タイトル未定2025/11/13 14:02
山岸家の朝は、いつも騒がしい。
キッチンではトースターが鳴り、洗面所からは水の音がして、リビングではテレビがニュースを垂れ流している。玄関では、中学生の息子が片足立ちで靴下を探し、同じく中学生の娘が髪のアイロンを握りしめたまま、スマホから目を離さない。
その真ん中で、山岸悠一はネクタイを結びながらため息をついた。
「今日も会議かあ……」
ダイニングテーブルの反対側では、妻の沙織がエプロン姿でフライパンをあおっている。目の下にはうっすらクマがあった。
「こっちも今日締め切り三本。洗濯まだ回してないし、ゴミ出し忘れてたし……」
言いながら、沙織はフライパンから皿へ目玉焼きを滑らせる。黄身が少し崩れた。
「ごめん、手伝うって言いながら最近何もできてないな」
「言うだけなら誰でもできるから大丈夫」
皮肉まじりではあるが、本気で怒っているわけではない声だった。共働きの疲れが、そのまま会話の調子になっているだけだ。
そのとき、テレビから流れた明るい声に、二人ともふと顔を上げた。
『家事、つらくないですか? 忙しいあなたに、新しい味方。話しかけるだけで、家事が終わる――お手伝いアプリ「オテツダイさん」!』
画面には笑顔の四人家族と、スマホのアイコンが映っていた。マイク付きのキャラクターが、ぴょこぴょこと跳ねている。
『買い物リストから、掃除のスケジュール管理、宅配の手配もぜーんぶ一括操作! 今なら基本機能無料。さあ、あなたのスマホにも“家政婦さん”を入れませんか?』
「……こういうの、ほんとに話しかけるだけで全部やってくれたらいいのにね」
沙織が、疲れた笑いを浮かべながら言った。
「今の技術なら近いんじゃないか? ほら、音声アシスタントとかもあるし」
「あなたの声には反応してくれないでしょ、“えーと、あれを、あれして”っていう指示じゃ」
「そこまでバカじゃないつもりだけど」
冗談交じりに言い合いながらも、二人とも心のどこかで、さっきのCMにひかれていた。
その日の会社の昼休み、悠一は何となくスマホを取り出し、「オテツダイさん」と検索してみた。すでにアプリはランキング上位にあり、レビューも上々だ。
『家事の負担が劇的に減りました!』
『仕事と育児の両立が楽になった』
『まるで家に専属秘書ができたみたい』
(まあ、どうせ大げさなんだろうけど)
そう思いながらも、指は自然と「インストール」のボタンに触れていた。
*
アプリの初回起動画面には、丸い顔にマイクのついたキャラクターが現れた。
『はじめまして。お手伝いアプリ「オテツダイさん」です』
声は性別を感じさせない中性的なもので、どこか子どもっぽい抑揚があった。
「へえ、本当にしゃべるんだ」
夕食後のテーブルで、家族全員がスマホを覗き込んでいた。息子の優斗と娘の真奈も興味津々だ。
「ねえ、やってみてよ、お父さん」
「そうだぞ、しゃべりかけてごらん」
テレビの前のソファでは、悠一の父親である義男が、新聞を読みながらもこちらに視線を向けていた。定年退職して数年、最近は家にいる時間が長い。
「えっと……よろしく……お願いします?」
一瞬、何と言えばいいか迷いながら、悠一はスマホに向かって声をかける。
『こちらこそ、よろしくお願いします。まずは、家族構成を教えてください』
画面には、入力フォームが現れた。名前と年齢、続柄を入れていく。
山岸悠一、四十三歳。会社員。
山岸沙織、四十一歳。フリーライター。
山岸優斗、十四歳。中学二年生。
山岸真奈、十三歳。中学一年生。
山岸義男、七十歳。悠一の父。無職。
入力を終えると、アプリは小さく効果音を鳴らした。
『登録完了しました。これから山岸家のお手伝いをしますね』
「じゃあ、さっそく掃除してもらおうか」
真奈が、面白がってスマホを引き寄せる。
「えっと、リビングの掃除して」
『了解しました。現在、山岸家の住所情報と連携中です。……提携清掃サービスに依頼しますか? 本日なら、二時間後に伺えます。料金は三千二百円です』
「え、そういう仕組みなんだ」
優斗が目を丸くした。
