凡人メガネと謎の電話
もはや大学内の名物コンビとなった、黒ブチメガネの凡人・高梨と、インテリ眼鏡の秀才・高階は、いつものように高階が押しかける形で、一緒にベンチに収まっていた。
そして、一月前からは、高梨の高校の後輩である、分厚い丸めがねの高橋が加わるようになり、暇な学生達に新たな話題を提供している。
そんな三人は、いつも何かをしているという訳ではない。
始終険しい表情で、本から目を離さない高梨の隣に、それを嬉しそうに見つめる高階がいて、その反対側から無邪気に好きな本の話をする高橋がいる。
それぞれがそれぞれの好きな事をしているのに、誰も気にとめず、ごく自然な雰囲気を保っていた。
座っていても背の高さが窺える二人に挟まれた高梨は、後輩には適度に相槌を打ち、時折不可解な行動をとる男前に怒鳴っている。それでも、膝に置かれた本を閉じるつもりはないようで、確実に先へと読み進められていた。
しかし、ふいに鳴り響いたクラシック音楽の電子音に、高梨はページを捲る手を止め、ジーンズの後ろポケットから、紺色のスリムな携帯電話を取り出した。
「もしもし、何?」
誰からかかってきたのか判っているかのように、相手を確かめることなく電話に出る。
その瞬間、常に刻まれている眉間のシワが、ツルリとキレイになくなった。
「三時過ぎには終わる。
ああ、いいけど。
判った」
簡素な返事はいつもと変わらず、すぐに会話を終わらせた高梨は、再びムスリと眉を寄せ、文庫本へと視線を戻した。
そんな様子を、両側から黙ってじっと見つめていた二人は、同じように目をぱちくりと瞬かせる。
電話の相手への高梨の声音はどことなく優しげで、普段見せる胡乱気な感じは微塵もなかった。
一体誰と話していたのか。
気にはなるが「今の電話誰からですか?」などと詮索するような事を、ただの後輩が聞ける訳もなく、どうしようかと悩んでいると、高梨の向こう側で、男前が小首をかしげるのが見えた。
「高梨、誰と話してたの?」
(グッジョブ! 高階さん!)
いくら学内一の秀才とはいえ、尊敬する先輩に訳のわからない迷惑をかけているこの青年には、あまり良い印象を持っていない後輩だが、この時ばかりは、自分が飲みこんだセリフを、さらりと言ってくれたことに、心の中で親指を立てた。
「誰でもいいだろ」
しかし、すぐに返された冷ややかな言葉に、後輩は浅はかにも期待をしてしまった自分に後悔し、ひそかに肩を落とす。
「高梨、誰と話してたの?」
それでも、そんなことではめげない男前は、同じ口調で同じ台詞を投げかける。対する高梨は、返事をするのが面倒になったのか、無言で手元の文字を追っていた。
「誰と話してたの?」
「うるせぇ。オマエの知らない誰かだよ」
しつこく食い下がる青年にイラついたのか、高梨の語調が強くなる。言い合いが始まりそうな雰囲気に、後輩は少し身を固くした。
自分の納得のいく返事がないと、何度でも訊いてくるインテリ眼鏡の青年は、度々高梨を怒らせる。
不機嫌そうでいながら、その実本当に怒りを露わにすることはほとんどない、仏頂面の高梨が、心底嫌そうに顔を顰めたり、遠慮のない言葉や拳をぶつけたりするのは、この男前が絡む事のみだった。
そして、変人と言わしめる程、意味不明な数々の言動を高階がするのも、高梨に対してだけであり、こうしてありありと、その執着心を見せる時は、決まって喧嘩まがいに発展するのが毎度のことだった。
そんな二人の争いを、どうにかして止めたい後輩なのだが、息の合った漫才のように、飛び交う言葉の応酬に、いつも割り込む隙間を見つけられずにいた。
「たかな「ウゼェ!」
青年の声を、冷たい低音が遮る。パタリと本を閉じ、カバンを掴んで勢い良く立ち上がった高梨は、相手にしてもらえず寂しげに眉を下げている男前をジロリと睨み、何も言わずに足早に立ち去って行った。
見るからにしょんぼりしながらも、男前の青年は高梨の後ろ姿が見えなくなるまで、視線を送っていた。その様が、なんだかいたたまれなくなり、後輩はそっと顔を背けた。
その時、先程聞いたばかりの電子音が鳴り始め、残された二人はキョロキョロと辺りを見渡す。
