変人眼鏡のストーカー的心情 (高階視点)
「ねぇ 高階くん~ 一緒にランチしましょ~」
「今日の服ステキね! どこで買ったの? お店教えて!」
「さっきの講義、わからない所があるんだけど、教えてくれない?」
「高階くん」「高階くん」「高階くん」「高階くん」「高階くん」
今日も鳥が騒がしい。
纏わりつくように群がる鳥は、何処へ行っても騒がしい。
群がることもできずに、遠くから様子を窺う、鼠の視線が離れない。
陰口を紡ぐ時だけ群れる、犬たちの鳴き声にも、もう厭きた。
僕の世界には、随分前から人が消えた。どれもすべてが動物に見える。
動物達は、僕に何かを語りかけるけれど、僕がそれに答えても、意味も判らず、ひたすら騒いでいる。きっと動物だから、僕の言葉が理解できないのだと思う。
だから僕は、それらにまともに返事をすることを止めた。例えしたとしても通じないのだから意味がない。そんな無駄なことは疲れるだけだ。
現に、そうしてからも、動物達の反応は何も変わらなかった。
僕の言葉は、あちらに伝わることはなく、あちらの言葉も、僕には不要のもの。
僕の世界は、ひどく詰まらないものだった。
だけどそれは、ある時変わる。
その日僕は、煩わしい鳥達を振りきり、誰も来ないような校舎裏の隅へと入った。永い間忘れられて古びたベンチに、先客が一人いる。
しかし、目が一瞬合うだけで、それはまた手元の本へと戻された。
僕が隣に腰を落ちつかせても、何も言わずにただ、本を読んでいた。
初めて見る反応に、少し興味を覚える。
風が静かに吹き抜けていた。
時折聞こえる、ページを捲る音が心地良い。
隣を伺い見れば、黒ブチ眼鏡の奥にある小さな瞳が、緩やかに文字を追っていた。風に揺れる短い前髪の隙間から、険しく寄せられた眉間の皺が、チラチラと覗く。
僕はそれを、暫くの間眺めていた。
小一時間ほど経っただろうか。彼がふいに腕時計を見やり、本とリュックを掴んで立ち上がった。
そして、今まで僕の存在など、忘れていたかのように目を丸くして、だけどすぐにまた、眉間に力を込め、どうでもよさそうに呟いた。
「まだいたのかよ」
独り言にも似た低音のそれは、はっきりとした声として、耳に届いた。
媚びも、妬みも、恐れもない。
それは『声』だった。
何の感情もない、ただの人の声だった。
それから僕は、彼を探すようになった。
彼の名前は『高梨』というらしい。自分の名前と似ている響きに、少し嬉しくなる。
高梨は、いつも一人でいた。誰も近寄らないような場所で、眉間に皺を刻みながら、熱心に本を読んでいる。
見る度に違う本を読んでいる時もあれば、同じ物を何度も読んでいる時もあった。
それは何か、神聖な儀式をしているように思え、姿を見るだけで幸せな気持ちになれた。
その内僕は、眺めるだけでは物足りなさを感じるようになる。
高梨の見ている世界が知りたくて、彼の読んだ物と同じ本を、買い集めた。
高梨の感じている世界が知りたくて、彼がよく通うコンビニの、サンドウィッチを毎日食べた。
だけど、それでも。やはり、物足りなさは拭えなかった。
僕がいくら高梨の真似をしてみても、そこに彼はいないのだから。
もう一度あの声を聴きたい。
物憂げな瞳に見つめられたい。
猫背気味の背中に触れてみたい。
初めは、さりげなく教室で隣に座ってみた。
僕に群がる鳥達に、押しのけられるより先に、彼が席を離れてしまう。
次に、図書室で向かいの席に座ってみる。
やはり、彼は何も言わず席を離れた。
これでは駄目だと、意を決して食事に誘う。
「はぁ? なんでオレが、アンタとメシ食わなきゃならないんだよ」
不機嫌に顰められた顔が、僕を見る。
あの日と変わらぬ低音に、心がざわめいた。
「ちょっとアンタ! 何様のつもり!?」
「調子に乗ってんじゃないわよ!!」
「高階くん! こんなダサイ奴、ほっときましょうよ!」
目の前に高梨がいて、彼の瞳に僕が映っていることが嬉しくて。周りの騒がしさなんて、気にならなかった。
僕の世界には、高梨しか存在しない。
高梨の世界にも、今この時だけは、きっと僕しか存在しないのだ。
