4 お茶会にて
ローガンはなにも話さなかったし、デイジーもなにも聞けなかった。
否、それはただ聞けなかっただけに過ぎないのだが、二人は普段通りを装っていた。
だが、あの夜会から三日後。遂にその均衡は崩れることとなる。
「急に押しかけてごめんなさい。――だけどどうしても、番である貴方に会いたかったんです……!」
よく晴れた暖かいお茶会日和の日に、桃色の髪を持つ彼女は現れた。
◇◇◇
門の前で、彼女は高らかに話す。
「あの、手紙読んでくれましたか!」
「読んでいない」
デイジーと共に庭を散策していたローガンは、間髪入れずそう返した。
目つきは鋭いが、瞳の奥には熱が燻っていてツキンと胸が痛む。
今日は暖かい筈なのに、デイジーは体が冷えていく心地がする。剥き出しの腕を、そっと抱きしめた。
「あ、では改めて挨拶させてください。私はユハナ男爵家のアイヴィです。それで、えっと、貴方の番で……」
デイジーは彼女の挨拶を聞いた途端胸に沸いた歓喜を嫌悪した。
彼女が男爵家だから、向こうからの圧力で無理やり婚約解消されることはない、と一瞬で考えてしまったのだ。
ローガンがアイヴィと一緒になることを望んだら、なんの意味もないのにねと自嘲する。
「すまないが、私には婚約者がいるんだ。だから番と言えど、君とは結婚出来ない」
「……そんなっ」
悲痛な声に、デイジーは泣きそうになった。
――私と、婚約を結んでいなければ……。そうしたら全部、丸く収まったのに。
「あの、立ち話もあれですし、お茶でも飲みませんか?」
ヘラリと笑えば、ローガン様がぐっとなにかを耐える顔をしてから、ゆっくりと息を吐く。
「……私は執務に戻る」
失敗した。
駄目。失敗した。
やり直したい。失敗をなかったことにしたい。
目の前が暗くなる。
今にも体が崩れ落ちそうだった。
「……はい、分かりました。アイヴィ様、行きましょう」
「は、はい!」
どうして、ローガンの番は自分ではないのだろう。
ただのデイジーには、ローガンを引き留めるに足る理由すら存在しない。
ガーデンテーブルで、デイジーとアイヴィは向かい合って座る。
彼女が顔を華やかせてお菓子を眺めていたから勧めれば、アイヴィは瞳を輝かせ食べ始めた。
大ぶりなフリルがあしらわれた藍色のドレスは、ローガンを意識したのだろうか。そんなことをぼんやり考えた。
デイジーの心中など知らないアイヴィは美味しそうに頬張っている。
「このクッキー、とっても美味しいです」
憎き相手だろうと、褒められれば嬉しい。
「分かります。凄く美味しいですよね。私も侯爵家のご飯、大好きです。あとそれは、なにか付けた方が――」
いけない、ついニコニコしてしまった。
デイジーは言いかけていた言葉を止め気を引き締めた。仲良くなりたい訳ではないのだ。
「あの、アイヴィ様。どうしてもローガン様を諦めることは、出来ませんか」
「――嫌です」
拒否された瞬間せり上がった言葉は、喉元で止められた。出なくて良かったと、心底思う。
「……なんでですか」
「私たちが、番だからです」
揺蕩う紅茶の水面には、冴えない表情のデイジーが映っている。
気が高ぶらないようカップの縁をなぞる。
「私とローガン様は、婚約者です」
「……っ、でも」
「ではあの人の、どこが好きなのですか?」
目に見えてアイヴィは言葉に詰まった。
「私は、沢山知っています。――貴方がローガン様に選ばれたら、すぐに知れるようなことかもしれないけど、それでも今知っているのは私だけなんです」
なんて、悍ましくて気持ちの悪い、嫌な人間なのだろう。吐き気が込み上げる。
もう自分の顔を見ていられなくて、ティースプーンでカチャカチャと紅茶をかき混ぜた。
ただ好きなだけなのに。
どうして醜くなっていくのだろう。ずっとずっと、美しくあれれば良いのに。
「……ごめんなさい。今日はここら辺でお暇させていただきますね」
顔を上げた時、彼女はもうこちらを向いていなかった。
揺れる桃色の髪が遠のいていく。
紅茶を一口飲んだ。砂糖を入れた筈なのに、全然甘くなかった。
◇◇◇
どのくらい、デイジーはその場に留まっていたのだろう。
気がついたのは、雨が彼女の鼻先を打った時だった。
「デイジー様。お部屋に戻りましょう」
メイドの、不憫そうなモノを見る視線が居た堪れない。
デイジーは書庫に寄る、と言って一人になった。
大理石で出来た廊下に、靴音だけが響く。
歩いていれば、執務室が見えた。無視して行こうとしてから、ふと足を止める。
「謝った方が、良いわよね……」
――謝るとは、なにに?
