凡人メガネと変人眼鏡
青年はいつも、一人だった。
何が気に入らないのか、その眉間は常に寄せられ、大きな黒ブチメガネに隠された瞳は、人より一歩下がった目線で世界を見ていた。
周りから『暗いヤツ』『愛想がない』『つまらない』などと言われても、動じることなくマイペースを貫いた結果、他人に話しかけられることが少なくなる。
そもそも、青年自身が他人と話すことが嫌いで、むしろ、趣味である読書を誰にも邪魔されないことに、とても満足していた。
青年はいつも、人に囲まれていた。
生まれた時から器量が良く、得た知識を遺憾なく発揮することにも長けており、周りから褒められることに、喜びを感じていた。
しかしいつしか、それが偽りであることに気づく。
人は青年に、何を求めて集まるのか。人は青年へ、何を与えたいのか。
愛想良くすることを止め、必要なこと以外は話さなくなってからも、それらが変わることはなく、人というものが益々判らなくなった。
細いフレームの眼鏡の奥にある涼しげな瞳には、色褪せたつまらない世界しか映らなくなった。
黒ブチメガネの青年は、高梨。
細いフレーム眼鏡の青年は、高階。
まったく違う人生を歩んできた、名前の似た二人の青年は、時が経ち出会うことで、その世界を変えることになる。
黒ブチメガネの青年は、まだ変わらずいつも一人だった。
細いフレーム眼鏡の青年も、まだ変わらず人に囲まれていた。
大学内最奥の古い校舎裏に、大きな楠が隆々と枝を巡らせている。その根元には、誰が置いたのかいつからあるのか判らないような、古びたベンチが一脚あり、黒ブチ眼鏡をかけた青年が一人、いつもしかめ面で本を読んでいた。
眉間にシワを寄せるのは、その青年、高梨のクセで、機嫌が悪いわけでも本がつまらないわけでもない。
誰も近寄ることのないそこは、高梨のお気に入りの場所であり、ヒマな時は何時間でも、飽きることなく過ごすことができた。
暑かった夏も終わり、空気に冷たさを感じるようになる頃。
いつものように楠の下で読書をしていた、しかめ面の青年は、人の気配にふと顔を上げた。
日の光が当たる校舎の角に立つ、背の高い青年と目が合う。
その青年は、いつも女性に囲まれている、秀才で男前な大学の有名人だった。名前は確か高階といった筈だ。高梨は、自分と似た名で紛らわしいなと、何となく覚えていた。真っ黒な短髪の自分とは違う、軽やかな茶色に染められた髪が、柔らかそうに風に揺れている。
しかし、別段興味もないので、すぐにまた手元の本へと視線を戻した。
足音が近づき、隣に座る。取り巻きの女性たちが来るようであれば、場所を移ろうかと思っていたが、少し待っても現れることはなく、高梨の意識は、その内本から離れなくなった。
小一時間程経ち、読書に没頭していた高梨は、思い出したかのように腕時計を確認した。そろそろ帰らねば、電車の帰宅ラッシュに巻き込まれてしまう。眉間のシワを更に深くし、リュックを掴んで勢いよく立ち上がる。
一歩を踏み出そうとした時、視界の隅に人影が映った。誰かいたのかと驚いて、そちらを見やると、顔立ちの整った青年が、長い足を組みながら座り、静かにこちらを見ていた。
ああ、そういえばウワサのイケメンがいたな。と思い出すが、一体ここで何をしていたのか、変わらずいるその姿に、再び眉間に力を込め、呆れた声で呟いた。
「まだいたのかよ」
一瞬目を丸くした、細いフレーム眼鏡の男前には構わず、リュックを肩にかけた青年は、さっさとその場から去って行った。
読書好きの青年にとっては、誰が隣で何をしてようと、自分に害が及ばない限り、本当にどうでもいいことで、それが大学の有名人であっても、なんら変わることはなかった。
だが、もう一人の青年にとって、その反応は希少であり、その一言は非常に衝撃的だった。
媚びも、妬みも、恐れも何もない。ただ純粋な『人』の声を、久しぶりに聞いた気がした。
求められることも、与えられることも何もない。ただ純粋な『人』を感じた気がした。
黒ブチメガネの青年の世界は、賑やかしいものへと変わり始め、
細いフレーム眼鏡の青年の世界は、輝かしい程に色づき始める。
初めは高梨も、ただの偶然かと思っていた。
教室で隣の席に座ってきた高階に内心驚いたが、オマケでついてくる女性たちの騒がしさが嫌で、すぐに別の席へと移動した。そのまま残っていたら、ムリヤリ押しのけられていたに違いない。
