凡人メガネの甘い秘密
まだ寒さの残る二月の中頃。
真一文字に結ばれた口の隙間から、白い息を器用に吐き出しながら、黒いダッフルコートに身を包んだ青年が、足早に大学内を進んでいた。
寒さからか、眉間には普段よりも深いシワが刻まれ、猫背気味に丸めた体から伸びた両腕は、コートのポケットへと続いている。その中で、手の平が固く握り締められていることは、本人しか知らない。
黒ブチメガネの奥にある小さめの瞳は、まだ見えない目標以外は映さないかのように、ただひたすら、まっすぐ先を見つめていた。
「高梨」
ようやく暖房の効いた暖かい建物に近づいた時、後ろから名を呼ばれた。
が、立ち止まるのが面倒だったので、聞こえないフリをする。
「高梨」
もう一度呼ばれるが、やはり無視して、モダンな外装の入口をくぐった。
「高梨」
それでもしつこく呼ぶ、聞き覚えのあるキレイな声に、こちらも負けじと無視を通し、歩調を速める。
相手もそれに合わせてついて来る気配を感じたが、青年・高梨は、足を緩める気はまったくなく、もはや競歩に近いスピードで、廊下をズンズンと進んで行った。
高梨の行く先が、まるでモーゼの如く、さっと両側に開かれていく。
すれ違う学生たちは、いつもなら、頬を染めつつヒソヒソ話をしたり、『ああ、またか』と無関心だったり、野次馬気分で面白がっていたりと、様々な反応を見せているのだが、今日は皆一様に驚いた表情で、彼と彼を追う声の主を凝視していた。
「高梨」
そんな周りの空気も読めず呼び続けられる名に、ウンザリしながらも、高梨はけして振り返ることなく、目的の場所へと辿り着いた。
できれば振り切ってしまいたかったが、そう遠くもない距離である。おまけにリーチの長さが圧倒的に違うのだから、空でも飛ばない限りは、彼から逃げ切ることは難しい。
いや、そもそも逃げる必要はなく、いつものようにテキトーに返事をして、テキトーに別れを告げれば、彼はもう追いかけては来ない。
――――――君の邪魔はしないから。
数ヶ月前偶然出会った彼に、何故だか付きまとわれ始めた高梨は、すったもんだの末、彼にとって自分がいかに大切な存在であるかを切々と語られ、結局訳の判らぬまま、根負けした形で今に至っている。
その後、確かに彼は約束(?)を守り、高梨が一人で読書をしている隣で、何もせずただ座っているばかりだった。時折話しかけてくることや、意味の判らない行動で、イラつくこともあったが、高梨が立ち去ればそれを追うことはなかった。
だからきっと、『ついて来るな』と一言言えば、捨てられた子犬のように寂しげに微笑みながら、その言葉に従うのだろう。
だが、今の高梨には、その時間すらも惜しかった。
壁に添えられた、誰より高い四角い機械の前に立ち、目的の物があることを目だけで確認し、高梨は握り締めていた右手をポケットから素早く引き抜いて、手の平で温められたコインを一枚、投入口に落とし込んだ。何の迷いもなく『ホットなチョコクリ~ミ~』と、丸いファンシーな字体で書かれた商品見本のボタンを押す。
それは、その名の通り、トロトロに溶かされた温かいチョコに、ミルクが加わっているただ激甘なだけの、けして一般向けとは言い難い代物だった。
しかし、面倒なことが嫌いで、物事にあまり執着や関心を持たない高梨が、この得体の知れない飲み物だけは、寒い時期には一日一本飲まないと気がすまないほど気に入っていた。
不人気どころか、恐らく買うのは高梨くらいしかいないと思われるそれは、最奥にある校舎の、階段下に置かれた自動販売機に、ひっそりと売られている。高梨の通う学部は、正門から近い場所にある為、片道で十分もかかってしまうので、なるべく早く買って戻りたい。だから、面倒な相手にかまっているヒマはないのだ。
「高梨」
取り出し口から温かな缶を手に入れ、ふと顔を上げた高梨は、販売機に反射して映る背後を見て、ギョっとした。
思わず振り向いた先には、両手いっぱい溢れんばかりの花束を抱えた、長身の男の姿があった。
高梨の手から、スルリと『ホットなチョコクリ~ミ~』が落ち、コロコロと足元を転がっていく。
学内一の秀才で男前と言われるほど有名な彼は、女性ならば気絶してしまいそうな満面の笑みを浮かべており、更に、細いフレーム眼鏡の奥では、蕩けるような甘い眼差しが、高梨をじっと見つめていた。
「なんだそりゃ・・・」
寒さも一瞬忘れるほど呆然として、高梨はさっきすれ違った学生たちと同じように、そのドラマから飛び出てきたような光景を、マジマジと見た。
花に興味などないから、それがなんという名かは知らない。小さいながらも、幾重にも重なった花びらが華やかではあったが、控えめな淡いピンク色が可愛らしさを出していた。
「あげる」
「は?」
言うが早いか、バサリと押しつけられた大きな花束に、高梨は完全に視界をふさがれた。
「オイっ なんだよこれ!」
「お返しはいらないから」
「はぁ!?」
手に余るほどの花束に身動きがとれず、高梨はイラ立ちを露わにするが、その原因である青年は、満足したのか更に笑みを深くし、足元に転がっていたマニアックな飲み物を拾い上げた。
「交換」
嬉しそうに缶に頬擦りした青年は、スキップでもしそうな軽い足取りで、花に埋もれた高梨を置いて立ち去る。
「・・・オイ待て! コラ!」
見えないながらも、一日の楽しみが奪われたことに気づいた高梨は、追いかけようとするが、目の前はおろか足元も覚束ない為、動くに動けず、叫ぶことしかできなかった。
「オレのチョコクリ返せ! ってか、これどうすんだよ!!」
突然押しつけられた、邪魔でいらない花束なら捨てればいいのだが、そんな大きなゴミ箱は近くになく、かといってその辺に散らかすほど、非常識人でない。
高梨は一人残され、どうすることもできずに、青年への恨み言をしばらくの間呟いていた。
バレンタインの時期に書いたネタなのです