの通信が聞こえていた。オイルが浮いている。海上には誰も浮いていない。そのような内容の会話が飛び交っている。
「この攻撃を受け、カエデ工業護衛司令から入電があった。海峡内すべての敵に対する撃沈命令が出た」
「敵って……誰ですか? 隊長……」
まだ少し虚ろな声のリリィ2。隊長はリリィ2を慰めこそしなかったが、いつもの刺々しい言い方もしなかった。
「それがわからないんだ。だから攻撃をしてくるものを『敵』と判断するしかない」
「撃沈命令……」
企業軍が撃沈命令を発することは、まずない。異例の命令ではあったし、普通だったら躊躇してしまったかもしれないが、リリィ2は今の自分にならできると確信した。
「どこの海上強盗団だか知りませんが、皆殺しにします」
彼女は、恐ろしい言葉が自分の口から発せられていることは自覚している。だがそう言わずにはいられない。敵も同じ苦しみを味あわせてやるという思いが、胸の奥で沸き上がっていた。隊長からの応答はない。尋常ではない決意を察したリリィ1は、ただ黙っていることしかできなようであった。
海中の気泡の雲が晴れつつあり、視界は次第に開けていく。音も、遠くまで聞きとれるようになってきた。リリィ2は、腕部固定武装のスピアガンに弾を込める。機体の太腿部分などに装備されている予備の弾を、腕の給弾口に差し入れて発射用の圧縮空気を充填。ライフルを捨ててしまったいま、使用できる武器はそれだけだった。
「なんだ?」
味方の誰かの無線が聞こえる。気になってソナーを操作する。方角は北だ。聞こえたのは無数の推進音。こちらに向かってくる。
「AFM-D! 潜行機もいます!」
リリィ2は、回線を開いて全員に伝える。索敵していた全員が同じ方向を向く。サブモニターのソナーには、多く光点が点滅を繰り返している。すべてが正体不明機だ。海上強盗団の海賊は、チームを組んで貿易船を襲う。しかし、隠密かつ迅速に事をなさなければならないため、これほどの数をそろえることはしないし、予算の都合上で簡単にできることではない。
「こんな数……! やつら本当に海上強盗団なのか……!?」
「海軍の軍事演習じゃ……?」
海賊とは思えぬ不明機の多さ。
それに、隊員の誰しもが狼狽えていた。
「関係ない、敵なら殺してやる……」
リリィ2は一人で呟く。
ゆっくりと、機体をその方向に向けた。
「待ちなさい!」
ただならぬ気配を察した隊長の声。それを無視してでも進むリリィ2。このまま接近すれば、敵だったら攻撃してくるはずだ。そうでなくても、相手は何かしらのアクションを起こすはずである。じわりとアクセルを開くリリィ2。敵か否かと問いただすように、紺色な海の向こうを睨む。隊長が何かを叫んでいたが、それを聞こえない振りをして。
そのとき、真下から探信音が機体を叩いた。さっきと全く同じように。ソナーに新たな光点が表示され、距離と位置の数値をAIが弾き出す。近い。またもや真下から迫ってくる。先程と違うのは、リリィ2はそれの認識するのが少し遅れていたことだった。
「リリィ2! 魚雷だ!」
隊長は、それを叫んでいたのだ。正気に戻ったリリィ2は、回避するためにモーターの出力を上げる。直後、彼女の伊號を何かが追い抜く。リリィ1隊長の機体だ。
「離れろ! リリィ2!」
次は隊長が囮になる。それを良しとしないリリィ2は、命令を無視して無言のまま隊長機を追う。魚雷からの探信音が響く。鋭いスクリュー音が真っ直ぐ隊長に向かっている。
アクセルを一気に踏み込む。
全速で前の隊長機を目指す。
スピアガンを起動し、狙いを定めて発射。
水中徹甲弾がリリィ1の伊號をかすめる。
それに驚いた隊長機に衝突して弾き飛ばした。
「っ……! 何のつもり!?」
その隙に隊長を追い越し、わざとジェット推進を吹かして魚雷のターゲットをリリィ2の伊號に変更させるよう機体を躍らせた。果たして魚雷の探信音がリリィ2の機体を叩き、こちらに向かって直進してくる。コクピットの中に警報音が鳴り響く。
