表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/17

後輩めがねはユメを見る


 ―――――――ああ、空が近い。



 少年はいつも空を見ていた。

 二本の柱に支えられて、高々と掲げられたバーは、空の神への崇高なる捧げ物のようで。

 スピードに乗った助走から大地を蹴り上げ、自分より遥かに高い位置にあるそれを飛び越える瞬間から、重力に任せてマットの上に着地するまでの間。

 視界いっぱいに広がる、空を見るのが好きだった。

 時間にすれば数秒しかない僅かな逢瀬だったが、手を伸ばしたら、あの風に流される雲を、掴めるんじゃないかと思うほど近くに感じ、そればかりか、自分こそが空と一体になっているのだという、錯覚さえ起こさせてくれる、その瞬間が大好きだった。


 勉強は、あまり得意じゃなかった。

 他に特技もなかった。

 誰かと競うとか、記録を更新するとか、どうでもよかった。


 何よりも、あの青に魅せられていた。




 だけどそれは、唐突に失われる。



 いつものように見つめた空の中から、飛び越えたはずのバーが落ちてくるのを、まるでスローモーションのように眺めていた。

 額に直撃した衝撃で、脳震盪を起こした少年が目を覚ました時、その瞳は霞んだ世界しか映さなくなっていた。


 十センチ先もぼやけるくらいに、落ちてしまった視力では、距離感もうまく掴めず、跳ぶことができなかった。体が感覚を覚えているはずだと何度も試したが、やはり以前ほどの勢いはなく、何より大好きだった空を、はっきり捉えることができないと気づいた。

 楽しさよりも悲しみが勝り、そのうち部活を止めてしまった。


 分厚い丸めがねをかけることにより、普段の生活に支障はなかった。

 親も、先生も、友達も、みんな気づかい励ましてくれた。元より明るい性格の少年は、どうってことないと元気に笑顔を見せていたが、一人になると静かに泣いた。


 気づけばいつの間にか、ぼんやりと空を見上げていた。

 遠い遠い存在になってしまった、あの青を。

 諦めて、でも諦めきれずに、見上げていた。


 あっという間に文化祭も終わり、誰もいなくなるまで、飽きることなく教室の窓から空を眺めていた少年は、一人になると多くなったため息を一つつき、そろそろ帰るかと重い腰を上げた。

 上履きの踵を踏みながら、とぼとぼと廊下を歩く中、ふと視界の隅に奇妙なものを捉え、近くの窓から外を覗く。

 コの字に曲がった校舎の向かい側にある、階上の教室の天井に何かが見える。遠すぎてよく判らないが、少年はそれがひどく気になって、普段は行くことのない、上級生の使う階へと足を踏み入れた。

 階段を上って角を曲がると、背の低い生徒とすれ違った。にょっきりと細長い少年にしてみれば、だれでも背が低く見えるのだが、その生徒は周りの同級生よりも、確かに低い所に頭があった。

 不機嫌そうに寄せられた眉間には深いシワがあり、黒ブチメガネの奥の瞳は、こちらをチラとも見ずに、通り過ぎていく。

 挨拶した方がよかったのかな? と思った少年だったが、知っている先輩でもないので、まあいいかと、気を取り直して、窓から見上げた先へと向かった。

 多分この辺りだろうと予想をつけ、念のため「失礼しまーす」と声をかけてから、カラリと扉を開けた。



 少年は、一瞬呼吸を忘れた。

 大きめの瞳をさらに大きく見開き、何かを呟こうと開いた口は、けれど音を出すことはなく。

 ただただ、天井を埋め尽くさんばかりに貼りつけられた、文字に釘づけになった。






『 空 ヲ 見 タ 』






 それは、『空』でできた文字だった。

 『空』と名のつく本の表紙で作られた、文字だった。

 一つ一つが、すべて違う本の表紙でできた文字。写真であったり、小説であったり、はたまた絵本やマンガも混在しているにも関わらず、少しも雑然とした様子はなく、ピースをはめ込まれ完成したパズルのように、何の違和感もなく形作られている。

 窓から差し込む夕日に照らされ、赤や紫に染まる無数の『空』が、天井いっぱいに広がっていた。


 これは、なんだろう。

 少年には判らなかった。

 単純に、きれいだと思った。

 こんなにきれいな空は、見たことがない。

 一体自分は今まで、何に憧れ、何を追い求め、何に縋っていたのだろう。

 霞んでしまった世界にも、こんなにも、こんなにも、はっきりと見えるものが、まだあった。

 きれいだと思う心が、まだあったのだ。


 知らずに、熱いものが頬を流れていた。

 それを拭うこともせず、少年はしばらくその場に佇んでいた。




「不機嫌そうな黒ブチメガネ? ああ、そりゃ高梨だろ」

 後日少年は、その空を作ったのが、あの日すれ違った生徒だと知る。部活の先輩に尋ねてみると、多数の口から共通の名前が出た。どうやら気難しくて有名な先輩のようで、大抵の人があまりよくない顔をした。

