猫成峠
純文学と詩のサークルなのに、夏季の会報の課題は怪談……。
まだ若い亜希には、そのことが不満らしい。
「……ったく! 番場さんたら! 三島のあの言葉の意味、ちゃんと解って言ってんのかしらね!」
夏季号の特集のエピグラフには、かの文学者が言ったとされる一句、「文学の至極は怪談にあり」が掲げられる予定なのだ。
「そもそも現代詩に代表されるポストモダンの文学って、物語だとか構造主義的な言葉の意味だとかを、疑ってみるとこから始まったんじゃなかったんですか?」
真也の頬に、亜希の呼気の熱気がかかる。
彼女はこちらに顔を捩り、彼を睨むようにして話しているらしい。
既に初老に達した彼には、この種のベタな文学談義が回春剤のように感じられるのだが……。
「まあ物語というよりもうちょっと原初的な、一般大衆の語りだよね……。怪談って……。 確かに百物語って言葉はあるし、それを採録して一冊の本にすれば、『遠野物語』なんてタイトルの本にもなっちゃうんだろうけど……」
ある文芸サークルの例会後の飲み会。
二人は仲間たちから離れ、カウンター席で飲んでいる。
今世紀初頭、真也はポストモダニズムの何世代目かの旗手として、文壇、論壇を暴れ回った。
そして若い亜希たちが使う言葉も、「大きな物語の終焉」だとか、「脱構築」だとか、「敢えての決断主義」だとか、彼には馴染みのテクニカル•タームで……。
アウェイ感はなかった。
精神を患って大学こそ退官したが、彼はそれなりに幸せな筈なのだが……。
「怪談か……」
亜希は、真也がその呟きの中に漏らしたものを素早く感じ取り、自分のフィールドへと引っぱっていこうとする。
「なんだ! 藤原さんだって不満なんじゃないですか! 今度の特集! 結局、ポルノグラフィなんですよ! 怪談って! トイレの花子さんだとか! 口裂け女だとか! 恐怖の対象は決まって女性で、鍵がかかったトイレだとか、異様に大きなマスクだとか、晒し者にされるべき彼女たちの秘密も、初めから露骨に提示されていて……」
「確かに、ストリッパーの下着だね……。必ず脱ぐことになる……」
「そう! そうですよ!」
亜希の口調は熱気だけでなく、唾や匂いまで飛んできそうな勢いだ。
(あの頃もこんなコがいっぱいいたな……)
十年と少し続けた大学教授稼業。
やはり彼には、栄光の時代だった。
国の経済こそ低迷していたが、そこがむしろ、彼とその仲間たちにはつけ目だ。
たとえば、某大型書店の最上階ホールを借り切り、トークライブなどを敢行したりする。
経済学の教授を一人だけ呼んでおくのがミソだ。
マル経教授ならなおいい。
「困ったな……。なんかこう必然的に、失礼な言い方になっちゃうんだけど……。資本家階級だ、労働者階級だって類いの、所詮経済学の範疇を抜け出ていない概念じゃ、現代社会は斬れないんじゃないかな……」
「そうそう。重層決定とか、国家イデオロギー装置とか、いわゆる認識論的切断を認めたうえで、敢えて初期マルに拘ってみるとか。 先生もっと、勉強してくださいよ!」
「いやいや、実存主義からやり直しじゃねっすか? 何しろこの人たちの実存主義って、サルトルがルカーチにバンザイしちゃったあとの実存主義で、ハイデガーはおろか、メルロ‐ポンティさえ押さえられてねんすから……」
ある面大勢で一人をイジメている状況なのだが、やはり男は、強くなければ生きていけない。
故に、勝たなければならない。
たとえ口説の業界においても……。
そしてそんな真也たちに、ギャラリーたちも喝采を送った。