「隊長、あたしに任せて!」
「やめろリリィ2!」
「大丈夫、上手くやります!」
魚雷を引き受け、隊長から離れるように逃げるリリィ2。雷速五〇ノット。機体を翻らせ、魚雷に向き合いながら後進する。
――食いついて来い。私が相手だ。
深呼吸するリリィ2。ノーロックで狙う。
手動で十字を魚雷のマーキングに合わせる。
息を止めてトリガーを握る。小さい反動。
右腕から鋭い弾が海底に刺さるように飛んでいく。
その刹那、気泡を含んだ輝きが海の中を照した。
重い衝撃波と爆音。
リリィ2が放った弾は見事に命中したのだ。
「ヒュー!」
リリィ2は興奮してガッツポーズをしてみせる。
だが、これで終わりではない。
さらに複数の探信音が彼女の機体を突き上げる。
魚雷一発だけではなかったのだ。
「リリィ2今いく!」
隊長の分隊や他の仲間とも遠い所まで来てしまった。彼女がひとりで対処しなくてはならない。素早くソナーを操作するリリィ2。AIの解析結果では四本の魚雷が接近していることを示していた。ソナーを増幅させて自分の耳でも確かめる。一、二、三、四本。間違いない。
「おもしろい……上等じゃん」
彼女は目を輝かせて、伊號の左腕部を構えたさせた。
引き金が握られ、スピアガンを発射する。
飛び出した徹甲弾が空気の線を曳く。
その鉄の針が魚雷の弾頭に突き刺さった。
結果、目標に命中したと信管が勘違いして爆発していく。
――全て撃ち落としてやる。こうなれば速打ち勝負だ。
二本目、三本目と、水中で花火が開く。あと一本。さすがに緊張で息が上がってくるリリィ2。腕部のスピアガンに装填された水中徹甲弾は撃ち切った。ピッチが高いスクリュー音が接近。脚部に装備されている予備弾を一発だけ引き抜いて右腕スピアガンに装填する。
焦る。そして迫るは最後の魚雷。
目視できるほどの距離だ。
別の方角から数本の空気の矢が魚雷の前を横切る。
リリィ1隊長の分隊が放ったハイスピアガンだ。しかし、
「……遠い!」
鋭く成型された弾も減衰するほどの遠距離で、命中率も落ちている。さすがに隊長から離れすぎたか、と後悔するリリィ2。だが彼女の伊號は、すでにスピアガンの射程に魚雷をとらえている。装填完了まであと少しだ。
ところがそこで吸弾口に弾が詰まる。
装填し直している時間はない。
命中まで五秒前の距離。
「何とかしろアカネ! 死ぬことは許さない!」
短い間隔の探信音とアラートの音がリリィ2が搭乗するコクピットの内を満たす。流石に焦ったリリィ1隊長の叫びが、レシーバーから辛うじて聞こえた。
「うおお! なぁめるなっ!」
隊長の声と重なってリリィ2が吼える。
全タンクブロー。スラスターを一気に吹かす。
魚雷にロックされたときの最後の手段。
命中直前での緊急回避。
その瞬間、全ての時間がゆっくりと流れた。
浮上しながらスライドする伊號。
海面に向かって突き刺すように進む魚雷。
その弾頭が迫る。
ダメだ、このままでは当たる。咄嗟の判断によって、潜横舵の転舵と片方のタンクに注水を行い、機体を横転。魚雷の弾頭が命中するはずだった肩部は寸前で翻り、伊號の頭部は魚雷の腹を見た。
その瞬間にリリィ2は、避けた、と思った。しかし――。命中していないはずの魚雷。その雷管が目の前で炸裂した。
「ぐぁぁあああ!!」
近接信管。それは、目標が接近しただけで起爆する。凄まじい衝撃がリリィ2を襲う。腕部や脚部も衝撃波で呆気なくアクチュエータが破壊され、粉砕し、オイルを巻き散らかして弾け飛ぶ。
爆発の衝撃で周辺の水圧が急激に高まり、コクピットのある胴体部分の装甲を砕き、防弾スクリーンを千切り、耐圧殼に亀裂を走らせた。
その衝撃で、コクピットのモニターガラスは悉く割れて飛び散り、破裂した配管は機内を跳ね回る。断線によって電力供給が断たれ、伊號はその全機能を停止した。
