Chapter5 【決着】 5-3
真優の足が、重くのしかかるようにステージへと向かう。
観客たちは息を呑み、誰一人として声を上げられない。
ステージの上に立つ黎は、邪悪な笑みを浮かべながら真優を見下ろしていた。
「ほら、頑張れ。もう少しだ」
黎の低く響く声が、真優の耳に突き刺さる。
それでも、真優は足を止めなかった。
雷人や凜の必死の制止の声も、今は後ろで遠く聞こえるだけだった。
ステージへと続く階段を一歩ずつ上るたびに、心臓が張り裂けそうになる。
それでも、真優は黎のもとへと歩みを進めた。
「真優ちゃん!!」
捕らわれた迅が必死に叫んだ。
その声はかすかに震え、苦しさが滲んでいた。
「来るな! こいつの言うことを聞いちゃダメだ!!」
だが、もう目の前には黎がいた。
「迅さんを解放して……」
真優の声は震えていたが、それでもしっかりと黎を見据えた。
黎はククク……と喉を鳴らし、嘲笑うように微笑んだ。
「いいだろう。解放してやるよ」
その言葉に、真優は少しだけ希望を感じた。
けれど、次の瞬間――
シュッ!
何かが斬り裂かれる音が響いた。
真優は目の前で起こったことを理解できなかった。
黎の手が動いた瞬間、赤い軌跡が残る。
スッという鋭い音がしたかと思うと、次の瞬間には迅さんの喉から鮮血が噴き出していた。
「――っ!!!」
目の前の光景が信じられなかった。
迅さんは目を見開き、喉を押さえながらその場に膝をついた。
かすれた声を絞り出そうとするが、血が溢れるばかりで、もう声が出せない。
「じ……迅さん……?」
真優の声が震えた。
何かの間違いだと願った。
だが、黎の嘲笑が、その願いを容赦なく打ち砕く。
「解放すると言ったが、その前に傷をつけないとは言っていないだろ?」
黎は心の底から楽しそうに笑っていた。
その瞳には、迅を苦しめることへの快楽が見えた。
「歌手にとって喉は命そのもの。声を奪われたお前は、もう二度と歌うことはできない!!」
――二度と、歌えない?
真優の頭が真っ白になった。
あんなに楽しそうに歌っていた迅さん。
美玲ちゃんの憧れのお兄さんであり、多くのファンに希望を与えてきた迅さん。
彼の歌声が――もう二度と聞けない?
「そ、んな……」
ガクン、と膝が震えた。
崩れ落ちそうになる。
黎はもう迅さんには用がないというように、興味を失い、まるでゴミのように彼を放り投げた。
「迅!!」
瑠華、修生、楓花、そして美玲がすぐに駆け寄る。
美玲は泣きながら迅を抱きしめ、必死に呼びかける。
「お兄ちゃん!! しっかりして!! お兄ちゃん!!!」
修生は震える手で応急処置をしようとするが、喉の傷は深い。
瑠華も楓花も涙をこらえながら迅の周りを囲む。
「迅、ダメ……喋らないで……! 傷が……!!」
瑠華の声も震えていた。
迅は唇を動かそうとするが、声にならない。
彼の目からも涙が流れ落ちていた。
それを見た瞬間――
真優の中で、何かが 弾けた。
怒りだったのか。
悲しみだったのか。
それとも、ただ黎への憎しみだったのか。
「……なんで……なんでこんなことを……!!」
涙が頬を伝う。
黎はそんな真優を見て、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「お前に教えてやろう、鈴本真優。
これが【絶望】というものだ」
真優は拳を握りしめた。
悔しくて、悔しくて――涙が止まらなかった。
恐怖を押し殺し、震える足を必死に動かし、黎のもとへ来た。
迅さんを助けるために。
迅さんが捕まったのは自分のせいだと、そう思ったから。
だからこそ、自分が行かなければいけなかった。
――それなのに。
結局、迅さんは助けられなかった。
喉を切られ、血に染まる彼の姿。
歌手として、何よりも大切な声を奪われた彼の絶望に満ちた表情。
それを見て、真優の心は音を立てて崩れ落ちていく。
「なんで……なんでこんな……」
震える唇から、かすれた声が漏れる。
何もできなかった。
何も守れなかった。
迅さんがどれほど音楽を愛していたか、美玲ちゃんがどれほどお兄さんを誇りに思っていたか。
それを知っていながら、何もできなかった。
「私が……私が来たのに……」
勇気を振り絞ったのに。
必死に恐怖を乗り越えたのに。
全部、無駄だった。
黎の楽しげな笑みが、その事実を冷酷に突きつける。
「これが、絶望だ」
――ポキン。
心が折れる音がした。
足に力が入らない。
立っているのに、まるで自分がここにいないような感覚。
視界がぐにゃりと歪む。
「や……だ……」
涙が零れる。
嗚咽が喉を詰まらせ、息ができない。
「やだ……やだ……」
こんなの、嫌だ。
認めたくない。
でも、目の前には覆しようのない現実がある。
黎が笑っている。
迅さんは地面に倒れたまま。
美玲の悲鳴が耳に突き刺さる。
雷人と凜の声が遠くに聞こえる。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
何もしたくない。
何も考えたくない。
もう全部、どうでもいい――
「――ああああああああああああ!!!!」
世界が弾けた。
真優の絶叫とともに、周囲に渦が生まれる。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、圧倒的な絶望のエネルギーが形を持ち、吹き荒れる。
ゴウウウウウウ――――!!!
