第32話~灰、散る~
立ち上がったのは、ほとんど反射だった。
耳鳴りがする。視界の端が暗い。
精神防護は完全に消え、恐怖は生身のまま押し寄せてくる。
それでも足は前へ出た。
灰の獣は不安定だった。
輪郭が保てず、粒子が剥がれ落ちている。だが中心部――核だけは、なお暗く脈打っている。
大盾の男が盾を構える。
腕は震えているが、退かない。
「今だ……全部、ぶつける!」
声は掠れていたが、意思は明確だった。
灰の獣が吠える。
恐怖が膨れ上がり、視界が歪む。
一歩、踏み出すのが遅れれば終わる。
そんな距離。
短剣使いが先に動いた。
地面を蹴り、低く滑り込む。狙いは核ではない。周囲を巡る灰の流れ。
刃が閃き、粒子の循環が乱れる。
同時に魔法使いが詠唱を始めた。
長い言葉は使えない。残る魔力はわずか。
圧縮。
ただそれだけ。
周囲の魔力が一点に収束し、空気が悲鳴を上げる。
灰の獣の動きが止まった。
核が露出する。
大盾の男が前に出る。
盾を投げ捨て、両手で槌を振るう。
打撃。
鈍い音。
だが、砕けない。
反動で体勢が崩れ、灰が腕に絡みつく。
引き裂くような冷たさ。
それでも、踏みとどまる。
最後の一歩。
刃を握る手に、感覚はほとんどない。
だが、狙いは外さない。
核へ。
斬撃。
今までとは違う感触。
硬く、脆い。
亀裂が走る。
灰の獣が震え、悲鳴とも怒号ともつかない衝撃が森を揺らす。
魔法使いが叫ぶ。
「もう一度!」
残る魔力をすべて注ぎ込む。
圧縮された魔力が核に叩きつけられる。
刹那。
闇が砕けた。
核が崩れ、灰が一気に噴き出す。
形を保っていた輪郭が消え、粒子が霧のように拡散する。
風が吹いた。
灰は舞い上がり、森の中へ溶けていく。
音が消えた。
恐怖も、重圧も、嘘のように消失する。
誰もすぐには動けなかった。
倒れたまま、荒い呼吸だけが響く。
やがて、大盾の男が笑った。
短く、かすれた声。
「……生きてるな」
短剣使いは仰向けのまま、空を見上げている。
「本当に、ぎりぎりだった」
魔法使いは座り込み、震える手を押さえた。
「二度目は……無理でした」
森は静かだった。
鳥の声が、少しずつ戻ってくる。
足元には、灰だけが残っている。
もう、脈打たない。
勝った。
だが、余裕はなかった。
一歩間違えれば、ここに倒れていた。
しばらくして、全員がゆっくりと立ち上がる。
言葉は少ない。
達成感よりも、重い安堵が胸を満たしていた。
森を出る頃、灰は完全に風に散っていた。
ただ一つだけ、確かなものが残る。
――越えてはいけない一線と、それを越えた記憶。
次は、もっと慎重に。
それでも、歩みは止めない。
静かな勝利が、そこにあった。