次に、図書館の向かいの席に、高階が座る。さすがに騒がしいとまではいかないが、それでも群がる女性の存在感がうっとうしくて、高梨は眉間に深くシワを刻みながら、また席を離れた。何故かじっと見つめる青年の視線を感じたので、そのまま図書館を後にする。
すると今度は、食事に誘われた。
「高梨。一緒にランチを食べよう」
女性なら即座に頷いてしまうような、爽やかな微笑であったが、誘われた方は同い年の男である。高梨は心底嫌そうに顔を顰めて言い放った。
「なんでオレが、アンタとメシ食わなきゃならないんだよ」
それを聞いて、心なしか頬の緩んだ高階が次の言葉を紡ぐ前に、周りにいた女性たちの方が牙を剥く。
「ちょっとアンタ! 何様のつもり!?」
「調子に乗ってんじゃないわよ!!」
「高階くん! こんなダサイ奴、ほっときましょうよ!」
突然のことに訳も判らず言われ放題の高梨は、益々不機嫌になるが、文句を言うのも面倒なので、自分よりも高い位置にある整った顔を、無言で一睨みした。
「高梨。一緒にランチを食べよう」
「断る」
それでも、壊れたおもちゃのように同じセリフを吐く男前に、短く即答した高梨は、また噛みついてくる取り巻き共々無視して、足早に姿を消した。大股に踏み出される一歩一歩に、怒りがにじみ出ていたが、そんな背中を高階は、見えなくなるまで静かに見つめていた。
それから何度か、二人が一緒にいる姿が目撃されるようになる。
学内一の秀才で有名な男前が、学力もそこそこの地味な凡人に話しかける様は、退屈している学生達の間で話題を呼び、今まで目立つことなく、細々と過ごしてきた高梨にとっては、面倒極まりない日常へと発展していった。
高階が話しかける度に、高梨は取り巻きの女性たちに鋭く睨まれ、謂れのない暴言を浴びせられた。
それだけならまだいい方で、取り巻きですらない誰かが、授業中に紙くずを投げてきたり、すれ違いざまにわざとぶつかってきたりと、実に低レベルな嫌がらせを受けることが増えていた。
イラ立たない訳ではないのだが、いちいち相手にするのも面倒で、高梨はあくまでも平然とした態度で、マイペースを崩さなかった。
むしろ腹立たしいのは高階に対してであり、女たちの行為を注意する気配はなく、関心がないにも程があるくらい放置していた。
そもそも、何故高階が自分に構ってくるのか、まったく判らない彼は、ただの嫌がらせか罰ゲームの類なら、早く飽きてしまえばいいのにと思っていた。
そんなある日、事件は起こる。
取り巻きのリーダー的存在で、派手なブランド服に身を包んだ女が、高梨の腕を掴み、ムリヤリ人気のない場所へと連れて行く。そこにはいつも見かける数人の女たちがいて、高梨を取り囲むように詰め寄った。
「ねぇ、アンタ。いい加減、高階君に近づかないでくれる?」
リーダーの女が、腕を組み威圧的に口を開く。まるで中学生のイジメのようなシチュエーションに、高梨は呆れて声も出ない。
「ダサ男のくせに、高階君と友達になろうだなんて、厚かましいにも程があるのよ!」
「そうよ! 高階くんだって迷惑してるんだから!」
「調子に乗ってんじゃないわよ!」
反論しない彼に気をよくしたのか、派手な女は更に声を荒げ、それに便乗するかのように、周りの女も口々に叫ぶ。
さすがに頭にきた高梨は、黒ブチメガネを軽く押し上げ、ヒールのせいで自分よりも背の高い、リーダーの女をジロリと見据えた。
「あのさ、迷惑してるのはオレの方なんだけど。そっちこそ、オレに構うのはヤメロって、アンタらの王子様に言えよ。
っつーか、アンタこそ何様だよ。ただの取り巻き様だろ。
ダサイことしてんじゃねぇよ。面倒くせぇ」
「なんですって!」
一気に捲くし立てた高梨の言葉に、カッとなったリーダーの女の腕が空を切り、小気味良い音と共に、黒ブチメガネを吹き飛ばした。
「高梨」
その瞬間、辺りに響いた聞き慣れた声に、女たちは息を飲んだ。
左頬を押さえながら、呼ばれた青年がゆっくりと振り返る。メガネを無くした視力では、うすぼんやりとしか見えないが、背の高いシルエットからして、予想通りの人物がいるのだと理解できた。
「高梨、どうしたの」