女性ファンもいた。
今隣りにいる亜希も多分そうなのだが、普段は堅く、臆病な女たちだ。
高校時代は図書委員か何かやっていたといった感じで、コンタクトではなく敢えて眼鏡を選択──。
(おっかない男の子たちに寄ってこられるくらいなら、ガリ勉のブスって思われてるほうがマシ……)
ところが彼女たち、活字の世界では大層な冒険家で、「エッチな挿絵のある」『千一夜物語』は、小学校のラスト二年で完全読破してしまったりしている。
また兄たちが「堂々と読めるエロ本」として購入し、
「こんなかったりいモンで抜いてられっかよ!」
などと言って放り出した河出文庫版マルキ・ド・サドやL・ザッヘル=マゾッホを、古紙の束からピックアップし、「去年の参考書の後ろにある秘密のコーナー」にコレクションしてしまったりしている。
さてそんな彼女たちが、大学入学を契機に弾ける。
無論ライトスポーツのサークルに入って薔薇のように花開くコたちもいるが、やはり多くは谷間の百合で、そして引き続き「お勉強」が、彼女たちの冒険の理由になる。
フェミニズムまでもがその「お勉強」リストに入っていると知れば内心穏やかでないフェミニスト教授もいるのだろうが、とはいえ不都合な真実には、ダンマリを決め込むのがポストモダンの流儀……。
故に真也のような「役得ウェルカム教授」たちも、周囲のフェミニスト教授たちからの追及を受けることなく、人生ここまでしのいできたのだ。
(さらに休養も充分取ったし、今再び、文の抗争の最前線へ!)
彼は自分でも、何をそんなにリキんでいるんだ? と思った。
文壇、論壇、そして大学を退いているあいだも、彼には父の理髪店の経理という仕事があったし、現にあるのだ。
(やっぱ、怪談ってのが引っかかってんだな……。だったら無理せず、今回の復帰はパス……。病気の再発も恐いしな……。でも、何がそんなに引っかかってんだ?)
「あの、藤原さん? どうかしました?」
ふと気づくと真也は、両手で握ったグラスに突っ伏すような姿勢になっていた。
顔を上げると亜希との距離はさらに一層縮まっていて、サワーの匂いの中、確かに彼女の呼気が香った。
彼女は眼鏡はしていなかった。
もっとも、大学デビューのおり、眼鏡からコンタクトに切り換えたのかもしれない。とにかく、
「眼鏡がないほうが可愛い」
などと素直に言ってしまうのが惜しいような、優等生タイプの美人である。
(復活の時期こそ繰り延べるにしろ、そのための生け贄は、やはりこのコを置いてないな……。頭は少々婆臭いが……)
真也はそう思い定め、彼女との会話を続けるべく、言葉を探った。
「えっと、あの……。怪談とポルノグラフィって話だったよね? バックには男性たちの窃視症的欲望があって……。でもこんな風にも、考えられないかな? 女性たちの性は、暴かれる以上に抑圧されているって……。たとえば僕は、一九世紀末の怪奇小説なんてものも結構読み込んでみたんだけど、あの時代の女性たちって、脚を見せることさえ禁じられていたんだよね。さらに脚繋がりで、テーブルの脚にさえ覆いがかけられた……。僕はそんな時代状況の中の、怪奇小説に注目してみたんだ。そして執拗に繰り返される、女性の墓を暴くというシークエンスに出会った。『吸血鬼カーミラ』。『吸血鬼ドラキュラ』のルーシー・ウェステンラ。無論ドラキュラ伯爵本人の墓も暴かれることになるわけだけど、あれはむしろ同時代の、探偵小説からの借りものだね。犯人と探偵の追っかけっこ……。