第29話~灰の理~
森から戻った夜、酒場の喧騒はいつもより遠く感じられた。
机の上に広げられたのは、粗い地図と走り書きの記録。灰色に変色した草の束も、布に包んで持ち帰っている。
誰もすぐには口を開かなかった。
恐怖は形を持たないまま、胸の奥に沈んでいる。
やがて魔法使いが、包みを慎重に開いた。
「魔力の残滓はあります。でも、生き物の波長じゃない」
指先に浮かべた光が、灰色の草に触れる。
ぱちり、と小さな火花のような反応。だが燃えない。熱もない。
「石喰いでも泥蛇でもないな」
大盾の男が腕を組む。「物理的な説明がつかん」
短剣使いは地図に印を打ちながら言う。
「足跡の間隔が不自然だ。跳躍してるわけでも、歩幅が広いわけでもない。……“滲んでる”」
滲む。
その言葉が、場の空気をさらに重くした。
魔法使いは小さく息を吐く。
「可能性は三つあります」
指を一本立てる。
「一つ、強力な呪詛を帯びた獣。何らかの影響で体質が変質した」
二本目。
「二つ、精霊に近い存在。肉体を持たず、森そのものに干渉している」
三本目。
「三つ……遺構と同じ“異常領域”の発生源。ダンジョン型でも獣型でもない、現象」
沈黙が落ちる。
「精霊なら、交渉の余地はあるか?」
大盾の男が問う。
「理性があれば、です」
魔法使いは首を横に振る。「でも、あの痕跡は理性的じゃない」
短剣使いが灰を見つめる。
「狩りをしてる形跡はあった。骨が残ってた。なら腹は減る」
「だが体温がない」
「匂いも薄い」
矛盾が積み重なる。
生き物の条件を満たしているようで、決定的に外れている。
酒場の笑い声が、壁越しにかすかに響く。
ここだけが別の場所のように静まり返っていた。
「恐怖を与える仕組み、って可能性は?」
ぽつりと出た言葉に、三人が顔を上げる。
「存在自体が圧力になってる。姿を見せずとも、近づいた者の感覚を歪ませる。あの森の静けさは……偶然じゃない」
魔法使いが目を細める。
「精神干渉……」
「なら、戦う前に削られる」
短剣使いの声が低くなる。
大盾の男は机を軽く叩いた。
「仮説はいくらでも出る。だが確かめるには、もう一度入るしかない」
言葉は重いが、逃げる選択肢は誰も口にしない。
魔法使いが静かに頷く。
「対策を立てましょう。精神防護の術式を組みます。長くは持たないけれど」
「罠は物理だけに絞る。発動しない前提で配置を考える」
短剣使いが続ける。
「正面から受ける覚悟はできてる」
大盾の男が静かに言う。
灰色の草は、机の上でわずかに震えた気がした。
風はない。
正体はまだ闇の中だ。
だが少なくとも、“何もわからない恐怖”からは一歩進んだ。
それが獣なのか、精霊なのか、現象なのか。
確かめるための準備は始まっている。
森は、待っている。