黎がとっさに腕を上げ、渦の衝撃から身を守る。
雷人と凜が目を見開き、真優の名を叫んだ。
だが、その声ももう届かない。
渦が晴れた時――そこには、変わり果てた真優がいた。
白く小さな角が額に伸び、肩で荒い息をする。
その瞳には、理性の光がほとんど残っていない。
何かを言おうとするが、喉が詰まり、苦しげに喘ぐ。
言葉が出せない。
痛い。
苦しい。
寒い。
「…………っ」
涙だけが、ポロポロとこぼれ落ちる。
何も守れなかった。
もう、自分が自分である意味すら、分からなくなった。
雷人の体が反射的に動いた。
「真優!!」
渦が晴れるや否や、雷人はすぐにステージへと駆け上がる。
目の前の真優は変わり果て、苦しそうに息をしていた。
「大丈夫だ!俺が――」
だが、雷人が手を伸ばした刹那、
ドンッ!!!
「――ッ!!?」
雷人の身体が宙に浮いた。
次の瞬間、観客席の方へと吹き飛ばされる。
全身を鋭い衝撃が貫き、背中から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……」
痛みが走るが、雷人はすぐに体を起こす。
理解が追いつかなかった。
真優が――自分を吹き飛ばした。
信じられない。
いや、そんなことはどうでもいい。
真優が苦しんでいるのに、助けられないことのほうが、ずっと悔しかった。
「真優……!!」
ステージを見上げる。
真優は、ただ息を荒げながら立ち尽くしていた。
そんな光景を、黎は邪悪な笑を浮かべながら見下ろしていた。
「なるほどな……」
黎の目が細められる。
「絶望という感情に飲み込まれた結果、悪魔の力が暴走した……か。実に素晴らしい。だが――」
黎は肩をすくめ、まるで憐れむように真優を見た。
「...せっかくそんな【素晴らしい能力】を持っているのに、未だに扱い切れていないとは……もったいないな」
黎は、一歩、真優へと歩を進める。
「お前は、【器】ではなかったということだな。だが安心しろ――俺がお前を捕食してやることで、代わりに使ってやるよ」
真優へゆっくりと近寄る黎。
それを見た雷人の心に、焦燥が広がる。
「やめろ!!!」
雷人が叫んだ、その瞬間――
「……それ以上、真優に近づくな」
低く冷徹な声が響いた。
――鈴本凜。
黎の前に、迷いなく立ち塞がる影。
その瞳は鋭く、静かに怒りを宿していた。
「ほう……俺の邪魔をするのか」
黎が愉快そうに口元を歪めた刹那、
シュッ!
凜の手から、鋭いナイフが黎へと突き込まれた。
黎はそれを紙一重でかわしながら、ニヤリと笑う。
「いいだろう。邪魔をするなら――まずはお前を消すまでだ」
その瞬間、凜と黎の激しい戦闘が始まった。
妹を守るために。
黎を近づけさせないために。
凜は、決して譲らなかった。