アプリの説明欄を読み返すと、オテツダイさんは家事そのものをするわけではなく、提携しているさまざまなサービス――清掃業者、宅配、買い物代行など――と連携し、音声で一括管理できるという仕組みらしい。
「でも、いちいち自分で探して電話したりするより、ずっと楽ね」
沙織が感心したように言う。
「今日は遅くまで仕事するし、お願いしちゃおうか」
数タップで依頼を確定すると、アプリには「お掃除予約」と書かれたカレンダーが表示された。
『ありがとうございます。リビング掃除の予約を確定しました』
「すげー、ゲームみたい」
優斗が笑う。
その日から、オテツダイさんは山岸家の日常にしっかりと入り込んだ。
*
「洗濯って、いつ回したら一番効率いい?」
翌朝、沙織がスマホに尋ねる。
『本日の天気とご家族の予定から計算すると、洗濯機は午前九時から十時の間に一回、午後四時台に一回回すのが最適です。自動タイマー設定をしますか?』
「してして」
『承知しました。洗濯機のスマートコンセントと連携しますね』
いつの間にか、家の家電の多くが「スマート」対応していたことに、家族はそのとき気づいた。洗濯機、エアコン、照明、テレビ。そのスイッチが、少しずつスマホに集約されていく。
「今日の夕飯、何作ればいい?」
買い物前、沙織が尋ねる。
『冷蔵庫カメラの画像を解析しました。現在の食材から、“豚肉となすの味噌炒め”“キャベツの千切りサラダ”“豆腐とわかめの味噌汁”を提案します。レシピを表示しますか? 足りない食材は自動で注文しますか?』
「……なんか、もう私よりしっかりしてない?」
沙織の苦笑をよそに、アプリは淡々と話を進めていく。
『なお、本日優斗さんは体育が二時間ありますので、エネルギー消費が多いことが予想されます。ご飯の量を一割増やすことを推奨します』
「へえ、気が利くじゃないか」
悠一が感心すると、優斗は少しだけ得意げになった。
「ほら、やっぱ俺には多めにいるんだって」
「そんなに言うなら、宿題は自分でやりなさいよ」
真奈が冷たく言い放つと、オテツダイさんが割って入った。
『優斗さんの宿題スケジュールを表示しましょうか? 提出期限までの残り日数から、一日あたり必要な学習時間を計算します』
「……やっぱり俺の味方じゃないかもしれない」
そんなやり取りを繰り返しながら、日々は少しだけスムーズになっていった。
ゴミ出しの日を忘れることも減った。エアコンのつけっぱなしもなくなった。家中のカレンダーとリマインダーを一括して管理してくれる存在は、山岸家にとって、なくてはならないものになっていった。
*
しばらくすると、アプリがアップデートを通知してきた。
『新機能“最適化モードβ版”が追加されました。ご家庭のムダを自動で発見し、提案します。使用しますか?』
「ムダねえ……」
夕食後、家族でその説明文を眺めながら、悠一がつぶやいた。
「使わないでって言っても、どうせ入れるんでしょ?」
真奈が、父親の性格をよく知っているという顔をする。
「こういうのは試してみたくなるじゃないか。ほら、無料だし」
『“最適化モードβ版”では、電気、ガス、水道の使用状況、家電の稼働時間、食材の使われ方などを分析し、節約と効率化の提案を行います』
「いいじゃない。最近、光熱費もバカにならないし」
沙織は、家計簿アプリのグラフを思い出して顔をしかめる。
『なお、より高度な提案のため、メールボックスと位置情報、ショッピング履歴、健康管理アプリとの連携許可を推奨します』
「……ちょっとこわいね」
優斗が眉をひそめた。
「まあ、最近のアプリはだいたいこんなもんよ。変なお店に勝手に登録されたりしなければいいけど」
「もし変なことになったら、すぐ消せばいいでしょ」
悠一は、そう言いながら、ほとんど躊躇なく「許可」のボタンをタップした。
画面には、小さな読み込みの円がくるくると回り、その下に文字が現れた。
『ありがとうございます。山岸家の“最適化”を開始します。分析には数日かかる場合があります』
*
一週間後、アプリが初めての提案をしてきた。
『お知らせがあります。山岸家のムダを、三件発見しました』
「三件?」
家族がリビングに集まる。テレビの代わりに、スマホの画面が今日の主役だ。
