竜の狂気。その笑顔は……無邪気で、邪悪で。
「……………は?」
ミスティは真面目な顔で告げられた言葉に間抜けな返事を返す。
あんなにいかにも〝分かっています〟という雰囲気を醸し出しながら出された言葉が、「分かりません」だった。
──馬鹿にしているのかと、軽く殺意が湧く。
反射的に〝この男を殺すこと〟を考えた。だが結局、マキナの方が強いから簡単に反撃されて終わると判断し、舌打ちをしながら止まる。
けれど、本心が顔に出ていたらしい。忌々しそうに顔を歪めるミスティを見て、彼は呆れたように肩を竦めた。
「そんなにイライラしないで下さいよ。竜の力に目覚めたばかりで精神状態が不安定でしょうから、そう易々とは冷静になれないでしょうけど」
「……………貴方の態度にも、一因があると思うわ」
「それは否定しません。が、生憎とこういう性分ですので。ご理解いただけると幸いですね」
マキナは慇懃に答える。その言葉に偽りはないらしい。
ミスティは再度舌打ちを零して、彼から目を逸らした。
(それにしても……内気だった私がこんなにも簡単に殺意を抱くなんて。驚かずにはいられないわね)
ミスティは内気だった。事勿れ主義だったと言っても過言ではない。
自分はそれほど価値がない人間だと、いつも卑屈でいたから。どうせ反抗したって余計に状況が悪くなるだけだったから。
だから、例え馬鹿にされようと。教育と称して叩かれようと。ミスティはそれを受け入れて、上手くできない自分が悪いのだと思い込んでいた。
でも、今は違う。今のミスティは、自分は何も悪くないと思える。全て、他の奴らが悪いのだと言える。
例え、自分が悪かったとしても。私に悪いことをさせる周りが悪いと、傲慢にも責任を転嫁させるほどに強気になっていた。
ミスティがこんなにも攻撃的な性格に変わったのは、確かに邪竜の力に目覚めたからなのだろう。
竜というのは、何かしら壊れた部分を持つ存在。
破滅を司る邪竜は、その壊れ具合が顕著だ。
唯一や目的のためならば、他の命すらも軽んじる。
破滅を愛する。
復讐を心の底から望んでいる。
そんな狂気が、ミスティにも芽生えていて。
自分の命を無残にも奪った奴らへの憎悪が今も増え続けていて。
彼女の全てが……今にも暴れ出しそうなほどに不安定だった。
だが……ミスティよりも長く生きており、そんな不安定な子竜の状況を分かりながらも……マキナは、余裕を持った笑みを浮かべる。
そして彼は慇懃無礼な態度を隠さずに、ミスティを煽るようなことを口にした。
「だとしても……邪竜として目覚めたとはいえ、この程度とは」
「…………………何が、言いたいの」
「おっと、失礼。お気に障りましたか?ですが、仕方ないとは思いませんか?こうも竜の力に振り回され、制御も覚束ないとは……所詮、〝元人間〟ですね?」
クスクスと楽しげに、馬鹿にするように嘲笑うマキナ。
攻撃的な性格に変化し、なおかつ精神状況も不安定になっているミスティは、その態度に容易く……。
────ブチ切れた。
隠さぬ、こちらを馬鹿にしたような態度。
見下した嘲笑。
その全てが腹ただしく、怒りを覚える。
ただでさえ邪竜の力で不安定になっている状況での、マキナの態度は……ミスティの精神を、大いに逆撫でた。
前のミスティならサラッと流せていたであろう態度でさえ、今の彼女には許せなかった。許せるはずが、なかった。
「決めた。貴方のこと、殺すわ」
ミスティの瞳から光が消えて、その皮膚に黒い鱗が生え始める。
その瞬間──怒りに身を任せて手綱を手放ししまった邪竜の力は、ミスティの元々無いに等しかった制御下から完全に離れる。
正確には、〝暴走状態〟に陥る。
「ア、ア、ぁぁぁぁぁァァァァァア、aaaaa……!!』
ミスティの精神が、意識が暗く黒く染まっていく。
ただ、破滅を。
ただ、全ての破壊を。
それだけしか考えられなくなり………。
彼女から放たれる闇はこの部屋を。空間すらもギシギシと軋ませ……マキナさえも屈服させようとし──。
「これを待ってましたよ、ミスティ嬢」
──たのだが。
『…………!?!?』
どういう訳なのか──……。
ミスティはマキナに、思いっきりキスをされていた。
『っっ!!』
同時に流れ込むのは、熱い熱い〝何か〟。
