後輩めがねはユメを見る
―――――――ああ、空が近い。
少年はいつも空を見ていた。
二本の柱に支えられて、高々と掲げられたバーは、空の神への崇高なる捧げ物のようで。
スピードに乗った助走から大地を蹴り上げ、自分より遥かに高い位置にあるそれを飛び越える瞬間から、重力に任せてマットの上に着地するまでの間。
視界いっぱいに広がる、空を見るのが好きだった。
時間にすれば数秒しかない僅かな逢瀬だったが、手を伸ばしたら、あの風に流される雲を、掴めるんじゃないかと思うほど近くに感じ、そればかりか、自分こそが空と一体になっているのだという、錯覚さえ起こさせてくれる、その瞬間が大好きだった。
勉強は、あまり得意じゃなかった。
他に特技もなかった。
誰かと競うとか、記録を更新するとか、どうでもよかった。
何よりも、あの青に魅せられていた。
だけどそれは、唐突に失われる。
いつものように見つめた空の中から、飛び越えたはずのバーが落ちてくるのを、まるでスローモーションのように眺めていた。
額に直撃した衝撃で、脳震盪を起こした少年が目を覚ました時、その瞳は霞んだ世界しか映さなくなっていた。
十センチ先もぼやけるくらいに、落ちてしまった視力では、距離感もうまく掴めず、跳ぶことができなかった。体が感覚を覚えているはずだと何度も試したが、やはり以前ほどの勢いはなく、何より大好きだった空を、はっきり捉えることができないと気づいた。
楽しさよりも悲しみが勝り、そのうち部活を止めてしまった。
分厚い丸めがねをかけることにより、普段の生活に支障はなかった。
親も、先生も、友達も、みんな気づかい励ましてくれた。元より明るい性格の少年は、どうってことないと元気に笑顔を見せていたが、一人になると静かに泣いた。
気づけばいつの間にか、ぼんやりと空を見上げていた。
遠い遠い存在になってしまった、あの青を。
諦めて、でも諦めきれずに、見上げていた。
あっという間に文化祭も終わり、誰もいなくなるまで、飽きることなく教室の窓から空を眺めていた少年は、一人になると多くなったため息を一つつき、そろそろ帰るかと重い腰を上げた。
上履きの踵を踏みながら、とぼとぼと廊下を歩く中、ふと視界の隅に奇妙なものを捉え、近くの窓から外を覗く。
コの字に曲がった校舎の向かい側にある、階上の教室の天井に何かが見える。遠すぎてよく判らないが、少年はそれがひどく気になって、普段は行くことのない、上級生の使う階へと足を踏み入れた。
階段を上って角を曲がると、背の低い生徒とすれ違った。にょっきりと細長い少年にしてみれば、だれでも背が低く見えるのだが、その生徒は周りの同級生よりも、確かに低い所に頭があった。
不機嫌そうに寄せられた眉間には深いシワがあり、黒ブチメガネの奥の瞳は、こちらをチラとも見ずに、通り過ぎていく。
挨拶した方がよかったのかな? と思った少年だったが、知っている先輩でもないので、まあいいかと、気を取り直して、窓から見上げた先へと向かった。
多分この辺りだろうと予想をつけ、念のため「失礼しまーす」と声をかけてから、カラリと扉を開けた。
少年は、一瞬呼吸を忘れた。
大きめの瞳をさらに大きく見開き、何かを呟こうと開いた口は、けれど音を出すことはなく。
ただただ、天井を埋め尽くさんばかりに貼りつけられた、文字に釘づけになった。
『 空 ヲ 見 タ 』
それは、『空』でできた文字だった。
『空』と名のつく本の表紙で作られた、文字だった。
一つ一つが、すべて違う本の表紙でできた文字。写真であったり、小説であったり、はたまた絵本やマンガも混在しているにも関わらず、少しも雑然とした様子はなく、ピースをはめ込まれ完成したパズルのように、何の違和感もなく形作られている。
窓から差し込む夕日に照らされ、赤や紫に染まる無数の『空』が、天井いっぱいに広がっていた。
これは、なんだろう。
少年には判らなかった。
単純に、きれいだと思った。
こんなにきれいな空は、見たことがない。
一体自分は今まで、何に憧れ、何を追い求め、何に縋っていたのだろう。
霞んでしまった世界にも、こんなにも、こんなにも、はっきりと見えるものが、まだあった。
きれいだと思う心が、まだあったのだ。
知らずに、熱いものが頬を流れていた。
それを拭うこともせず、少年はしばらくその場に佇んでいた。
「不機嫌そうな黒ブチメガネ? ああ、そりゃ高梨だろ」
後日少年は、その空を作ったのが、あの日すれ違った生徒だと知る。部活の先輩に尋ねてみると、多数の口から共通の名前が出た。どうやら気難しくて有名な先輩のようで、大抵の人があまりよくない顔をした。
それでも、会って話がしたくて、目撃情報の多い、少年には縁遠かった図書室へ通った。
すぐに見つけた件の先輩は、あの日と変わらず眉間にシワを寄せ、険しい顔つきで本を読んでいた。
臆することなく、少年は向かいの席に座り、ずいと机に乗り出した。
「高梨先輩っ それ、面白いですか?」
やや興奮気味の声音に、顔を上げた黒ブチメガネは、ジトリと少年を見つめ、「フツウ」と短く返事をした。面倒くさそうな低音だったが、嫌な気はしなかった。
「おれ、なんか本読もうと思うんですけど、おすすめ教えて下さいっ」
キラキラと期待に満ちた目を向ける少年に、無愛想な先輩は少し間を置いて、鞄から一冊の本を差し出した。
「返さなくていいから」
「え?」
思わず聞き返すと、先輩はすでに手元へと視線を戻しており、それ以上何も言う気配はなかった。
「これ・・・ どんな本、ですか?」
少年は、机に置かれた本に目をやり、そっと表紙を撫でてみた。心なしか指が震える。サラリとした手触りの紙質が気持ちいい。
「読めば判る」
文庫本から目を離さず、ぶっきらぼうに低い音が言い放つ。
「つまらなかったら、誰かにやればいい」
「えぇ!? これいらないから、くれるんですかぁ~?」
情けない声で机に突っ伏した少年は、上目遣いで先輩を見やる。
「オレは好きだけど。オマエが好きになるとは限らないだろ」
その言葉に、弾かれるように起き上がった少年は、本を両手でしっかりと握り締めた。
「好きに決まってます! だってこれ、きれいだったから!」
思わず出した大声に、さすがの仏頂面も驚いたのか、目を丸くして少年を見た。遠くに座っていたまじめそうな生徒が、ジロリと睨んだのを感じる。
慌てて声をひそめた少年は、それでも唇を尖らせて言い募った。
「おれ、こないだ見ました。天井にぶわーっ!て貼ってあるの。あれって、これのことだったんですね」
あの時の感動を思い出したのか、大振りに両手を広げる少年の言葉に、先輩は寸の間考えた末、「ああ、あれか」と眉根を寄せた。
「あれ、おれ好きです! なんていうか、すごく感動しました!