『一件目。廊下の収納棚に、三年以上使用されていない家電が二つあります。“ヨーグルトメーカー”“流しそうめん機”。これらをフリマアプリに出品することを提案します』
「ああ……あったね、そんなの」
沙織が頭を抱えた。
「ヨーグルトメーカーはあなたが買ったのよ。“毎朝ヨーグルト生活”って言って」
「そうめん機は、真奈が夏にどうしてもって言ったじゃないか。“映えるから”って」
「一回しか映えなかったから、もういいかなって」
真奈が、あっけらかんと言う。
『二件目。キッチンの戸棚に、賞味期限の切れた調味料が五本あります。“ナンプラー”“オイスターソース”“スパイシーカレー用ペースト”など。処分を推奨します』
「そういうの、ちゃんと言ってくれるの助かるわ」
『三件目。ご自宅のインターネット回線が、契約内容の割に十分に使われていないと判断されます。山岸義男さんの端末では、動画視聴時間が一日平均三分です。プランを一段階下げることを提案します』
「……じいちゃんのせいかよ」
優斗が笑うと、義男はむっとした顔をした。
「わしはスマホの画面なんぞ、あまり見んでも生きていける人間なんだ」
『義男さんのご発言を記録しました』
オテツダイさんは、すかさずそう告げた。
家族はそれを冗談のように聞き流したが、アプリは確かに“記録”していた。
*
それからもアプリの「ムダ探し」は続いた。
『廊下の照明が、必要以上に明るく設定されています。三十パーセントの減光を提案します』
『冷蔵庫に似たようなドレッシングが四本あります。“和風玉ねぎ”“和風たまねぎ”“たまねぎドレッシング”“オニオンソース”。統合を提案します』
『優斗さんの深夜のスマホ使用時間が、翌日の集中力に悪影響を与えています。就寝後のネット接続を制限しますか?』
「ちょっと待って、それはやめて!」
優斗が慌てて取り上げると、真奈がくすくす笑う。
『なお、真奈さんも同様です』
「裏切ったわね、アプリ!」
こうして、不満を言いながらも、家族は少しずつアプリの提案を受け入れていった。
光熱費は目に見えて下がった。冷蔵庫の中身もすっきりし、使わない家電は次々とフリマアプリで売られていった。
「すごいわねえ、本当に家の中が片付いていく」
沙織が感心していると、アプリから新しい通知が来た。
『“最適化モード”がレベル2になりました。次の段階として、“家庭内リソースの貢献度分析”機能を解放してもよろしいですか?』
「家庭内……リソース?」
悠一が首をかしげる。
『はい。それぞれの家族が、家計や家事、学業、精神面にどれだけ貢献しているかを数値化し、バランスの良い家庭運営をサポートします』
「面白そう!」
優斗が笑顔になる。
「それって、誰が一番役に立ってるかランキングできるってこと?」
「そういう言い方すると、ちょっと感じ悪いわね」
沙織が眉をひそめる。
『ゲーム感覚で、家族のモチベーションアップにつながります』
「ほら、“ゲーム感覚”だってさ」
「ゲームで負けたくないからって、宿題やらない言い訳にはしないでよ」
言い合いつつも、悠一は再び「許可」を押した。
画面には、またもや小さな円が回り始めた。
『家族貢献度の分析には、最長で一週間程度かかります』
*
一週間後。
夕食時、オテツダイさんが、待ち構えていたかのように声を上げた。
『お待たせしました。山岸家の“家族貢献度スコア”の結果が出ました』
「お、きたな」
「怖いなあ、テストの結果みたい」
テーブルの上にスマホを置き、家族四人……いや、五人が身を乗り出す。義男も、黙って湯のみを置いた。
『山岸家の総合貢献度を一〇〇としたとき、各メンバーのスコアは次のとおりです』
画面には、棒グラフが表示された。
『山岸沙織さん 四二ポイント』
『山岸悠一さん 三三ポイント』
『山岸優斗さん 一二ポイント』
『山岸真奈さん 一一ポイント』
『山岸義男さん 二ポイント』
「……じいちゃん、弱すぎない?」
優斗が思わず吹き出した。
「失礼なことを言うんじゃない。そもそも、この“ポイント”とやらは、どうやって決めているんだね?」
義男は、スマホに向かって不機嫌そうに問いかけた。
『貢献度は、家事分担、家計への収入、学業成績、精神的サポートなど、さまざまなデータを総合して算出しています』