 それでも、会って話がしたくて、目撃情報の多い、少年には縁遠かった図書室へ通った。

 すぐに見つけた件の先輩は、あの日と変わらず眉間にシワを寄せ、険しい顔つきで本を読んでいた。

 臆することなく、少年は向かいの席に座り、ずいと机に乗り出した。

「高梨先輩っ それ、面白いですか?」

 やや興奮気味の声音に、顔を上げた黒ブチメガネは、ジトリと少年を見つめ、「フツウ」と短く返事をした。面倒くさそうな低音だったが、嫌な気はしなかった。

「おれ、なんか本読もうと思うんですけど、おすすめ教えて下さいっ」

 キラキラと期待に満ちた目を向ける少年に、無愛想な先輩は少し間を置いて、鞄から一冊の本を差し出した。

「返さなくていいから」

「え?」

 思わず聞き返すと、先輩はすでに手元へと視線を戻しており、それ以上何も言う気配はなかった。


「これ・・・ どんな本、ですか?」

 少年は、机に置かれた本に目をやり、そっと表紙を撫でてみた。心なしか指が震える。サラリとした手触りの紙質が気持ちいい。

「読めば判る」

 文庫本から目を離さず、ぶっきらぼうに低い音が言い放つ。

「つまらなかったら、誰かにやればいい」

「えぇ!? これいらないから、くれるんですかぁ~?」

 情けない声で机に突っ伏した少年は、上目遣いで先輩を見やる。

「オレは好きだけど。オマエが好きになるとは限らないだろ」

 その言葉に、弾かれるように起き上がった少年は、本を両手でしっかりと握り締めた。

「好きに決まってます! だってこれ、きれいだったから!」

 思わず出した大声に、さすがの仏頂面も驚いたのか、目を丸くして少年を見た。遠くに座っていたまじめそうな生徒が、ジロリと睨んだのを感じる。

 慌てて声をひそめた少年は、それでも唇を尖らせて言い募った。

「おれ、こないだ見ました。天井にぶわーっ!て貼ってあるの。あれって、これのことだったんですね」

 あの時の感動を思い出したのか、大振りに両手を広げる少年の言葉に、先輩は寸の間考えた末、「ああ、あれか」と眉根を寄せた。

「あれ、おれ好きです! なんていうか、すごく感動しました!

 よく判らないけど、でもおれ、すごくきれいだって思ったんです!」

 頬を高潮させて熱弁を振るう少年に、先輩はほんの少し口角を上げ、「そうか」と一言呟いた。

 黒ブチメガネに映りこむ、青い空が眩しかった。



 少年は今まで、マンガ以外の本など興味がなかったが、先輩のくれたそれは夢中になって読んだ。最初は何度か借りていた本も、その内好みの作家ができると、自分でも買ってしまうほどハマっていった。

 大抵は図書室にいる先輩の、向かいに陣取り、あれが良かった、これはイマイチだったと、一方的に感想を述べる。仏頂面ながらも返事をしてくれる彼と過ごす時間は、噂に違わぬ愛想のなさも気にならないほど、楽しく思えた。


 気がつけば、空を渇望することも、なくなっていた。

 一人ため息をつくことも、なくなっていた。

 先輩が卒業して、いつもいた姿がないことに寂しくはなったけど。

 大好きな青を見上げても、悲しいだなんて思わなくなっていた。




 いつだって、あの日の『空』を思い出す。

 あの日出会ったすべてを、忘れない。




+    +    +     +


「空、見たことあるかい?」

 肩まであるミルク色の髪を、さらさらと風になびかせ、柳のように細い腕を僕の方へと伸ばしたニキが、優しく微笑んだ。

「当たり前だよ。空は、いつも僕たちの上にあるじゃないか」

 一体ニキは、なにを言っているのだろうかと、僕は小首をかしげて彼の手をとる。するとニキは、くすりと笑い天を仰いだ。

「そうだね。空は、いつもボクたちの上にあるものだね」

「そうだよ。空は、いつも僕たちの上にあるものだよ」

 僕もつられて空を見る。

 どこまでも果ての判らない青い蒼い空の中を、風にまかせて雲が泳いでいく。ひざまで伸びた足元の草も、僕の短い髪も、ニキの空色の長いマントも。風にまかせて、はたはたと揺れる。

「あのね、ハスヤ」とニキが言う。

「ハスヤ、ボクはもう行こうと思う」

 どこへ?と尋ねた僕の声に、ニキはふわりと微笑んで、

「世界の果ての、そのまた先へ」と、きれいな指先を遠くへ指した。

 どうして?と尋ねた僕に、ニキはまたふわりと微笑んで、

「どうしても」と、遠くを見つめた。

 世界の果ての、そのまた先には、一体何があるのだろうか。

 世界の果ての、そのまた先は、一体どれほど遠くにあるのだろうか。

 島から出たことのない僕には、ちっとも想像できなくて。なんだか悲しくなって、僕は繋いだ手にぎゅっと力をこめた。

「泣かないで、ハスヤ」

 ニキの優しい声がする。

「遠くにいても、ボクはこの空の下にいる。君もこの空の下にいる。

 だから何も悲しいことなんて、ないんだよ」

「いやだよ、ニキっ」

「大丈夫」

 ニキが優しく僕の肩に触れた。僕の瞳からは泪が止まらない。

「また次の年に会いにくるから」

 そう言って、少し寂しげに微笑んだニキは、音もなくマントを膨らませた。僕の手から、するりとニキの温もりが離れていく。

「ニキ!」

「空を見て、ハスヤ。

 ボクはいつもいるよ。いつも君とつながっているよ」

 ニキの体が静かに浮いて、空へと透けて消えていった。

 青い蒼い空の中を、風にまかせて雲が泳いでいく。

 ひざまで伸びた足元の草も、僕の短い髪も、さわさわと揺れる。


 空は、いつも僕たちの上にある。

 僕は、空を見た。

 ニキを想って、空を見た。


+    +    +     +



 荻窪(おぎくぼ)なぎら著『空を見た』。

 先輩から貰った本を、少年は何度も繰り返し読んだ。

 青と白のコントラストが美しい表紙を、何度も撫でる。

 そして必ず、先輩と同じ大学へ行くのだという決意を胸に、少年が見上げた先には、今日も晴れやかな青が広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