よく判らないけど、でもおれ、すごくきれいだって思ったんです!」
頬を高潮させて熱弁を振るう少年に、先輩はほんの少し口角を上げ、「そうか」と一言呟いた。
黒ブチメガネに映りこむ、青い空が眩しかった。
少年は今まで、マンガ以外の本など興味がなかったが、先輩のくれたそれは夢中になって読んだ。最初は何度か借りていた本も、その内好みの作家ができると、自分でも買ってしまうほどハマっていった。
大抵は図書室にいる先輩の、向かいに陣取り、あれが良かった、これはイマイチだったと、一方的に感想を述べる。仏頂面ながらも返事をしてくれる彼と過ごす時間は、噂に違わぬ愛想のなさも気にならないほど、楽しく思えた。
気がつけば、空を渇望することも、なくなっていた。
一人ため息をつくことも、なくなっていた。
先輩が卒業して、いつもいた姿がないことに寂しくはなったけど。
大好きな青を見上げても、悲しいだなんて思わなくなっていた。
いつだって、あの日の『空』を思い出す。
あの日出会ったすべてを、忘れない。
+ + + +
「空、見たことあるかい?」
肩まであるミルク色の髪を、さらさらと風になびかせ、柳のように細い腕を僕の方へと伸ばしたニキが、優しく微笑んだ。
「当たり前だよ。空は、いつも僕たちの上にあるじゃないか」
一体ニキは、なにを言っているのだろうかと、僕は小首をかしげて彼の手をとる。するとニキは、くすりと笑い天を仰いだ。
「そうだね。空は、いつもボクたちの上にあるものだね」
「そうだよ。空は、いつも僕たちの上にあるものだよ」
僕もつられて空を見る。
どこまでも果ての判らない青い蒼い空の中を、風にまかせて雲が泳いでいく。ひざまで伸びた足元の草も、僕の短い髪も、ニキの空色の長いマントも。風にまかせて、はたはたと揺れる。
「あのね、ハスヤ」とニキが言う。
「ハスヤ、ボクはもう行こうと思う」
どこへ?と尋ねた僕の声に、ニキはふわりと微笑んで、
「世界の果ての、そのまた先へ」と、きれいな指先を遠くへ指した。
どうして?と尋ねた僕に、ニキはまたふわりと微笑んで、
「どうしても」と、遠くを見つめた。
世界の果ての、そのまた先には、一体何があるのだろうか。
世界の果ての、そのまた先は、一体どれほど遠くにあるのだろうか。
島から出たことのない僕には、ちっとも想像できなくて。なんだか悲しくなって、僕は繋いだ手にぎゅっと力をこめた。
「泣かないで、ハスヤ」
ニキの優しい声がする。
「遠くにいても、ボクはこの空の下にいる。君もこの空の下にいる。
だから何も悲しいことなんて、ないんだよ」
「いやだよ、ニキっ」
「大丈夫」
ニキが優しく僕の肩に触れた。僕の瞳からは泪が止まらない。
「また次の年に会いにくるから」
そう言って、少し寂しげに微笑んだニキは、音もなくマントを膨らませた。僕の手から、するりとニキの温もりが離れていく。
「ニキ!」
「空を見て、ハスヤ。
ボクはいつもいるよ。いつも君とつながっているよ」
ニキの体が静かに浮いて、空へと透けて消えていった。
青い蒼い空の中を、風にまかせて雲が泳いでいく。
ひざまで伸びた足元の草も、僕の短い髪も、さわさわと揺れる。
空は、いつも僕たちの上にある。
僕は、空を見た。
ニキを想って、空を見た。
+ + + +
荻窪なぎら著『空を見た』。
先輩から貰った本を、少年は何度も繰り返し読んだ。
青と白のコントラストが美しい表紙を、何度も撫でる。
そして必ず、先輩と同じ大学へ行くのだという決意を胸に、少年が見上げた先には、今日も晴れやかな青が広がっていた。