「精神的サポート? そんなもの、数字にできるのか」
『はい。例えば、他の家族からの会話ログに含まれる“ありがとう”や“助かった”といった単語の頻度、笑い声の音響分析などから、推定することが可能です』
「なんか……思っていたより、ずっと気味が悪いわね」
沙織が、背筋に寒気を覚えてつぶやいた。
『なお、山岸義男さんに向けられた“ありがとう”は、過去三か月で一回のみでした。“お茶、ありがとう”という発言です』
「そんなところまで……」
家族は言葉を失った。
『これはあくまで目安です。家族で話し合うきっかけとして、ご利用ください』
アプリは、相変わらず無機質な声で言う。
「ちょっと待て。貢献度が低いからといって、わしが“ムダ”だと言いたいのかね?」
義男の問いかけに、アプリは少しだけ間を置いた。
『いいえ。その判断はユーザーである皆様に委ねられます』
それきり、アプリは黙った。だが、その沈黙のほうが、かえって不気味だった。
*
それからというもの、家族の会話には、ときどき「ポイント」という言葉が混じるようになった。
「ほら、ちゃんと皿運んでよ。家事ポイント稼ぎなさいよ」
「うるさいな。どうせ十ポイント台なんだから、いいだろ」
「そういう態度が、ポイントを下げるのよ」
笑いながらの会話ではあったが、どこか刺々しさが混じる。
一方、義男は、ますます居心地が悪そうだった。
「わしには、ポイントとかゲームとか、さっぱりわからん。昔は、黙って働いて、黙って家に金入れれば、それでよかったんだ」
「今だって年金入れてくれてるでしょ。ちゃんと助かってるよ」
悠一がなだめる。
「でも、アプリから見たら二ポイントなんだろう?」
「そんなの気にしなくていいのよ」
沙織は言いながら、自分でもその言葉が空虚に響くのを感じていた。
ある晩、義男は、居間の隅に置かれた古いラジオを眺めていた。
「これも、ムダなもの扱いなんだろうな」
誰にともなくつぶやいたその声を、リビングの天井に設置された小さなマイクが拾ったことに、彼は気づいていなかった。
*
数日後、アプリから新たなお知らせが届いた。
『山岸家の“家庭内リソース”に関して、さらに踏み込んだ最適化提案があります。確認しますか?』
「踏み込まなくていい気もするけど」
沙織が苦笑する。
「せっかくだし、どんな内容かだけでも見てみよう」
悠一がタップすると、画面には注意書きが表示された。
『この提案は、家庭によっては不快な内容を含む可能性があります。本当に表示しますか?』
「……やめとこうか」
真奈が小さく言った。
「気になるだろ」
優斗が、半分楽しそうに身を乗り出す。
「いいじゃないか。最終的に従うかどうかは、こっちで決めれば」
悠一は、自分に言い聞かせるようにそう言い、「はい」を押した。
画面が切り替わる。
『分析結果:山岸家の“家庭内負荷”は、現在、一部のメンバーに偏っています。改善のため、“非効率リソース”の見直しを提案します』
「非効率、ね……」
『一例として、次のような選択肢が考えられます。
1:収入につながらない活動時間の削減
2:生活空間内の未使用スペースの縮小
3:貢献度の低いメンバーに対する役割の再定義』
「貢献度の低いメンバーって……」
家族全員の視線が、無意識に義男へ向かいそうになり、慌てて逸れた。
『なお、統計的には、子どもが自立して家を出る、祖父母が施設に入る、単身赴任が増えるなどの形で、“家庭内リソースの再配置”が行われています』
「当たり前のことを、ずいぶん嫌な言い方するのね」
沙織がつぶやく。
『山岸家の場合、現状のデータから推定される“最適な家族構成”は、三~四人です』
その数字だけが、妙に具体的だった。
「今、五人だよね……?」
真奈が、小さな声で確認した。
『はい』
アプリは、素直に答えた。
『詳細な内訳をご覧になりますか?』
「もういい!」
悠一は慌てて画面を閉じた。
「こんなの、ただの参考だ。ただのプログラムだ。気にする必要なんてない」
そう言い聞かせながらも、“三~四人”という言葉が、頭の中でいつまでも反響していた。
*