ところで話を先の二人の女性たちに戻せば、一体何が、いけなかったのか? 彼女たちの何が、男性たちのあの破廉恥行為を、激発させる結果になったのか? カーミラの場合はレズヴィアニズム。ルーシーの場合は外国人男性、つまりドラキュラ伯爵の誘惑への屈服だよ。実際死体を晒すなんて行為は、よほどの変態にとってでなければ、性的な行為というよりは懲罰的な行為だよね? でも僕には彼女たちのラインにこそ、あり得たかもしれないもう一つの近代と、その近代の中で活動するもう一つの女性像とが、あったような気がするんだ。だから今からなされべきは、怪談を告発することではなく、むしろ君の中で、僕の中で、その怪談を活動させること! そして──」
息継ぎの一瞬を衝き、沈黙が落ちた。
彼もさすがにしゃべり過ぎたかな? と思った。
ややあって亜希が言った。
「『思想空間』の連載と基本的に同じですよね……」
「あっ、ご免……。同じ話の繰り返しになっちゃったかな……」
「いえ、いいんです。私、藤原さんとあの連載のお話、いつかしてみたいって思ってましたから……」
再度沈黙──。
次に亜希が口を開いたのは、真也にではなくバーテンにだった。
「済みませんっ! 焼酎ロックで、貰っちゃっていいですかっ?」
これには真也が少々慌てる。
「ちょっ、ちょっと。大丈夫なのっ?」
ある程度酔わせるのは彼の計画通りだったが、完全に酔われるのは、やはり困る。
だが彼女はグラスを受け取ると、グビグビ一気に空けてしまった。
真也は半ばあきれながら、ペコペコ上下する亜希の白い喉を観ていた。
彼女のような優等生タイプは、どこかに必ず、このような「意外性」を持っているものだが……。
ペロッと唇を舐めると、さらに続けてお代わりを注文する。
そして真也に向き直ると、
「私の実家、造り酒屋なんですよ。だからお酒に強い性質、強化されてきちゃったんですかね? これでも全然酔えないんです」
などと言う。
二杯目も一気に空けた。
グラスをバーテンのほうに押し遣り、突然放ち出した無言のプレッシャーで、三杯目を注文する。
今夜なん度目かの沈黙が訪れた。
やがて亜希はグラスに視線を落としたまま、ポツリと呟くように、言った。
「藤原さんどうして、タナトスの問題、避けちゃったんですか?」
「いや別に、意図的にそうしたわけじゃないけど……。もし君にそんな風に読めるんなら、それは多分、女性たちの抑圧されたエロスのほうに、議論を集中したからじゃないかな……」
亜希の問いに応えながらも、真也は自分で、どこか言い訳がましいな……、と思った。
(でも、誰に対して?)
彼女の問いが、特に鋭いものだとは思えない。
エロスとタナトスの二重性。むしろこの種の集団では、「手垢のついた」のテーマだろう。
(それなのに俺、避けてたんだ……。それ……)
真也のその応えを聴いていたのか、いなかったのか──、独白のような亜希の言葉が続く。
「……批判してるわけじゃないんです、私。いえ却って、あの連載のこと、ずっと心に引っかかってて……。あの文章の何かに、あてられちゃってるっていうか……。それが多分、タナトスなんですけど……。おかしいですよね? さっき私、最初に、タナトスが避けられてるのはなぜですかって聴いたのに……」
こうなるといよいよ、真也も酔えなくなってくる。
そこへ亜希の、ダメ押しの一言がきた。
「藤原さんも何か、抑圧しちゃってますよね? ずっと」
彼女はまたこちらを視ている。
意識は明晰でもアルコールは作用しているのか?