誰かがデイジーの耳元で囁いた気がした。
なにに謝るのでしょうね、そうデイジーは空を仰ぐ。
勇気を出して扉を叩いた。
「失礼します、デイジーです。……っひ」
小さく悲鳴を上げてしまい、羞恥に顔が赤くなる。
だが扉を開けてすぐ目の前に人が立っていれば、誰だって驚くだろう。
ローガンは真顔で、デイジーを見下ろしていた。
「あ、あの」
声を掛けようとすれば、それより速く抱きすくめられる。
鼻腔を、彼の甘くて爽やかな香りがくすぐった。
「――彼女と目が合った瞬間、世界が変わるとはこういうことかと思った。全てが吹き付けた花弁で埋め尽くされるような、不思議な感覚だった。……初めて、父の言葉を理解出来てしまったんだ」
「……い、や」
絞り出せたのは、意味を持たない言葉。
「恐ろし、かった。全てが塗り替えられていくんだ。私の心とは、関係なく」
一層強く抱きしめられた。
「こんなにも、君を――デイジーを愛しているのに」
肩が濡れる。ローガンは泣いていた。
「ごめん、なさい……っ」
デイジーの口から謝罪が溢れる。
「私は、ローガン様の愛を疑いました。ごめんなさい、貴方はこんなにも、ただの私を、愛してくれていたのに――」
ローガンの背に手を添え、『特別』じゃないただの二人は、夜の帳が下りるまで泣き続けた。
涙が枯れ、止まった所で二人は向かい合って座っていた。
大号泣したことによる羞恥は二人に直撃し、無言が流れる。
「――デイジー」
「は、はい。なんでしょう……」
目元が赤い彼に、デイジーまで熱がぶり返しながらも、顔を引き締める。
「彼女なのだが、なにかおかしくなかったか……?」
「おかしかった、ですか?」
彼女とはアイヴィのことだろう。
「今日見た時、違和感を憶えた気がしたんだ。だがすぐに離れた為に、それがなにか分からない」
首を捻る。
アイヴィのおかしかった所。正直デイジーもよくは見ていないので、分からない。
「なんでも良いんだ」
「……アイヴィ様は、スコーンを美味しそうに食べていました」
――あれ、でも。
「アイヴィ様、『スコーン』を『クッキー』と呼んでいました」
「それだけなら、間違えて言っただけかもしれないな……」
「いいえ。アイヴィ様はスコーンを知らないようでした」
彼女はジャムもなにも付けずに食べていた。
「スコーンを知らない、というよりも初めてクッキーを食べたような……」
ローガンが、なにかに思い至ったのかゆるりと頷いた。
「そうか、彼女の格好があまりにも仰々しかったことに、私は違和感を抱いていたのか」
今日は晴れた、暖かい日だ。
けれどアイヴィは、冬の渦中にいるようなドレスを着ていた。
――なにかを覆い隠すように。
翌日も、アイヴィは現れた。
彼女は濃い緑色のドレスに身を包んでいる。
――ローガンの色に合わせたから、藍色のドレスを着ている訳ではなかった。
では、何故その色だったのか。
「あれ? デイジー様お一人ですか?」
「ええ、ローガン様は自分が見るのは憚られるからと、後からいらっしゃいます」
「見るのは、憚られる……?」
意味がわからないと首を傾けるアイヴィに、デイジーがつかつかと歩み寄る。
驚き目を瞠るアイヴィの手を掴み、袖を捲った。
「……あ、これはっ」
腕には無数の痣や鞭で叩いたような傷跡がある。
――彼女は虐待を受けていた。
◇◇◇
メイドに応急処置をさせてから、締め付けの緩いドレスに着替えさせたアイヴィは、顔を俯かせ紅茶を飲んでいる。
「アイヴィ様。私と同じもので恐縮ですが、苦しかったりはしませんか?」
「全然、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
ローガンも眉を下げアイヴィを見ている。
「――貴女の家を、勝手だが探らせてもらった。貴女のご両親は十年前に亡くなっていて、今は親戚が執務を行っているのか」
「……そうです。お母様とお父様が馬車の事故で亡くなって、息をつく間もなく親戚の方々が押し寄せて来たんです」
そして、家を継ぐ筈のアイヴィを虐げ、自分たちが享楽にふけっていたという訳だ。