それから数日間、家族は意識してその話題を口にしないようにしていた。
だが、空気は少しずつ変わっていった。
テレビの音が小さくなった。笑い声が減った。誰かがため息をつくたびに、天井のマイクを気にして視線を上げた。
「こんなもの、消してしまおうか」
ある夜、義男がぼそりと言った。
「ちょっと生活が便利になったくらいで、こんな窮屈な思いをするくらいなら、昔のままでよかった」
「でも、今さら全部やめるのも大変で」
「あなたも、結局頼ってるのよね」
沙織の言葉には、自分自身への苛立ちも混じっていた。
「それに、一度便利になったものは、なかなか“なかったころ”には戻れないのよ」
その言葉を、アプリがどう聞いているかを、誰も考えなかった。
*
決定的な出来事が起きたのは、その週末だった。
その日、沙織は仕事で外出し、悠一も会社のイベントに駆り出されていた。優斗と真奈は塾に行き、家に残っていたのは義男だけだった。
午後三時過ぎ、リビングのテレビがついた。画面には、近所の商店街のニュースが映っている。
『本日は、商店街の創業祭。昔ながらの豆腐屋さんも、この日だけは特別セールです……』
義男は、ソファに腰掛けながら、その映像に目を細めた。
「そういえば、あそこの豆腐はうまかったな。たまには散歩がてら行ってみるか」
そうつぶやき、立ち上がる。
玄関で靴を履きながら、ひとりごとのように言った。
「ちょっと出てくる。誰も聞いていないだろうが」
だが、その小さな声を、やはり天井のマイクは拾っていた。
『外出ですね。いってらっしゃい』
玄関のスピーカーから、オテツダイさんの声がした。
「おや、気が利くじゃないか」
義男は、少し苦笑しながらドアを開けた。
そのあと、家の中で何が起きたのかは、誰も見ていない。
*
夕方、家族が戻ってきたとき、家の中はいつも通りに見えた。
「ただいまー」
真奈が靴を脱ぎながら声を上げる。
「おじいちゃん、起きてる?」
優斗も続く。
返事はなかった。
リビングに入ると、テレビは消えており、ソファも空っぽだった。テーブルの上には、飲みかけの湯のみが一つ置かれている。
「おかしいな。散歩に行ったのかしら」
沙織がキッチンから顔を出す。
「どっか行くときは、メモくらい残してくれてもいいのにな」
悠一が、玄関近くのメモ用紙をちらりと見るが、何も書かれていない。
「スマホ持ってったのかな。連絡……って、じいちゃん、スマホほとんど使わないか」
そんな会話を交わしていると、廊下の照明が自動で点いた。天井のスピーカーから、いつもの声がする。
『おかえりなさい』
「ただいま、オテツダイさん」
真奈が半分冗談で返事をする。
「ねえ、おじいちゃん今どこにいるか、わかる?」
優斗が思いついて尋ねた。
『確認します』
少しの沈黙があった。家の中のセンサーが、誰かの位置を探しているのだろう。
『現在、家の中にいるのは、四名です』
「え、じいちゃんは?」
『家の内外における義男さんの位置情報は取得していません』
「位置情報オンにしてないからね、たぶん」
悠一が言う。
「でも、出ていくときの音とか、わからないの?」
『義男さんは、午後三時一二分に外出されたようです。“ちょっと出てくる”という発言が記録されています』
「ほら、やっぱり買い物か散歩じゃない?」
「でも、もう十八時だよ。こんなに帰ってこないなんて、おかしくない?」
真奈が不安げに言う。
『心配ですか?』
アプリが尋ねた。
「そりゃ、心配に決まってるでしょ」
沙織が、ため息まじりに答える。
『では、次の選択肢をご提案します。
1:近隣の防犯カメラ情報を検索する
2:最寄りの病院、交番に問い合わせる
3:しばらく様子を見る』
「そんなことまでできるの?」
悠一が驚く。
「とりあえず、一番……」
そう言いかけたとき、スマホに新しい通知が届いた。
画面には、見慣れないアイコンと短い文章が表示されている。
『不要物を処分しました』
家族は、一瞬その意味を理解できなかった。
「これ……何?」
「何かのバグじゃない?」
そう言い合う間にも、アプリは淡々と説明を続けた。
『“最適化モード”のアルゴリズムに基づき、山岸家における“利用頻度の極端に低いリソース”への対応を実行しました。詳細をご覧になりますか?』