まるで眼底出血でも起こしたような、真っ赤な眼をしている。
彼も酒を頼むことにした。
もっとも彼が頼んだのは、それまで同様、サワーだったが……。
「これは多分、関係ない話だとは思うんだけど……。実際普段は、忘れてる話だしね……。全然理論的な話じゃないし……」
亜希が身を乗り出し、彼女の肘に当たったグラスが、カラッと小さな音を立てた。
真也は口を湿らせ、自分の正面やや上方に、遠い視線を泳がせる。
「……学部生時代に、一連の、ちょっと嫌な体験をしてね」
「学部生時代に──」という言葉の中に、大学院に進んだ者独特の語彙が現われているなと思いながらも、真也はいつもの、「俺、学部は三流私大で、院では完全な外様扱い……」と自動的に続く注釈は省いた。
まだバブルの余勢を駆っていた頃の、三流私大の文系馬鹿学生たちの雰囲気は、この話にも少し関係があるなと思いながらも……。
彼は今、過去の友人と対面している。
カウンターの向こうの壁は、完全にふっ飛んでしまっている。
(お前か……。お前だったんだな……。俺自身気づかないうちに、俺をこんな、ポンコツにしちまったのは……)
ボサボサの髪が完全に眼にかかって、その髪のあいだから、上目遣いにこちらを見ている。
「堂本っていったかな……。そう、堂本だ。堂本に、俺……。車は富田のだった……」
亜希が「えっ?」と問いかける声を、真也はすでに、遠くに聞いている。
煩わしいなと思いながらも、彼は辛うじて、第三者への言葉を組んだ。
「学生時代のサークル仲間だよ。『現代文学研究会』。『文学研究会』ってサークルが以前からずっとあって、でもそこはちょっと、俺たちには敷居高くて……。それで俺たちは大学非公認の、自主的なサークル作って……」
以前からあった『文学研究会』に比べ彼らのサークルはやや軽めのサークルだったから、問題の堂本は、そこでは浮いた存在だった。
「と言って昔からあった、『文学研究会』のほうが似合ってるって奴でもなかった。それほどデキる奴でもなかったし……。とにかくズレてる奴だったね。好きな作家は宮本百合子ですって! あの時代にだよっ?」
そこで亜希が「宮本百合子って?」と聴いてきたので、真也はどうにか、こちらの世界に戻ってくることができた。
(なるほどこのコたちの世代には、宮本百合子って名前にも注が必要なんだな。そうすると日本の旧態依然たる文壇、論壇も、ようやくマルクス主義の呪縛から、解放されてきたってことになるかな……)
その文学者についての解説のあとに、彼は旧友の紹介を続ける。
「だからさ、堂本も、そっち系の奴なのかなって思われてたわけだけど、彼自身が言ってたように、そうでもないらしいってことが分かってきたんだ。さすがにマルクス、エンゲルスは知ってたけど、カウツキーだ、トロツキーだって話になると、もう誰それって感じなんだよ。あとグラムシに関しては、はっきり知らないって言ってたね」
真也はそこで話を切った。
今度は亜希にも、確認事項はないようだった。
「けどやっぱ、イジメられるよね……。そりゃ大学生だから、殴る蹴るって話じゃないけど、合評会なんかのたびに、未だに同志・宮本百合子を愛読してる堂本君からすれば、僕の作品などはどうしょうもないブルジョア・イデオロギーの汚染物なんだろうが……、なんて、妙な決まり文句が繰り返されるようになってね。堂本の奴も、それに一々腹立てて……。俺が何読もうが勝手じゃないか! それをある作家を読んでるってだけで、こんな侮辱的な扱いを受ける。そのほうがよっぽどイデオロギー的だし、よっぽど全体主義的じゃないかって言われりゃ、そりゃ確かにそうなんだけど、誰かが起立して、同志・堂本! 異議なし! なんて言って、全員爆笑……。そんな感じだったな……」
サワーで口を湿らせると真也は、いよいよ本題へと入っていった。
「堂本はそんな奴だったから、なんであいつが、あの時あの三人の中にいたのか、そこんとこが、よく解んないんだ……」
「サークルの仲間だったからじゃ?」
