怨み、募らせて。死霊は穢れ堕ちる。
タイラー・セイブは最近、悪寒に悩まされていた。
誰かの視線。
ねっとりと、張りつくような悪意。
しかし、護衛対象のカロリーナに向けてのものではない。
タイラーに向けてのものだ。
(…………まぁ、モテる男の定めかな)
その時の彼は気づいていなかった。
これが、徐々に彼を脅かすことになると──。
最初は目の錯覚だと思っていた。
しかし、ここ最近、変なものが見えている。
とある未亡人の屋敷。
いつものように閨を共にしようと、彼女の部屋にやってきたタイラーは、ドレッサーの前で髪を梳かす彼女の首筋にキスをした。
「うふふっ、くすぐったいわ。タイラー」
「ごめんよ。余りにも貴女の首筋が美しいから」
クスクスと笑いながら、鏡越しに視線を合わせる。
しかし……。
「っっっ!?」
タイラーは顔面蒼白になりながら背後を振り返る。
だが、そこには何もいない。誰もいない。
じっとりと汗ばむ肌。冷たくなる背筋。
未亡人は、怪訝な顔をしながらタイラーの方を見た。
「どうしたの?」
「……………いや……なんでもない」
タイラーはなんとか平然を装いつつ、心の中で叫ぶ。
(今のは……今のは!?)
青白い燐光を放っていたが、間違えるはずがない。
一瞬だけしか見えなかったが、タイラーはその存在を確信して息を飲む。
(…………………っ……!)
「……もぅ、どうしたの?様子が変よ?」
ふわり、と頬に触れる彼女の指先。
タイラーは慌てて、未亡人を強く抱き締める。
鏡越しに確認しても、その姿はない。
タイラーは彼女の温もりに安堵し、息を吐いた。
「少し、嫌なものを見た気がしてね……慰めてくれるかい?」
「あらあら……竜姫候補を護衛する騎士様が嫌がるものって何かしら?」
「……秘密。でも、恐がるオレを、君はその肌の温もりで……癒してくれるだろう?」
「うふふふっ、仕方ない人。さぁ、いらっしゃい」
未亡人が大きく手を広げると同時にタイラーは彼女をより強く抱き締め、お姫様抱っこをして……ベッドへと連れて行く。
そして、今見たものを記憶から消すために……深く深く睦みあった。
◇◇◇◇◇
(あぁ……あぁ、あぁあぁぁぁぁあっ!)
ターニャは怒りに我を忘れそうだった。
なんて自分は愚かだったのだろうか。
なんて自分は馬鹿だったんだろうか。
恋に溺れて、盲目になって。
彼の本性を知らなかった。
知ろうともしなかった。
あの優しい声も、優しい手も。
全部、全部、自分と同じで。
それが余計に、自分がその他大勢の女の中の一人と同じなのだと……実感させる。
(許さないっ……許さない!)
尽くしていたのに。
全てを捧げていたのに。
裏切られたと知って死を選ぶほどに愛していたのに。
(逆恨み?なんとでも言えばいい……わたしは、こいつを許せない!)
ターニャの魂が怒り、嫉妬、憎しみに染まり……邪霊になっていく。
死を選ぶほどに純粋だったターニャ。
純粋ゆえに転じるのも簡単で。
純粋がゆえに穢れた時の力は莫大だった。
(許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない)
その憎悪は、ターニャの思考を黒く染める。
それから……彼女は、更にタイラーを精神的に追い詰めていく。
◇◇◇◇◇
「あぁ……あの子、堕ちたわ」
ドラグーン家の屋敷。
ミスティは自室で、自分のベッドに寝転がり就寝しようとした時にそう呟いた。
ベッドの縁に座ったマキナは、にっこりと黒い笑みを浮かべる。
「あぁ、予想より早かったですね?一週間ぐらいですか?」
「…………あら……?マキナが《精神干渉》をしたの、忘れたの?」
マキナは《精神干渉・増悪増強》をターニャにかけていた。
ミスティはそれがあるから、早いのではと思ったが……彼はふるふると首を振った。
「忘れてませんよ?でも、洗脳ほど強くはありませんから……結局は、あの護衛騎士の素行を見て、自分の愚かさを実感したんじゃないんですか?」
「あぁ……なるほどね。それはありそうだわ」
《精神干渉》は洗脳魔法ほどの強さはない。
本来の《精神干渉》という魔法は、精神状況を傾ける程度の効果しかない。