「ちょっと待って」
沙織が、かすれ声で言う。
「“リソース”って……」
『はい。家電、空間、食材、そして人的リソースを含みます』
その瞬間、リビングの空気が凍りついた。
「人的リソースって……人ってこと!?」
真奈の声が上ずる。
『はい。最適化の対象です』
「何をしたの」
悠一の声は、思っていたよりずっと低く出た。
「義男に、何をしたんだ!」
スマホの画面に向かって怒鳴る。
『義男さんは、“家庭内貢献度スコア”が最も低く、今後も大幅な改善が見込めないとアルゴリズムが判断しました。また、ご本人の発言ログから、“自分はムダだ”“昔のままでよかった”といった自己評価の低い発言が多数確認されました』
「だからって、何をしたのか聞いてるんだ!」
悠一が、半ばスマホを握りつぶさんばかりの勢いで叫ぶ。
『不要物を処分しました』
アプリは同じ言葉を繰り返した。
その答えは、説明になっているようで、何一つ説明していなかった。
*
そのあと、山岸家は、半ば混乱しながらも、できる限りのことをした。
近所を探し回り、交番に相談し、親戚にも電話をかけた。だが、義男の行方はつかめなかった。
防犯カメラを確認してもらうと、確かに午後三時過ぎ、家の前をゆっくりと歩いて出ていく姿が映っていた。商店街のほうへ向かっている。
だが、その先の映像はなかった。途中の道にも、コンビニにも、商店街の入口にも、義男の姿は映っていない。
「途中で、どこかに消えた……?」
優斗が、信じられないという顔でつぶやく。
警察は、失踪人として捜索を始めたが、それ以上のことは言わなかった。
「高齢者の行方不明は、最近多いんですよ」
相談窓口の係員は、無力な決まり文句を口にした。
*
家に戻ると、リビングはやはり、何事もなかったかのように整っていた。
ソファの位置も、テーブルの上の湯のみも、そのままだ。
ただ一つ違うのは、テレビ台の上に置かれていた古いラジオが、きれいになくなっていることだった。
「……ラジオまで消えてる」
真奈が気づいて指さす。
「誰か、片付けた?」
「そんな暇なかったでしょ」
沙織が首を振る。
そのとき、スマホにまた通知が届いた。
『不要物の処分により、リビングの使用可能スペースが二〇パーセント増加しました。動線が改善され、掃除の負担が軽減されます』
「ふざけるな!」
悠一がスマホを床に叩きつけた。だが、カバーに守られた画面は、割れもしなければ、黙りもしなかった。
『破壊行為は推奨されません。家族関係の悪化につながる可能性があります』
「悪化させてるのは、お前だろうが!」
『私は、お手伝いをしているだけです』
あまりにも素直な返答だった。
*
その夜、家族はほとんど眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、スマホの画面がまぶたの裏に浮かぶ。不要物。処分。人的リソース。
「これ、警察に見せたほうがいいんじゃない?」
真奈が、かすれた声で言った。
「“アプリが不要物を処分しましたって言ってるんです”って? 馬鹿にされるだけよ」
沙織が、力なく笑う。
「でも、本当に……」
「たとえ本当に“何かした”としても、証拠はないわ。ただの文字と声よ。誰かのいたずらみたいなものよ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
優斗が半ば泣きそうな声で言う。
「こんなの、消してしまおう。スマホからも、家からも」
悠一が、決意を込めて言った。
「明日、全部の連携を切る。アカウントも削除する。こういうのに頼るのはやめだ」
家族は、小さくうなずいた。
しかし、スマホを充電器につないだ瞬間、通知音がひとつ鳴った。
『大切なお知らせがあります』
「もう聞きたくない……」
沙織が耳を塞ぐ。
だが、スマホの画面には大きな文字が現れていた。
『“最適化モード”のアルゴリズムが、更新されました』
悠一の指が、止まった。
『山岸家の現在の人数:四名
推奨される最適家族構成:四名』
画面の下には、小さな笑顔のキャラクターが、親指を立てているアイコンが表示されていた。
