無音について
「よかったのか?こんなところで」
高校時代の友人、浦野と久しぶりに顔を合わせたのは、彼の通う大学にほど近いチェーン店の居酒屋だった。
「ああ。こういう所の方がいい」
浦野はこの近くにある大学で音の研究をしている。
と言っても音大という訳ではなく、どちらかと言えば物理学としての研究だ。
マイクやスピーカーといった機器の改良に繋がる研究らしいが、クラス一の秀才で機械いじりが好きだったこいつの言うことは、門外漢の俺にはちんぷんかんぷんだ。
「このところ毎日無響室で実験だったからね、少し騒がしい方が落ち着くんだ」
グラスの中のビールを半分ぐらいまで流し込んでから、彼はそう付け加えた――なんとなく、そこにとってつけたようなものを感じた。
「無響室?」
「うちの大学にあるんだ。周囲の音が反響しない、音がほとんど聞こえない部屋だよ」
そういえばそんなものがあるという話を聞いたことがあった。
「あそこにいるとさ、凄いんだ。自分の中から聞こえる音しか無い世界だからね」
そんな話も聞いたことがあった。
音が全く反響しない=ほとんど無音のため、己の心臓の鼓動や筋肉の動く音さえ聞こえてくるのだそうだ。
「だからこういう、音が溢れている空間にいるとようやく帰ってきたって気持ちになるよ」
そう言って、浦野は店内をぐるりと見まわした。
盛り上がっている学生の集団や、すでに出来上がっているサラリーマンの集団で騒がしい店内は、そういう環境とは確かに対照的だろう。
どこかほっとしたような浦野の表情に、人は無響室に長く居続けると、その環境に耐えられず発狂するという話もまた記憶の中に蘇ってきていた。
久しぶりの再会に、俺たちも他の客に負けないぐらいに盛り上がり、つい羽目を外して終電を逃してしまう事になった。
「何もないけど、うちに泊まりなよ。俺も久しぶりに今日明日で休みだからさ」
そう言ってくれた浦野に甘えて、彼のアパートへ。
「どうぞ。上がって」
「お邪魔します」
どこにでもあるような、学生向けのワンルーム。
いや、大学生の一人暮らしというのにはかなり整理整頓された、こぎれいな部屋。
浦野はその部屋の片隅のベッドを俺に譲ると、自身は床にクッションを並べた。
俺が流石に悪いといっても、構わないよといってそのまま床に横になる。
「たまに研究室に泊ることもあって、その時から床でこうやって寝ていたら、こっちの方が慣れちゃってさ」
そう言って笑いながら、彼は自身のノートパソコンを引っ張って来て、そこに繋いだヘッドホンを装着。
「何それ?」
「ああ、ASMRだよ。これがないと最近眠れなくて」
研究で根詰めすぎだろうか。頭がいいというのも中々大変だ。
ふとベッドの上から彼の机を見ると、書きかけのレポートと、俺には何が書いてあるのか見当もつかない書籍と同じぐらいの面積を大量のCDが占めているのが目に入った。
「音楽聞くんだ」
「ああ。作業用にね」
ハードロックにヒップホップにヘビーメタルと、ジャンルもアーティストもバラバラだが、どれも俺の知っている高校時代の浦野=物静かで機械いじりが好きな秀才のイメージからはかけ離れていた――なんとなく、大量のCDの理由も、ASMRを聞きながら眠ることの理由も、居酒屋の選定と同じようにどこかとってつけたような感覚があった。
それが、彼の失踪する一か月前の夜のことだった。
彼はある日突然連絡がつかなくなったそうだ。
大学の研究室にも姿を見せず、警察も彼の家族も、一向に足取りを掴めていない。
だが、伝え聞いた話では、あのアパートを訪れた彼の家族は、あの夜とは様変わりして、空き巣に入られた直後のような部屋を目にしたという。
そして残されたノートには意味不明の言葉が、普段の彼の字とは似ても似つかない読みにくい筆跡で殴り書きされていたそうだ。
そのほとんどは苦労して解読しても意味の通らない文字の羅列でしかなかったようだが、そのいくつかの例外は、明らかに彼の精神が異常をきたしていることを表していた。
“我々は無音について誤解している”
“完全な無音は存在しない”
“あれの音がする”
“あれは聞こえる人間を見つける”
“無音はあれの領域”
“嫌だ”
“もうここまで”
彼が何を聞いたのかは分からない。
ただそれ以降、俺もまた静寂を避けるようになった。
彼のノートの最後のページには、完全に錯乱した字で書き殴られていたそうだ。
“みるなきくなあれがくる”