音源の持ち主である人物は、今確かに遠くの校舎の角を曲がったのを見た。本人が近くにいる筈はない。ならば何処から聞こえてくるのかと、辿るように視線を巡らすと、ベンチの後ろ側にある草の中に、チカチカと光るものを後輩は見つけた。
長い腕を伸ばして拾おうとしたそれは、横から伸びてきた別の手によって、先に拾われてしまう。
「あっ」
マズイ人に拾われたと思い、後輩は小さな声を上げた。
草の中から出てきた、ストラップも何もないシンプルな物は、やはり高梨が持っていた携帯電話であり、未だ着信を知らせるクラシック音楽を、軽やかに響かせていた。
手の中の四角い物体をまじまじと見つめる男前は、徐にパカリと折りたたまれた部分を開け、当たり前のように通話ボタンを押した。
「はい、高階です」
「ああ!」
まるで、自分の携帯電話かのように名乗る男の姿に、後輩はサッと青ざめる。
『あれ? こたちゃん・・・じゃないのかな?』
電話から聞こえてきたのは、のんびりとした口調の男の声だった。
「高階です」
『あらら、ごめんなさい。間違えたみたいです。すみませんでした~』
ほんわかする温かみのある声と、ほんの数秒の会話を終わらせた高階は、さっきの落ち込みようとは打って変わり、にこやかに「うんうん」と頷いた。
話の内容までは聞こえなかった後輩は、ただ名乗っていただけなのに、何故だか機嫌を良くした男前に混乱しつつも、先輩の携帯電話を取り戻さねばと、ぐっと自分を奮い立たせた。
「あの、高階さん! それ先輩のですよね! 勝手に触ったら怒られますよ! おれが返してきます!」
真剣な面持ちで携帯電話へと手を伸ばした後輩を、男前に相応しい仕草でスルリと躱した青年は、女性が見れば一目で惚れてしまいそうなキレイな笑顔を浮かべ、紺色のスリムボディに愛おしげに頬ずりをした。
「あ! ずるい! 独り占めしないで下さい! それより、今の電話誰からだったんですか!?」
男前の手の中に包まれ、スリスリとされる高梨の私物に対して、つい本音がポロリと出た後輩は、携帯電話を返すという主旨をあっという間に忘れ、違う目的で取り戻そうと躍起になり始める。
「電話の人と何話したんですか!? 誰だったんですか!?」
後輩の猛追を、余裕で躱し続ける青年は、その間ケイタイを大事に撫でたり、待ち受け画面を勝手に眺めたりと、幸せそうにしていた。
これがもし、普通の男性ならば、とても気持ちの悪い姿だが、男前は何をやっても男前なのである。
例えそれが、変態に近い行為だったとしても。
「何やってんだ、オマエら」
ボソリと呟かれた声に、瞬時に辺りが暗くなった気がした。
もみ合う寸前の長身の二人は、はたと動きを止めて、声の方へと振り返る。
そこには、黒ブチメガネの奥の瞳を、どんよりと曇らせ、頬を微かに引き攣らせる高梨がいた。
背後にドス黒い気配を漂わせ、物々しく腕を組み、どっしりと仁王立ちするその姿に、後輩は肩を震わせた。ピシリと音がしそうな勢いで、背筋を伸ばして直立不動の体勢をとる。
予想に反さず、空気を読めない問題の青年は、再び現れた高梨を嬉しそうに見つめ、手に握る彼の分身をそっと撫でた。
「オレのケイタイ、落ちてなかったか。落ちてたよな。
っていうか、持ってるよな、今そこに」
感情のない淡々とした言葉を吐き、腕組みをしたまま、暗い瞳を細めて顎で指す高梨。
「す、すみません! おれは何も触ってません!!」
「ああ、判ってる。悪さをするのは、変人しかいねぇからな」
気をつけをしたまま叫ぶ後輩をチラとも見ず、高梨はうっとりと自分を見つめる変人を、ジトリと睨んだ。
「おい。さっさと返せ、変態ボケ頭」
目の前に差し出された高梨の右手に、変態ボケ頭は、今まで大事に撫でていた物を素直に乗せた。
高梨は、意外にもすんなりと返ってきた携帯電話を開き、何かイタズラをされていないか、チェックを始める。
アドレスには、新しい名前が登録された痕跡はなく、メールを送受信した記録もない。高階が自分の携帯電話を触っている様子はなかったので、赤外線で情報を送ったとも思えない。
しかし、着信履歴に違和感を覚え、よくよく見てみると、数分前に話した人物から、もう一度電話があったことを知る。
しかもそれは、不在扱いではなかった。
「オマエ・・・話したのか」