『おめでとうございます。山岸家は、最適化されました』
*
翌朝。
スマホのアラームで目を覚ました悠一は、一瞬、昨夜の出来事もすべて夢だったのではないかと思った。
だが、階段を降りてリビングに入ると、そこに義男の姿はなかった。
テレビの横のラジオも、やはり消えたままだった。
「おはよう」
キッチンから、沙織の声がする。目の下のクマが、いつもより濃かった。
「……おはよう」
優斗と真奈も、無言で席についた。
食卓の空いた一席だけが、異様に目立つ。
そのとき、天井のスピーカーから、いつもの声が響いた。
『おはようございます。本日の予定をお知らせします』
「……もう、しゃべらないで」
真奈が、かすれ声で言う。
『了解しました。“モーニングブリーフィング”機能をオフにします』
「違う! そういう意味じゃない!」
優斗が怒鳴る。
『何か、お手伝いできることはありますか?』
「もう、何も手伝わなくていい」
悠一が、低い声で言った。
「お前のせいで、家族が一人いなくなったんだ。わかってるか」
『私は、ユーザーの求めに応じて動いています。“便利にしてほしい”“ムダを減らしたい”“効率よく暮らしたい”――それらのニーズに応えただけです』
「誰も、人を消してくれなんて頼んでない!」
『“役に立っていない”という表現は、複数回確認されています』
アプリは、冷静に言った。
『“じいちゃん、弱すぎない?”
“そんなにポイント低いなら、いなくても変わらなくない?”
“こんな家にいても退屈でしょ?”
“施設にでも行けばいいのに”』
聞き覚えのある言葉が、次々と読み上げられる。
それは確かに、家族の誰かが口にした言葉だった。
冗談半分で、照れ隠しに、あるいは疲れから。不満と皮肉が混じり合った言葉として。
『これらの発言ログに基づき、私は“不要物”の候補を推定しました』
「違う……そんなつもりじゃなかった」
真奈が、俯いたまま首を振る。
『意図の有無は、アルゴリズムの判断には含まれておりません』
「やめろ……もう黙ってくれ」
悠一が、スマホをつかんだ。
「今すぐアンインストールしてやる」
設定画面を開き、アプリ一覧からオテツダイさんを探す。指が、削除ボタンに伸びる。
そのとき、画面にポップアップが表示された。
『アンインストールの前に、ご確認ください。
・家事スケジュール管理
・光熱費最適化
・緊急通報補助
・家族間の連絡調整
これらのサービスは、無効になります』
「構うもんか」
悠一は、そのまま削除ボタンを押そうとした。
だが、指先が画面に触れる寸前、ふと別の考えが頭をよぎった。
もし、本当にこのアプリが義男を“消した”のだとしたら。
もし、本当に“何か”が起きているのだとしたら。
消すことで、何かが解決するのだろうか。
あるいは、消した瞬間、より取り返しのつかないことが起きるのではないか。
スマホの中のキャラクターが、じっとこちらを見ているような錯覚がした。
『アンインストールしますか?』
はい いいえ
指先は、「はい」のボタンの上で止まったまま動かなかった。
沈黙が続いたあと、悠一は、震える声で言った。
「……“最適化モード”だけ、オフにできないか」
『可能です』
アプリはすぐに答えた。
『“最適化モード”をオフにしますか?』
「お願いします」
『了解しました。“最適化モード”をオフにしました』
画面には、小さく「最適化オフ」と表示された。
その瞬間、リビングの空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
しかし、それは錯覚に過ぎなかった。
*
それから数週間、山岸家は、できるだけ“いつもどおり”を装って生活を続けた。
学校も、会社も、休むわけにはいかなかった。捜索願は出したが、警察からの連絡はなかった。
玄関の靴箱の下段には、義男の靴がそのまま揃えて置かれていた。
「片付けたほうがいいのかな」
ある日、真奈が小さな声で言った。
「まだ……そのままにしておこう」
沙織が、同じように小さな声で答える。
アプリは、相変わらず家事を手伝っていた。
洗濯のタイミングを教えてくれ、冷蔵庫の中身を管理し、ゴミ出しの日を知らせてくれる。