それはとろりと暖かくて、甘ったるくて。
ミスティの身体を、ジワリと熱くする。
ミスティの意識を、ハッキリとさせる。
「…………んっ……ぁ……!?」
混濁しかけていた意識が、急速に覚醒する。
ある意味、目が覚めたらキスされていた状態のミスティは……この口づけの意味を理解できず、困惑する。
なのに、酷く安心する感覚。
至近距離で交わる金の瞳は……マキナの瞳は、とても優しくて。
微かに離れた唇が触れ合ったまま、彼は「まだ駄目です」と呟き、もう一度唇を重ねてくる。
数秒にも数十分にも、数時間にも感じる時間。
やっと口づけが終わった頃、ミスティはガクッと崩れ落ちる。
しかし、倒れきる前にマキナがしっかりと彼女の身体を支えた。
「うん、これで一安心ですね」
「貴方……一体、何を……」
「どうですか?力が暴れそうな感じは緩和されましたか?」
「………………」
言われてみれば……暴れそうだった力は安定しているし、制御ができてるとは言い難かった感覚も最初より遥かにマシになっている。ついでに頭もスッキリしている。
ミスティの中に残っていた〝何か〟が壊されたおかげで逆に調子が良くなったというか、噛み合っていなかった歯車がカチリッと嵌まった感覚というか……。或いは、冷静になったとも言えるかもしれない。
ミスティは「一体……?」と小さく呟いた。
「簡単に言えば、目覚めたのは邪竜の力だけだったってことです」
「…………邪竜の力だけ?」
「元々小さなコップにたくさんの水を入れたらどうなりますか?」
「…………それは……溢れるに決まってるでしょう?」
「それと同じなんですよ。元々が竜であれば、沢山の力があっても器が大きいから問題ない。けれど、人間は小さな器だ。君の小さな身体に邪竜の力は大き過ぎた。だから、力が暴走しかけて呑まれかけていた。僕がしたのは、唾液を介して君の器を大きくしただけです」
ただ、先祖返りとして力への適合力があっても、身体を適合させるのには時間がかかる。
それを無理やり早めるためには、ミスティ自身の力に他の竜が介入して適合させるのが早い。
ゆえに、邪竜の力を暴走状態(下手に制御下にあるより、暴走した状態の方が介入しやすい)にさせるためワザと腹が立つような態度を取っていたのだと、マキナは語る。
ミスティは先ほどの口づけにそんな意味があったのかと理解して納得し……だが、それでも眉間にシワを寄せずにいられなかった。
「…………別に、そんなことしなくても。というか、私の意思で力を放てばよかったんじゃないの?暴走に近い状態になったと思うけど」
「大きな力をいきなり自分の意思で使える訳ないじゃないですか。先ほどの暴走状態はミスティ嬢ではなく、邪竜ミスティとしての一面が大きく出ていたから出せたようなもんですよ?それに、性格が変わったのは君の記憶を見て分かってましたし、ちょっと煽れば暴走するのは目に見えてましたから」
「……………」
「まぁ……もし、僕が暴走させずにミスティ嬢をそのままにしたら。七割の確率で無事だったと思いますけどね?ただ三割ぐらいは、ミスティ嬢が内側からパーンッと破裂する可能性があったので……僕が暴走状態のミスティ嬢に介入するのが一番安全だったということです」
さっきとは打って変わった申し訳なさそうな態度から見るに、どうやらその言葉に偽りはないらしい。
つまり、本当に三割の確率でミスティは身体の内側から破裂する可能性があって……彼の行動はその悪い可能性を完全に排除するための行動。全て自分のためであったということだった。
本当は、感謝するべきなのだろう。なのに、素直に感謝する気分になれない……。
ミスティはなんとも言えない気分で、険しい視線をマキナに向けた。
「…………なんでそこまでしてくれるの?」
そう……結局、ミスティが一番強く思ったのは、それだった。
彼は邪竜を主人としていると言った。
そして、自分がその邪竜の子孫だと。
しかし、先ほどの話を聞いている限り……邪竜ラグナは自分の花嫁以外に興味がない。
それどころかマキナ達が使われたのもその花嫁の復讐のためだ。
つまり、今回の……ミスティのために、この男が動いている理由が分からない。
何が目的で……。