ヒクリと高梨の眉根が動いた。
「僕が『高階です』って言ったら、『間違えました』って、話した」
不穏な空気も何のその、高梨の視線が自分に向いているのが余程嬉しいのか、変人な男前はニコニコと満面の笑顔を浮かべている。
「・・・それだけか?」
「それだけだよ」
高梨はしばらくの間、疑わしげに男前を見ていたが、大きな息を一つ吐き出し、「そうか」と言って、再び背を向けた。
「へ? それだけ??」
てっきり、血の惨劇が起こるのだとビクついていた後輩は、重い怒りを滲ませながらも、それをあっさり引き下げた高梨に拍子抜けして、すっとんきょうな声を上げた。
取り戻したばかりの携帯電話を耳に当て、「宇宙人が邪魔したみたいで」などと話しながら遠ざかる背中には、ついさっきまでの禍々しさなど、欠片も残っていなかった。
「・・・・・先輩、奥が深いです・・・!」
非常識極まりない変人の行動をも、許してしまえる寛大な心に感心し、後輩は改めて尊敬の眼差しを送った。
「で、結局誰からの電話だったんですか?」
いつにも増して機嫌の良さそうな男前を、チラリと後輩は見やった。
「大吉」
「は? なにが?」
期待していなかった答えとも言えない返事に、後輩の頭の上では、疑問符がたくさん飛び交っていた。
◇ ◇ ◇
滅多に鳴らない着信音が響き始め、青年は大股に歩く足を止めた。元々登録の少ないアドレスは、それぞれ個別に音を設定している為、誰からかかってきたのか、聞いただけですぐに判る。
しかし、現在規則的に鳴り続けるそれは、曲でも何でもない、一般的なただのコール音だった。つまり、登録していない、誰だか判らない者からの着信ということになる。
黒ブチメガネの奥にある小さめの瞳が、携帯電話のサブディスプレイに映し出された数字を見たが、やはり知らない番号だった。
昔流行ったワンギリという訳でもないが、見知らぬ相手からの電話など、元から出るつもりのない高梨は、それを無視してジーンズのポケットへと戻した。
しばらく聞こえていた音も、その内鳴り止んだ・・・と思ったら、またすぐに同じ音が鳴り始めた。
高梨はそれも無視して、構内を歩き続ける。
大体、自分の携帯番号を知っている人物は、家族か昔からの知り合いかくらいのもので、極僅かだ。ひょいひょいと誰にでも教える事はないし、もちろん番号を知っている誰かが、別の誰かに勝手に教える筈もないと信じている。なのに、諦めずに何度も鳴らしてくる、これは一体誰なのか。
五度目の着信音が鳴り響く中、高梨はふとイヤな予感に襲われ、眉間に力を込めた。掌に収まる、スリムな紺色の携帯電話を取り出すと、迷わず通話ボタンを押す。
『た』
ブチッ
一秒も経たずに、高梨は電話を切った。
一瞬聞こえた聞き覚えのある声に、予感は当たったかと眉間のシワを深くする。すぐさま着信拒否設定をしていると、今度はメールの受信を知らせる音が鳴った。
見るからに怪しい『件名:高梨。』という気味の悪いメールも、即行で拒否リストに入れ、中身も開かず削除する。
「どこのホラー映画だよ」
やはり先程、落とした携帯電話を拾われた時、番号やメールアドレスを見られていたに違いない。
腐っても鯛。変人だが学内トップを誇る秀才だ。見ただけで覚えたということもありえる。
高梨は軽く舌打ちをすると、今度こそ静かになった携帯電話を、定位置に戻し、何事もなかったかのように、次の授業へと向かった。
その後、時折覚えのない相手からの電話やメールがあったが、高梨はそれをことごとく放置していた。拒否設定をしても、どうせまた、別の番号でかかってくるに違いない。
もちろん、自分のアドレスを変更するなどという、面倒な事はまったくせず、ひたすら無視を決めこんでいた。
◇ ◇ ◇
「また鳴ってるよ。人気者なんだね」
机の上に無造作に投げ出されたまま、一向に止まる気配のない着信音を聞きつけ、のんびりとした穏やかな口調の男性が、ソファでくつろぐ黒ブチメガネに微笑みかけた。
しかし、説明するのも面倒で、高梨は「ああ」とだけ曖昧に返し、分厚いハードカバーの小説から、目を離そうとは思わなかった。
そんな高梨が、いい加減にしろと、変人眼鏡の胸ぐらを掴みに行くのは、まだもう少し、先の話。