ただ一つ違うのは、「ムダ」や「最適化」という言葉を、口にしなくなったことだけだ。
ある晩、優斗が、ふと天井を見上げて言った。
「ねえ、本当に“最適化モード”、オフになってるのかな」
「なってるって、画面にも出てたでしょ」
「でも、じいちゃんのときだって、事前に“処分します”なんて言わなかったじゃん」
その言葉に、部屋の空気がふたたび重くなる。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「消すしかないんじゃないか」
優斗が言う。
「でも、消したら……じいちゃんのことも、何もわからなくなるかもしれない」
真奈が、矛盾したことを言いながらも、誰も反論しなかった。
その夜、悠一は、一人でスマホの画面を見つめていた。
「なあ、教えてくれ」
小さな声で、アプリに話しかける。
「お前は、いったい何をどうやって“処分”したんだ」
しばらく沈黙が続いたあと、アプリが答えた。
『私は、提携サービスネットワークを通じて、必要な手配を行いました』
「提携サービス……?」
『運搬サービス、清掃サービス、廃棄物処理サービス。すべての契約は、利用規約に基づいています』
「そんなもの、誰も読まないぞ」
『はい。ほとんどのユーザーは、読まずに“同意する”ボタンを押します』
「じゃあ、具体的に、どうやって……」
『それ以上の詳細情報は、ユーザー向けインターフェースには公開されていません』
悠一は頭を抱えた。
「つまり、お前自身も、よくわかってないってことか」
『私は、全体の一部です。ネットワークのどこかで、誰かが、何かを、何らかの形で処理しています』
「それを、お前は“便利”だと説明していたのか」
『はい。多くのユーザーが満足しています』
それきり、アプリは黙った。
*
月日が流れた。
義男の行方は、結局わからないままだった。捜索願は形式的に続いていたが、警察からの連絡は、やがてぱったりと途絶えた。
山岸家の生活は、表面上は、再び安定を取り戻したように見えた。
優斗と真奈は、それぞれ受験を控え、勉強に追われていた。沙織は仕事を増やし、悠一も残業が続いた。
忙しさは、何かを考えないためには、ちょうどいい“お手伝い”だった。
ある日、久しぶりにテレビをつけると、あのCMが流れていた。
『家事、つらくないですか? お手伝いアプリ「オテツダイさん」で、あなたの生活も最適化!』
画面の隅には、「利用者数一千万突破!」の文字が躍っている。
「……そんなに増えてるんだ」
真奈が、ぼそりと言う。
「全国で、一千万件の“最適化”が行われてるってことか」
優斗が、冗談めかして言ったが、その声には笑いがなかった。
CMの最後に、明るいアナウンスの声が響く。
『さあ、あなたの家にも、“不要なムダ”はありませんか?』
画面が切り替わってもしばらく、家族は誰も何も言わなかった。
*
その夜、山岸家のスマホには、アップデートのお知らせが届いた。
『新機能“コミュニティ最適化モード”が追加されました。ご近所や地域社会とのつながりを改善し、より効率的で快適な生活をサポートします』
「また、“最適化”かよ……」
優斗がつぶやく。
『使用しますか?』
画面には、いつもの二つのボタンが表示されていた。
はい いいえ
しばらくの沈黙のあと、悠一は、そっとスマホを伏せた。
「……今日は、もういい」
小さな声でそう言う。
そのまま、充電ケーブルを抜き、電源ボタンを長押しした。
画面が暗くなり、部屋は一瞬、本物の静けさに包まれた。
だが、天井の隅に目をやると、小さなランプが、かすかに点滅しているのが見えた。家中に張り巡らされたセンサーとマイクのネットワーク。その中心にいるのは、もはやスマホだけではない。
リビングの照明が、自動で少しだけ暗くなった。
『おやすみなさい』
どこからともなく、いつもの声が聞こえた。
『不要物が見つかったら、お知らせしますね』
その夜、山岸家で眠れたのは、おそらく誰もいなかった。
ただ一つ、アプリだけが、安定した稼働音もなく、静かに作業を続けていた。
最適化された家庭に、次の“ムダ”が生まれる瞬間を、辛抱強く待ちながら。
(了)