「…………まぁ、隠すことじゃないんで言いますけど。僕を利用してもらうためですね」
「………………………は?」
だが、簡単に明かされた目的は……彼女の予想を上回るモノだった。
ミスティはドン引き気味で、頬を引き攣らせる。
彼女の反応も最もだろう。
普通の人間ならば、自分を利用してもらうなんて言うはずがない。
変態的な発言にしか聞こえない。
だが、マキナは幻竜だった。
人ならざる存在だった。
彼はクスクスと、クスクスと楽しげに笑う。
「知らないかもしれませんが……竜というのはどこかしら異常性があるものなんです。貴女だって、自分の中の〝何か〟が壊れてしまった気がしていませんか?」
背筋が凍りそうになるほどに、美しい笑み。
楽しそうに、獣じみた金の瞳が細められる。
「ラグナ様の場合は、壊れた花嫁様だけを愛する異常性をお待ちでした。だから、ラグナ様は自身の唯一を殺した青年達に、偽聖女に復讐をした。愛している花嫁のためだけに、他の者達を巻き込んで。国すらも巻き込んで。復讐を終えれば後は全てを放り投げて、花嫁との幸せな日々を箱庭で暮らしている。その息子のゼイス君も同じように……愛を乞う花嫁だけを愛し、周りの人間を利用し、花嫁を害した者達が死ぬように誘導しました。そして、ラグナ様もゼイス君も、自身の最愛は愛するが、子供すら愛さない異常性を持っていた。他にも……毒を産み出す竜は、異常なまでの支配欲を抱き、沢山の女達を奴隷のように支配していました。ね?今の話だけでも、竜ってのはどこかしら狂ってる存在だと分かるでしょう?」
ミスティは、この燃え滾るような憎悪が。
そうでありながらもどこか楽しみにしている復讐が。
マキナの言う竜の異常性なのでは、と理解する。
「僕の場合は、僕を利用してもらいたい。利用して、利用し尽くして、この身が朽ちるほどに。〝僕が認めた主人〟に尽くしたいんです」
「……………」
「きっと君は復讐に僕を沢山利用してくれるでしょう?沢山沢山沢山た〜くさん、利用し尽くしてくれるでしょう?ですからね?貴女が。ミスティ嬢が望むなら。僕をボロ布のように利用するだけ利用して、捨ててくれても良い」
ねっとりと張りつくような言葉。
マキナは、彼女の足元に跪いて……クスクスと笑う。
「貴女が情報を手に入れろと言えば、必ず手に入れましょう。殺して欲しい人がいるなら、僕が殺しましょう。貴女が地獄に堕ちるなら、僕も共に堕ちましょう。僕を貴女が使ってくれるなら、僕は貴女のためになんでもします。だから、ね?」
ミスティの足を取り、ゆっくりと指先にキスをする。
マキナは恍惚とした笑みを浮かべながら、乞うた。
「どうか僕だけのご主人様になって下さい、ミスティ嬢」
《迷霧の幻竜》マキナの異常性。
それは、〝狂気的なほどの忠誠心〟だった。
誰かに仕えたい。
誰かのためだけに尽くしたい。
誰かのために動きたい。
誰かのために利用されても良い。
例え、血反吐を吐くことになろうとも……その手が血に染まろうとも。
ただ自分だけの主人のためならば、なんだってできる。
今までは《破滅の邪竜》ラグナを主人と称してきたが、正確には違う。
ラグナが大切にしているのは、《邪竜の花嫁》だけ。
マキナの忠誠など必要としていない。
たまに利用されることはあれど、それは花嫁に関することだけ。
だから、マキナは自分だけの主人が。
愛しい愛しい主人が欲しかった。
この場に来たのは……もしかしたら、自分の主人になるような人が現れるかもしれないという、自己中心的な目的が理由に過ぎなかった。
そして、目の前にはどうにもならないような状況にいる哀れな子竜。
マキナはこの状況が、何が起きているのかが、彼女より分かっている。
だけど、ミスティは分かっていない。
だから、マキナは告げる。
自分の願望を────。
「僕だけの主人になって下さるなら、この狂った世界から貴女を救うお手伝いをしましょう。邪竜の力に目覚めた今なら、ミスティ嬢だけでもなんとかなるかもしれませんが……貴女の力は《終わり》に属するモノ。分かりやすく言うならば、滅ぼす力です。ですから……例え、全てを壊せたとしても。逆に壊すことで悪影響を出すことだってあるかもしれません。…………このタイムリープから、永遠に抜け出せなくなるとか」
