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タグロは走る

 古い道は草が茫々と茂り、横から低木が飛び出していて身軽なタグロでも走りづらい。体も大きく森に慣れていないリチロは、きっと苦労したはずだ。

 だから、きっと間に合う。ちゃんと会える。

 そう思いながらも、タグロは不安でならない。他にさえぎるもののない島の風景にあるから大きく見えるものの、マラウはとても小さな山なのだ。この道こそ古くて登りにくいものの、新しい山道であれば子供や年寄りだってすぐに山頂にたどり着く。リチロがくれた写真の、あの山とは全然違う。いくら森に慣れていないとはいえ、大の大人であるリチロが登りきるのにそう時間がかかったとは思えない。もしかすると、とっくに下山してママルの浜に向かっているかもしれない。

 リチロがどこかへ行ってしまうのは寂しいことだが、止められるわけがない事はタグロにも分かっている。リチロは旅人で、タグロは留まる者だ。彼の生き方は彼のもので、タグロの生き方はタグロのもの。そんなこと、まだ子供のタグロにだって分かる。

 それでも、せめて何か一言、言ってあげたい。別れの言葉も見送りもない旅立ちなんて、あまりに孤独すぎる。

 はぁはぁと弾む息がうるさい。目に、耳に、流れ落ちる汗が邪魔だ。それでもタグロは足を止めずに走る。一番の友人と別れるために、走る。

 目の前の木立が段々とまばらになる。頂上が近い。

 タグロは走る。森の獣に、褐色の風になる。

 走る。走る。走る。


 目の前が開ける。マラウの頂上にたどり着く。


 マラウの頂上は数十年前まで物見台の代わりだった。だから、海に向けた方面は未だに低木の一本も生えず、丈の低い草だけが生い茂っている。ママル浜への道もその方向にある。

弾む息を整えながら海への道に目をやって、そしてタグロは見る。


 一艘のカヤックが今まさに白い砂を離れ、波を蹴立てて走り出す。


 カヤックを押す人物は黒い短髪、島の人間にしては白い、けれど日に焼けた肌を日光に晒し、勢いに乗ったカヤックに乗り込む。

 手には長いパドル。波をうまく乗りこなし、すっと背を伸ばして彼は進んでゆく。

 振り返らず進んでいく。

 その姿は、山頂からはあまりにも小さい。頼りない。

 それなのに、なんて大きく見えるんだろう。



 タグロの褐色の瞳に、いつの間にか涙が溢れていた。それをこぶしで乱暴にぬぐい、タグロは異国の友人、リチロの姿をしっかりとその目に刻もうとする。彼が振り返らずに行こうというなら、タグロの出る幕はない。できるのは、ただ、見守ることだけ。

 そして、旅立つ者へ、はなむけの言葉をかけるだけ。



 「リチロー!」


 彼に聞こえるだろうか、獣のようなタグロの叫び、その呼びかけ。

 聞こえていなくてもいいのかもしれない。ただ、彼を忘れない誰かが、そして彼に続く誰かが、いるだけでいいのかもしれない。


 「リチロ、サヨナラ!」


見えなくてもいい。 

タグロは、小さくなる姿に手を振る。リチロの教えてくれた、彼の国の別れの言葉を叫びながら。思えば、彼が最初に教えてくれた母語が別れの言葉というのも、いつか来るこの日を予期していたからかもしれない。


 リチロはやがて小さな点となり、水平線に溶け、消えた。

 彼の残した航跡も、風と波に揺られ、やがて消えた。



 タグロはずっと、マラウ山の頂上に座り込みリチロの行った先を見ていた。そして、「虹の向こう」の正体を考えていた。

 カヤックを漕ぐリチロの最後の姿が瞼に残っている。すっと伸びた背中。ためらいのない漕ぎ方。滑らかに進むカヤックのリズム。

 あの写真にあった山のような、儚く、しかしどっしりとした姿。

 いつか、自分も旅立つのかもしれない。リチロと同じく、「虹の向こう」を探しに行くのかもしれない。

 けれど、そこでリチロとタグロが出会うことは、きっと、無い。

 どれだけ仲がよくとも、それぞれの見る虹は違うのだ、きっと。


 夕風が吹いてタグロはくしゃみをする。そして立ち上がり、少し海を見て、古い山道を駆け下っていく。あの小屋を片付けなくてはならない。誰もいなかったように、跡形も無く。

 タグロは走る。重さなど無いように、流れる雨雲のごとく走る。

 その唇には、小さな笑みが浮かんでいる。

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