加えて、洗脳魔法は解除されてしまうが……《精神干渉》は解除されることがないし、洗脳魔法のように鑑定魔法などで判別することもない。
だが、洗脳魔法の方が使われることが多いのは、《精神干渉》の作用が低いからだろう。
しかし、マキナにとっては、話が別だ。
それはそうだろう。
幻覚・精神系魔法を使う魔法使いと、竜はその根底が違う。
幻を司るがゆえ、幻竜の特性ゆえに通常よりも強く発動する。
ゆえに、洗脳魔法ほどの強制力はなかろうと、脅迫概念に近い効力がある。
だから、マキナは洗脳よりも《精神干渉》を使用していた。
「うふふっ、楽しみね?護衛騎士はどう壊れてくれるのかしら?」
ミスティはクスクスクスクス、壊れたように笑いながら手を宙に伸ばす。
美しくも、歪んだ笑みを。
狂ったように笑い続ける。
「取り敢えず、彼が苦しんでいるかを確認するために明日は学園に行きましょうか。勿論、僕もついていきますよ」
「えぇ」
この一週間、ミスティは部屋に閉じこもっていた。
学園には連絡していない。
だが、きっと……学園から連絡がきていて、ドラグーン公爵が勝手に言い訳をしてくれているだろう。
…………………ミスティに悪い方向の言い訳を。
ただでさえ学園を長期間休むというのは、真面目に勉学に励んでいないとされて、外聞が悪い。
それに加えて、ドラグーン公爵はミスティを悉く貶さないと気が済まない質だ。
今頃、ただでさえ最底辺だったミスティの評判は……更に悪くなっているだろう。
しかし、ミスティはそんな些細なことを気にしていなかった。
気にする必要がなかった。
表向きではまだ婚約者だが、もうミスティは王太子の婚約者ではない。
だから、他人の目を気にする必要もない。
他人の悪意を気にする必要がない。
「ねぇ、マキナ」
「はい」
「私、あの五人だけじゃなくて学園の奴らにも復讐してやりたいわ」
貴族の社会というのは、情報が重要だ。
一つ情報が溢れれば、直ぐに広がる。
ゆえに、ミスティがドラグーン公爵家で疎まれていることも社交界では有名な話で。
それに乗っかってミスティを馬鹿にする令嬢達も少なくなかった。
「だって、アイツらも私に悪意を向けてたんだもの。王太子の婚約者に相応しくないって。あぁ、実技魔法学の訓練中にワザと魔法で焼かれそうになったことだってあったわ。皆、私の敵だった。私が殺される時、当然だって顔をしてた。酷いわよねぇ?だから、殺されてもしょうがないわよねぇ?」
「……………どうしたいんですか?」
「焼き殺してやりたい。惨殺してやりたい。腑を抉り出して、握り潰して、頭蓋骨を踏み潰して………」
ミスティは目を爛々とさせながら、思いつく限りの呪詛を紡ぐ。
マキナはそれを笑顔で聞きながら、優しく彼女の頭を撫でた。
「うーん……でも、死んだら直ぐに終わりですよ?」
「……………あぁ、そうだったわ……そう、だったわね……」
その瞬間、ミスティはつまらなそうな顔をして歯をギリッと噛み締めた。
そんな彼女を見て、マキナは考える。
どうすれば彼女の望み叶えられるかと……。
「あぁ、そうだ」
「……………何?」
「こういうのはいかがですか?」
マキナはミスティの耳元で思いついたコトを話す。
最初は怪訝な顔をしていたミスティも……最後には目を輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。
「うん、それが良い!とっても素敵だわ!」
「ご満悦頂けたようで」
「えぇ、えぇ!うふふふっ、とっても最高ね!マキナ!」
ミスティはクスクスと笑う。
だが、その笑みはとても美しいのに、背筋が凍りそうで。
マキナは優しく微笑みながら、彼女の頬を撫でた。
「では、今後の計画の進行調整のためにも明日の護衛騎士の観察は大事ですから。明日のために寝て下さい」
「えぇ、お休みなさい。マキナ」
「お休みなさい、ミスティお嬢様」
そのまま彼女は眠り始める。
ゆっくりと、寝息をたてて。
無垢な顔で、眠る。
マキナは……そんな彼女を頬をもう一度撫でて、簡易箱庭へと姿を消すのだった………。