第28話~灰の足跡~
森へ入ったのは夜明け前だった。
湿った土の匂いが濃く、靴底にまとわりつく。ギルドから渡された地図は簡素で、目印になるのは古い石碑と折れた大樹だけ。頼れるのは仲間の経験だった。
先頭は短剣使い。地面に顔を近づけ、落ち葉の乱れを一つひとつ確かめる。
「三日前の踏み跡。人じゃない。重さが違う」
大盾の男は周囲を警戒し、木々の隙間を睨む。
「風向きが嫌だ。音が散る」
魔法使いは小さく詠唱し、掌に淡い光を浮かべた。探知の補助魔法らしい。
「魔力の滞りがあります。ここ、何度も通ってる」
それぞれの知識が静かに噛み合う。
トロル戦の時よりも無駄がなく、言葉は短い。誰も先走らない。
やがて、折れた大樹の根元で異変を見つけた。
土が円形にえぐれ、周囲の草が灰色に変色している。焦げではない。枯死とも違う、色そのものが抜け落ちたような跡。
「これが報告にあった“灰”か」
大盾の男が低く唸る。
短剣使いは慎重に指先で触れ、すぐに手を引いた。
「冷たい……生き物の体温じゃない」
魔法使いが光を強めると、空気がわずかに震えた。
「嫌な感じ。魔物というより、現象に近い」
言葉が途切れる。
森の奥から、風とも鳴き声ともつかない音が流れてきた。
痕跡は点々と続いていた。
木の幹に残る深い爪跡、折れた枝、引きずられた獣の骨。どれも規則性がなく、気まぐれに歩いたかのようで読めない。
「狩り方が定まってない」
短剣使いが呟く。「本能だけで動いてるかも」
「それが一番厄介だ」
大盾の男の声が硬くなる。
進むほどに、胸の奥が重くなる。
見えないはずの何かが背後に立っているような感覚。誰も口には出さないが、足取りは自然と狭く寄った。
そして、石碑の近くで“それ”を見つけた。
巨大な足跡。
だが形が定まらない。狼にも熊にも似ていない。縁がぼやけ、灰が渦を巻くように溜まっている。
魔法使いが息を飲んだ。
「生き物の痕跡じゃ、ない……」
短剣使いは周囲を見渡し、声を落とす。
「ここで引き返した連中の気持ち、わかる」
大盾の男は無言で盾を握り直した。
言葉よりも、その仕草がすべてを物語っている。
存在するだけで人を怯ませるもの。
姿を見せずとも、心の奥に冷たい手を差し込むもの。
まだ遭ってもいないのに、勝ち筋が想像できない。
トロルのような力でも、ゴブリンのような数でもない。もっと別の、理屈の外側にある何か。
森が静まり返る。
鳥も鳴かない。風さえ息を潜めたようだった。
「今日はここまでにしましょう」
魔法使いの声はかすかに震えていた。
誰も反対しなかった。
得られたのは情報と、そして確かな恐怖。
灰の足跡は、森の奥へと続いている。
その先にいるものが何なのか――まだ誰も知らない。