マキナは微笑む。
ミスティが自分の主人になるのなら、彼は喜んでこの現状を変えてみせると、伝えながら。
ミスティは顔を歪めて、彼を睨みつけた。
「…………脅してるの?貴方の主人にならなければ、私はまた死ぬかもしれないと?」
「まさか!これは取引ですよ?それに僕を貴女のモノにすると良いことばかりです。貴女の復讐のお手伝いができる。より凄惨な地獄を、奴らに与えられる。僕は君より長生きですし、《破滅の邪竜》と共に復讐をしたことがあるから、経験豊富です。ラグナ様だって、駒を沢山用意して上手く利用して追い込んでいました。ミスティ嬢も駒は多い方がいいでしょう?」
現状、ミスティに駒がいないのは確かだ。
全てを壊すだけの力はある。
だが、所詮はいらない令嬢だった身だ。
足りないモノも沢山ある。
マキナが手駒になるということは、それを補うことができるということ。
全てを壊しても終わるか分からない。
また、始まってしまうかもしれない。
そうなると必要なのは、非現実に対応できる者。
確実に、全てを終わらせて。
復讐を成功させるための駒となる存在。
そんな存在に、マキナはなると言っているのだ。
「決して貴女の害にはなりません。ミスティ嬢に、この身を捧げます。ずっと、貴女のお側におります」
マキナの申し出は、ミスティにとってメリットしかない。
「ね?どうか、僕のご主人様に。どうか、僕を貴女の僕に」
蕩けるような笑みを浮かべるマキナ。
彼女はゆっくりと目を閉じて考えた。
この現状を打破するには、マキナの知識が必要かもしれない。
それに確かに……一人でできることには限界がある。
ミスティはまだ自分がどれほどの力を行使できるか把握してないのだ。
そうなると、竜として成熟している彼の力が必要になる。
いや、それ以前に……マキナは主人にならなければ、情報を与えないと言っているのだ。
元から、選択肢などなかったのだろう。
ミスティはゆっくりと目を開き、目の前に跪くマキナを見つめる。
そして、酷く冷たい笑みを浮かべた。
「分かったわ。元々、私には拒否権なんてないものね」
「………………」
クスクスクスクス、マキナは恍惚とした笑みを浮かべる。
拒否権がないと分かっていながら、彼は取引なんて言っていたのだ。
彼は、ミスティの復讐には足りないモノが多過ぎると分かっていたのだ。
僕なんて言っておきながら、操られているのはどちらなのか?
なんて、質が悪い。
なんて、邪悪。
ミスティはそう思いながら、彼の頬に爪を立てる。
「裏切ったら殺す」
「はい、裏切りません」
「いつも私の側にいなければ、許さない」
「いつでも貴女の側に」
「私を………」
そこで一度、言葉が途切れる。
そして……彼女は、泣きそうな顔で懇願した。
「私を、独りにしないで」
マキナは蕩けるような笑みを浮かべる。
なんて乱暴で、なんて可愛い命令なのかと。
マキナは分かっていた。
ミスティが自分を受け入れることを。
なんだかんだと建前を言っていたって。
手駒がないからなんて言い訳したって、ミスティの本音は最後の言葉だったのだ。
彼女がマキナを受け入れる本当の理由は、自分を見捨てない誰かが欲しいという〝孤独心〟。
ミスティ本人も気づいてない、孤独。
産まれた時から父親にいらない存在とされて。
身体が弱い母親に優しくしてもらうこともなくて。
優しさも、愛情も、何も知らずに育った少女。
そんな彼女が温もりに憧れるのは仕方ない話だった。
だから、婚約者となった王太子の裏切りは彼女のその孤独を癒しかけたから……その憎悪も深いのだ。
裏切られたから、心が血の涙を流して。
殺されたから、復讐するのだ。
もしかしたら……自分だけの主人ができるかもしれないと、微かな希望を抱いて人の世に来たマキナ。
本当にその願いが叶うとは思っていなかったから、彼はとても嬉しくて仕方なかった。
でも、素直に受け入れられないだろう彼女には……こう取引するのは仕方なかったから。
こうしないと、簡単に、マキナの自己犠牲を受け入れてもらえなかっただろうから。
だから、全てが上手くいったと……マキナは笑う。
その笑顔は、無邪気で。邪悪で。
「勿論です、我が主人」
壊れた竜らしい、表情だった。