浮力の回復は絶望的だった。ゆっくりと海底に向かっている。それは死へ続く一方通行の道程だ。すべての光は消えた。非常灯にも損傷があったらしく点灯していない。本当の真っ暗闇である。
「クソっ、非常用バッテリーは……」
うんともすんとも言わない。電力が断たれたということはAIによる自動救難プログラムの実行も不可能。リリィ2のビーコンも発信されているのかも怪しいものだ。
「うぅ……ちくしょう……まずったなぁ」
浸水する音が聞こえる。足の下から、かなり早いスピードで冷たいものが昇ってくる。
「……いっ……づぅ……」
感じるのは海水だけではない。生暖かくてぬるぬるしたものが、体の至るところにまとわりつく。血液だった。それはまず頭から流れて右の目を濡らし、頬を伝って顎から止めどなく滴る。どうも良くないらしい。
さらに、右腕の手首から下に焼かれるような熱さを感じるリリィ2。左手で右手首を触ってみると、その向こうは血の滝になっていた。
「ははっ……。あたしの右手、どこ行ったの……?」
リリィ2の右手がない。何かに切断されてしまったらしい。彼女は、自分がまだ興奮状態にあることを自覚している。そのせいか痛みがないのが幸いだと思った。ただ尋常じゃなく全身が熱いだけなのだから。
一五〇メートル以上ならば脱出可能である。水中脱出用の装備を用意して、ハッチをこじ開ければ、助かる可能性はある。しかし、いかんせん体が動かなかった。もはや、機体として呼んで良い物か分からないリリィ2の伊號が、むなしく沈降していく。水圧は、徐々に強度を増し、コクピットを締め付けるたびに鉄が歪むような不気味な音を奏でていた。
頭痛が酷くなる。一方的に押し込まれる海水のおかげで、機内の空気が圧縮され頭を圧迫させるからだ。目球を潰させるような圧力と、開けていても視界は得られないため、瞳を固く閉じた。
水と鉄の音。
そのほかには何も聞こえない。
隊長の声も。
仲間の声も。
まるで、水葬された棺のなかで目が覚めてしまった死体になったような気分のリリィ2。いや違う、すでに死体そのものじゃないか、と彼女は哀しく笑う。
死ぬなら、その前に誰かの声が聞きたい。そう、彼女は思う。怖いリリィ1隊長。無口なリリィ4。そしてもう一人――。
「……ヨースケぇ」
浸水は止まらない。
ただ沈んでいく。
人恋しさに、両腕でわが身を抱く。
「お願い、迎えに来て……」
涙と血が混じったものを、目からを流しながら彼女は呟く。その声は、死んだコクピットの中で冷たく反響した。
――立てないんですか?
「……え」
リリィ2には確かに聞こえた。それは間違いなく先に戦死したリリィ3、ヨースケの声だった。
――仕方がないですねぇ。
「……うるさい。……黙って手伝いなさい」
口を尖らせ、幻のヨースケを睨むアカネ。それに対してヨースケは、いつも通りのはにかんだ笑顔を見せて手を差し伸べる。
「約束忘れてないよね」
――もちろん。
ヨースケの手が、アカネの右手をしっかりと握る。彼女は、失われた筈の右手のひらの彼の温もりを感じた。それだけで充分だと思う彼女。いつも直接に見せたことがない柔らかな笑みを、初めて彼に向けるのだった。
機体が耐圧限界を迎える。ついに、水圧に屈したコクピットの隔壁が引き裂かれ、その裂け目から、何本もの海水の筋が機内に突き刺さる。大量に流入した黒い水は、アカネのすべてを一瞬のうちに呑み込んでいった。そのときの彼女の顔が、どれだけ安らかなものだったかを誰も知ることはできない。
無数の発砲音が、彼女の上から降ってくる。
突然現れた「敵」との戦闘が始まった。
相手が何者かもわからぬまま、相手を『大規模な海上強盗団』であると断定し、交戦するに至る。その前に発生したリリィ2分隊の戦闘は、直後に起こった海戦に塗りつぶされてしまい、記録には残っていない。ただ、二人がこの海峡での海戦で命を落としたということだけが、戦死者の数の内に記録され、日本の遺族に伝えられただけであった。