残念なことに、食事の誘いは断られてしまったけれど、力強く去っていく後姿が名残惜しくて、僕はずっと眺めていた。
それから何度も、高梨に声をかけた。答えはいつも『NO』だった。
だけど、彼は必ず返事をしてくれた。僕の判る言葉で、はっきりとした人の声で。
話す時、じっと見つめる刺すような眼差しや、少し乱暴で、率直な物言いに、血が熱くなるのを感じた。
もう、彼の一部と化している眉間の皺も、段々深みを増していき、僕はまるで、子供の成長を見守る母の様な気持ちで、それを眺めていた。
高梨がいるだけで、僕の世界は毎日、幸福に彩られていく。
ある日、ふと気づけば、常に僕に付き纏う鳥達の姿が見当たらない。調度良いので、高梨に会おうと思い、僕は構内を探し始めた。
何となく彼がいるような気がして、人気のない所へ向かうと、話し声の中に、聞き慣れた低音を見つけた。たくさんの鳥に囲まれている、あの小さな背中は、間違いなく高梨だ。
何を話しているのか、よく聞こえないので、近くへ寄ると。
「オレに構うのはヤメロって、アンタらの王子様に言えよ。
っつーか、アンタこそ何様だよ。ただの取り巻き様だろ。
ダサイことしてんじゃねぇよ。面倒くせぇ」
「なんですって!」
甲高い鳥の声と共に、何かが弾ける音を聞いた。
彼の名を呼ぶと、左頬を押さえたまま、振り向いたその顔には、よく似合う黒ブチ眼鏡はなく、いつにも増して歪められた瞳が、僕を曖昧に見つめた。
心なしか、頬を押さえる手が震えているようで、僕は慌てて彼に駆け寄り、肩を掴んだ。勢い余って、露わになった彼の左頬には、赤い筋が数本あり、血がじわりと滲んでいる。
猫の髭みたいで、可愛い。
と、思った瞬間。
「なんでオレが殴られなきゃならねぇんだよッッ!!!!!」
高梨の怒声と共に、左肩に激しい痛みが走った。思わずよろめくと、今度は腹に痛みが生まれる。
「テメェは! 一体! なんなんだよ! ふざけんな!」
一言毎に、全身に響く痛みに翻弄され、地面に尻餅を着いて漸く、僕は高梨に蹴られていたのだと、気づいた。
「もう二度と! オレに構うな! 話しかけるな! 視界に入るな!」
呆然と見上げた先には、燃え滾るような熱さと、突き刺さるような冷たい瞳があった。
何が起こったのか、判らなかった。
ただ。僕の視界から、じわじわと色が失われていく。
去って行く高梨の姿が歪み始める。呼び止めても振り返りもせず、冷たく突き放さす声さえも、もうよく聞こえない。
彼が踏みしめる後から地面が崩れ、僕の世界は壊れていくのだと悟った。何もない世界に、僕だけが取り残される。
その時僕は、初めて『怖い』という感情を知った。
高梨に消えてほしくなかった。高梨のいない日々など、意味がない。
高梨のいない世界なら、他の物になど、意味がない。
だから僕は、必死に彼に呼びかけた。
「だったらもう、僕は誰とも話さない!」
話しかけるなと言われたけれど、そんなのは嫌だった。
そんなのは、嫌だったんだ。
「高梨が話してくれないのなら、僕はもう、誰とも話さない」
「・・・なんだよそれ」
高梨は優しい。視界に入るなと言ったのに、足を止め、困ったように顰めた顔を、こちらに向けてくれた。
それだけで、僕の魂は歓喜に打ち震える。
「高梨が僕を見てくれないのなら、僕はもう、誰も見ない。
高梨の声が聞けないのなら、僕はもう、何も聞かない。
高梨のいない世界なら、僕はいらない。
高梨、僕は。
僕は、君を見ていたい。
君の声を聞いていたい。君のそばにいたい。
君と同じ世界で生きたい。
君の邪魔はしないから。高梨、僕は。
僕は、君が」
「もういい!
・・・オマエ・・・結局何がしたいんだよ」
遮られた言葉の先に、何があったのか、僕自身でも判らない。
ただ僕は。
高梨と過ごせたら、きっと楽しいに違いないと思って。
「一緒にランチを食べよう」
「―――――― 意味わかんねぇ・・・」
これからも僕は、ずっと彼を探す。縋りついてでも、離したくない。
僕の世界で唯一の人を。
これは一体、どういう感情なのか。
それはきっと、幸せなものに違いないと、確信しているから。
これからも僕は、ずっと彼を。
ずっと、彼と。