彼にしては珍しく、様子のおかしさに気づき、眉をひそめて足早に近寄る。
「た、高階君・・・っ 違うのよ、この男が・・・」
リーダーの女が慌てて言い訳しようとするが、高階は誰にも目をくれることなく、一直線に高梨の下へ行き、その肩を力強く掴み自らの方へと向けさせた。
その勢いで、高梨の頬を押さえていた左手がはずれ、女の長い爪にひっかかった数本の筋から、赤いものがジワリとにじみ出ているのがあらわになった。
「・・・なんで」
高梨がボソリと呟き。
次の瞬間、今まで溜まった鬱憤をはらすかのように、爆発した。
「なんでオレが殴られなきゃならねぇんだよッッ!!!!!」
叫ぶと同時に、高梨の右拳が勢いよく、仕立ての良いジャケットの左肩へ、ゴスリと音をたててめり込んだ。
うっ、と小さく呻きながら、長身を歪ませた高階の腹に、続けざま激しい蹴りが入る。
「テメェは! 一体! なんなんだよ! ふざけんな!」
一言毎に、履き古したスニーカーが、スラリとした肢体へ打ち込まれていく。そのあまりの豹変ぶりに、周りの女たちは、ただ悲鳴を上げるばかりで、その場を動くことすらできないでいた。
「いい加減にしろ! ウンザリだ!!」
高階が倒れこむまで蹴り続けた青年は、息を乱しながら、まだ怒りの収まりきらない様子で、これ以上ないくらい眉間に縦ジワを深く刻んでいた。
「もう、二度と! オレに構うな! 話しかけるな! 視界に入るな!
面倒くせぇんだよ! オマエも! オマエらも!」
燃えるような目で睨まれた女たちが、ビクリと肩をすくめる。
高梨はもう一度、地面に転がる男へと視線を戻し、大きく息を一つついてから、くるりと方向を変えた。
いつの間にか落としたリュックを拾い上げ、メガネも探してはみたものの、はっきりとは見つけられず、仕方なくその場を後にする。
「高梨!」
「黙れ! 名前も呼ぶな!」
大股で去ろうとする高梨を、今まで抵抗することなく蹴り続けられていた男が、身を起こして呼び止める。しかし、怒りを隠さない足取りは、緩むことなく地面を踏みしめて行く。
「だったらもう、僕は誰とも話さない!」
思いもよらぬ言葉に、高梨はピタリと足を止めた。女たちもギョっとして、土埃に塗れてもカッコイイ、憧れの君を一斉に見つめる。
「高梨が話してくれないのなら、僕はもう、誰とも話さない」
「・・・なんだよそれ」
困惑の色を浮かべ振り返った高梨は、細いフレームの眼鏡の奥に、見たこともない悲しみに彩られた瞳を感じた。
「高梨が僕を見てくれないのなら、僕はもう、誰も見ない。
高梨の声が聞けないのなら、僕はもう、何も聞かない。
高梨のいない世界なら、僕はいらない」
凛とした声が、空に響く。けれど、どこか悲しそうなそれに、皆息を飲んで聞き入っていた。
「高梨、僕は。
僕は、君を見ていたい。
君の声を聞いていたい。君のそばにいたい。
君と同じ世界で生きたい。
君の邪魔はしないから。高梨、僕は。
僕は、君が」
「もういい!」
サラサラと続く詩のような言葉を、高梨は思わず遮った。何を言われているのか今一つ理解できず、愛の告白にも似たセリフに頭が混乱する。
あのまま放っておいたら、何か恐ろしいことを聞いてしまいそうで、背筋に冷たいものが走った。
「オマエ・・・結局何がしたいんだよッ」
捨てられまいとする子犬のように、寂しげに佇む男前を、よく見えない目を細めてジトリと見やり、何より一番の疑問を高梨は投げかけた。
しかし、数拍待って出された答えに、足を止めてしまったことを早くも後悔することになる。
「一緒にランチを食べよう」
「―――――― 意味わかんねぇ・・・」
黒ブチメガネを落としたままの青年は、心の底からため息をつき、
細いフレーム眼鏡の青年は、ふわりとキレイに微笑んだ。
その後、『二人の邪魔をしない』という暗黙のルールができあがり、高梨への目に見える嫌がらせはなくなった。
高階自身は、相手にされないことにもめげず、隣で大人しく座っているだけでも、十分満足しているように見えた。
構われている高梨の方も、その内慣れたのか、邪魔をされないならそれでもいいかと、やはりマイペースを貫いていた。
興味のあるものには夢中になり、どうでもいいものには無関心。
それぞれ、自分の好きなことをしている点では、青年二人の本質は、よくよく似ていたのかもしれない。