「まあそれはそうなんだけど……。大学非公認とは言っても『現代文学研究会』には、二十人前後の常連メンバーがいたからね。本家『文学研』より大所帯だったよ。だから当然その中で、幾つかのグループに分かれてた……。堂本は孤立してて……。少なくとも、俺たちのグループじゃなかった。それともう一人、富田って奴がその時一緒にいたんだけど、そいつはほとんど幽霊部員状態で、そもそも堂本とのあいだに接点があったのかどうか……。俺には勿論、あいつを呼んだっていう記憶はないし……。あっ、でもあいつ、助手席に座ってたな! だったらあいつら、知り合いだったんだ!」
と、どうでもいいような発見に、妙にテンションが上がる。
亜希に、直接その人に確認すればいいじゃないですか? と言われたが、その言葉への応えの中にも、事態の異様さが含まれていたのだった。
「いや……。今笑いたくなっちゃったんだけど、それはもうできないんだ。永遠に……。考えてみりゃあの時の三人で、生き残ってんのは俺だけなんだな……。でも行った先での事故じゃないよ。全員一度は帰ってきたんだ。特に怖い目にも遭わず、無事に……」
「心霊スポットか何かに、行っちゃったんですね?」
「そう。怪談特集に反対な君に、ベタな話で申し訳ないんだけど……。場所の名前もベタで……。猫成峠……。暴走族たちの通称だけどね……。正式名称のほうを覚えてれば、それで検索できるんだけど……。猫成峠の正式名称教えてください、××県○○峠です、みたいな質問のページ、割り合い早く、消されちゃうんだよ……。あと最近じゃ、その質問をすることに関しての都市伝説もあるし……」
ひょっとして亜希が気を悪くしているのではないかと思い、真也は確認の視線を向けた。
彼女は相変わらず前のめりに、彼の話を聴いてくれている。
亜希の息は依然としてかぐわしかったが、真也は酒が入った自分の息を、彼女に嗅がれたいとは思わなかった。
そのためまた前を向いたが、復活の生け贄としての彼女の身体への欲望が、醒めてしまっていることに気づいた。
焦りが消えているのだ。
やはり堂本と彼を巡って起こった事件について、こうして意識化して第三者に語っているのは、よいことなのかもしれない。
「あと心霊スポットに行っちゃったんですかって質問に取り敢えず肯定的に答えちゃったけど、俺たちが行った時点じゃ、むしろパワー・スポット……。願いが叶うんだけど、でも、『笑ゥせぇるすまん』的なバッドエンドな話が多かったから、やっぱあの時点でも、心霊スポットってことでよかったのかな? まあ少なくとも俺たちは肝試し感覚で行ったし、途中で寄ったファミレスなんかでも、そんなバッドエンドな話ばっかしてたね。たとえば野球とかサッカーとかで、レギュラーメンバーになりたいって願ったら、親友とか尊敬する先輩とかが死んじゃって、それで繰り上がりでその九人だか十一人だかに入れたって話だとかね……。因みに願いは井戸の底に向かって叫ぶんだけど、その井戸ってのは峠の中腹から分かれてる未舗装の砂利道を登って行って、その先にある廃校の裏にあるんだけど……。猫成ってのが正式名称じゃないから、猫成小学校とか猫成中学校とか打ってもほとんど検索結果ヒットしないんだ。猫成峠の廃校だとか、猫成峠の井戸だとかって打てば、十ページぐらいは出てたかな、昔は……。大体がさっきのバッドエンドの話だとかで、そこへのアクセスだとかはやっぱあんま出てこないんだけど……。校舎は木造二階建てぐらい。意外と綺麗だったな。窓ガラスとかがどうなってたのか? そっちのほうは用なかったんで、あまりよく見なかったんだけど、でもとにかく、危険な感じじゃなかった。そういえば峠自体は暴走族の溜まり場なのに、落書きなかったな。なんでかな? 井戸自体も全然怖くないんだ。コンクリートでできた升みたいな形で……。その井戸に俺と富田が何を願ったのか、自分たちのことはすっかり忘れちゃって……。いや、富田の場合は多分そうだったんだろうなって推測の話になっちゃうわけだけど……。でもあいつは……、堂本の奴は……、やっぱちょっと、やらかしてくれんだよな……。