「夜会の後、怒鳴られた時についポロッと『番を見つけた』と言ってしまったんです。相手が侯爵家と分かったお義母様たちに、婚約を結びに行くよう言われました。――本当に、ごめんなさい」
デイジーは唇を噛み締めた。
アイヴィと自分が、ピタリと重なった気がして心が痛くなる。
「ローガン様」
「ああ、分かっている。――貴女の親戚は、今頃捕縛されていることだろう」
「えっ」
ローガンが手を叩く。
それを合図に扉が開き、入ってきた人物にアイヴィは目を見開いた。
「ジョセフ、様……」
「私が呼んだんだ。彼も、言いたいことがあったようだからな」
狼狽えるアイヴィの前で、ジョセフが勢いよく頭を下げた。
「本当にごめん、アイヴィ。君の両親が事故にあったと聞いた時に君に求婚の手紙を送って、そして君に盛大に振られてから僕は留学して……アイヴィを信じず、君を一人にした。――本当に、すまなかった」
見開いたアイヴィの瞳から、ポロリと涙が零れ落ちた。
「――貴方が、好きです。信じて、くれますか?」
「ああ」
アイヴィがキツく眉を寄せた。
「ジョセフ様と結婚したかったけど、お義母様たちに振るように命じられた、と言ったら、信じてくれますか?」
「うん、信じるよ。すまない、僕が愚かだった」
ジョセフがアイヴィに手を差し伸べた。
「もう一度、言うよ。僕と結婚してください、アイヴィ」
「……その前に、もう一度だけ良いですか?」
「うん。何個でも良いよ」
彼女の瞳から、止め処なく涙が零れ落ちる。
「私、番に出会いました。番に、思いを寄せました。――それでも、貴方が頭から離れなかったんです。信じて、くれますか?」
「勿論だ」
アイヴィの顔に、今日初めて笑顔が乗る。
「私も、ジョセフ様が好きです。どうか私を、ジョセフ様のお嫁さんにしてください」
――『ねえ、アイヴィのこと、およめさんにしてくれる?』
「幸せにする。この世の誰よりも」
二人はキツく抱きしめ合う。
少し経って落ち着いたのか、アイヴィがデイジーに向き合った。
「デイジー様。謝って済むことではありませんが、ご迷惑をかけて本当にごめんなさい」
「はい、許します」
デイジーがきっぱりはっきり答えれば、アイヴィがギョッとした。
「え、そんなすぐ……」
「許しますよ。だから、だからね」
アイヴィの耳元に口を寄せ、デイジーは微笑んだ。
「お互い、頑張りましょうね。好きな人は番じゃないから、きっと苦労することもありますけど」
「はい……っ」
ジョセフにエスコートされながら、アイヴィが去っていく。
それを見送った二人は、どちらかともなく見つめ合った。
「――デイジー」
先に口を開いたのはローガンだ。
「心配をかけて、すまなかった」
「……私、とっても怖かったです。だって私には、貴方を引き留められるモノはなにもありませんから」
「……うん」
儚く笑うデイジーの手を、壊れ物を扱うようにローガンが握る。
「――結婚して欲しい、デイジー」
「けっ……結婚ですか!? 急になんですか!」
朱に染まった彼女の顔を、男は目を細め見つめる。
「私は、ズルい男だ」
「はい……?」
「君はきっと、これから色んな人に出会うだろう。番が現れるかもしれないし、君に横恋慕する男が現れるかもしれない。……その時に、君を引き留めるのに足る理由が欲しくなった」
跪いたローガンが、ひたとデイジーを捉える。
「私と結婚して欲しい、デイジー。誰よりも特別な君と、一生を歩みたい」
デイジーがきゅうと顔を歪めた。
肩は震えている。
「私は、全然特別ではありません。ローガン様が、私を特別にしてくれたんです。そんな貴方が、大好きです。不束者ですが、よろしくお願いします」
ウエディングドレス姿のデイジー。
そんな彼女と共にバージンロードを歩むヒューゴがボロボロ涙を流し、デイジーとローガンが顔を見合わせ笑い合うのは、そんなに遠い未来ではない。
終わり
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