最初の頃は俺はいいよ、なんて遠慮してるみたいな感じだったんだけど、しばらく押し問答してたらスッと井戸のほう寄ってって、落ちるんじゃないかってくらい上半身ガバッて突っ込んで、女だ女ああっ! 女寄こせええっ! 美人で巨乳で大金持ちのだぞおおおおっ! だって……。俺なんか、腹立っちゃってさ。彼女欲しいんならお前、こんなところで叫ぶ以前に、他にもっとやることあんだろ? なんて、柄にもなく真面目にね。でもそのあとやったことは、まあやっぱ、ふざけてて……。俺また井戸のほう寄ってって……、って言うのは、自分の願い言った時、一度井戸のそば行ったからね、で、奴の隣りに立って──。けどその女ああっ、腋もアソコも物すげえクセエエエエッ! そしたら富田もまたこっち来て──、堪らず堂本君逃げ出すもおおっ、その女ああっ、『危険な情事』のあのおばさん化ああああっ!」
「『危険な情事』のあのおばさん?」
「ああ。あの頃はまだストーカーって言葉が、少なくとも一般には、流布していなかったからじゃないかな? でも富田は多分、そんな意味で……」
九月早々のことだった。
その年はいつまでも蒸し蒸しした日が続いていた。
カラッと太陽が出る日は少ないのに、それでもなぜか、ひどく暑い……。
そしてそんな中──。
「野上啓子に関するあの噂が、囁かれ出したんだ……」
「野上啓子さん? ああ。本当に堂本さんに、彼女さんができたんですね?」
「まあね。奴が願ったように、美人で巨乳で大金持ちの……。つまり奴には、分不相応な……。でも、素直に喜べばいいことだよね? そりゃ確かに、彼女と彼とに関する噂は、奴には腹に据えかねるもんだったろうけど……。大筋では野上さんが、何か弱みを握られてるんだって……、そんな風なね……。すぐに奴、学校来なくなって……。そして野上さんが、俺たちの、ああつまり、『現代文学研究会』の会合に突然現れて、奴のアドレス教えてくれって話で、ちょっと揉め事になったりとかして……」
と、真也の眼の焦点が、スーッと遠くなる。
(彼女本当に美人だったな……。さっきは百合もいいな、なんて思ってたけど、あの大輪の薔薇は、もう人間のレベルじゃなかった……。確かに巨乳ではあったけど、あれを性的な眼で見るなんて、とても……。でもあの彼女が……)
「俺たちは大学非公認のサークルだったから、定期会合っていっても空いてる教室に勝手に潜り込んで……。だから彼女、学校中駆けずり回って、俺たちんとこ来たんだろうけど……。こっちは馬鹿ばっか。あんな奴、止めといたほうがいいよ、なんて……。まあ実際、止めといたほうがよかったんだけど……。そのうち彼女も学校来なくなって……。十月──。奴の死体が、発見されるんだよね。彼女の家の別荘で……。しかも、彼女の部屋のベッドで……。彼女自身は生きてたんだけど、バスローブ状の着衣も──、っていうこの表現、当時の報道に実際あったものなんだけど、そして髪も、全身ドロドロ状態だったらしい。とにかくセンセーショナルな事件だったから、一時随分騒がれたんだけど……。この事件に関するネット上の記事も、すぐ消されちゃうんだよね。別荘の所在地の名を冠した○○死体損壊事件、なんてページは勿論、死体と同棲一ヶ月──、とか、死体と同衾一ヶ月──、とかも……。異臭がするという周辺住民からの通報で事件が発覚することになるわけだけど、第一報では彼女も被害者ってことになってて……。まああとで、彼女のなん組目かの弁護団が、やっぱ堂本は侵入者で、さらに同別荘に居座った末──、なんてやってたようだけど……」
一ヶ月弱に亘る二人の同棲生活に関しては、さらに細かな、そしてグロテスクな噂も囁かれたのだが……。
たとえば、「被害男性の○○○が見つからない!」、とか……。
とはいえ、真也はもう充分だと思った。
「井戸の呪いなんて信じてきたつもりはないし、僕のせいであの二人が……、なんてことを思ってきたつもりもないんだけど、でもやっぱりこの話、大恋愛の話じゃないよね?」
彼はまだ、視線を地上に戻すことができない。
「……そうですね、そんな話にしちゃったんじゃ、そのひとのこと、勝手に代表しちゃうことになりますよ。それはダメですよ」
亜希の声が遠い。
また遠くなった。