第9話 黒き月の人狼②
戌井は、日和の靴に残ったにおいから犯人を特定した。が、その人物に至るまでの筋道は全くわかっていなかった。
雉真が言った。「土の中に埋まっていたのに、においなんて残るもんかね?」
「よく嗅いだらわかる」
「よく嗅いだ……だと!?」
雉真は人間の姿の戌井が彼女の靴を嗅ぎ回っているところを想像したのだろうが、戌井は白狼の姿でにおいを嗅いだのだ。獣の鼻で嗅いだのだから、指紋レベルで一致していると考えてもよい。
「におい分析をすればちょっとした証拠にはなったかもしれません。洗ってしまったのでもう分析できませんが……」
靴を見つけて帰った後はぼーっとしていてそこまでは考えていなかった。汚れたものがあるとつい洗いたくなる。まあいい。においではどうせ決定的な証拠にはならないし、今のところ罪状も『靴を隠した』だけだから、専門家の報告書など不要だ。人間の嗅覚による証言と効力としては変わるまい。
この一件にはもっと大きな裏があるような気がする、と戌井は考えていた。犯人は彼にとって意外な人物だった。なぜそいつが靴を隠したりするのか意味がわからず、自分の嗅いだにおいが記憶違いではないかと疑ったくらいだ。嗅覚において戌井が間違いを犯すことはありえないが、記憶についてはあまり自信がない。
「戌井の言う通り、あの人が犯人だとして動機はなんだろう?」
「『黒き月』……」
日和がぽつりと呟いた。ほとんど確信めいた表情をしている。
「お二人はご存知ですか? 『黒き月』の噂……」
「ああ、名前は聞いたことあるぜ。いじめとかで意図的に人の精神を追い詰めて、自殺を促進する活動をしているっていう。何だか陰謀論めいているけど」
日和はうなずいた。「人狼同士の互助組織は存在します。自殺スポットなどを回って、行方不明者の遺体を回収し食肉にする……そういう人狼の組織がいくつかあるんです」
戌井は組織に所属したことはないが、自殺者の遺体を主に喰う人狼がいることは知っている。殺人事件を起こすよりもずっと安全に肉が手に入るし、人狼の中にも直接手を下すことに抵抗を感じる者はけっこう多いのだ。
「そういう組織も性質が悪いものと、そうでないものに分かれていて、『黒き月』は良くない方ですね。しかも自死を待つのではなくて直接手を下している可能性があります。いじめを受けていたという事実があれば、失踪しても人狼の仕業だとは思われませんから」
「なるほど。靴を隠すなんて幼稚なことをするなあと思ったけど、日和さんを追い詰めるための工作活動か。なんでこの時期なんだって疑問も、入学早々なら友達もほぼいなくて孤立無援だし、新しい環境で精神的に不安定になりやすいからだと説明がつく。合理的すぎて怖っ」
「4年前にあったいじめによる失踪事件も『黒き月』の仕業かもしれません」
戌井が言った。「4年前と同じ奴なら、生徒ではなく先生の可能性が高い」
「ええ。となるとやっぱり戌井くんの言う通りあの人が……」
日和のおかげでようやく合点がいった。彼女が何もかも論理立ててくれた。やはり記憶違いではない。あとは犯人をどう捕まえるかだ。
戌井は言った。「犯人が『黒き月』の一員なら、そいつを捕まえることで他の会員の情報も得られる。そうだな?」
日和はなぜそんなことを聞くのかと小首を傾げながらも、「そうですね」とうなずいた。
となると犯人は生け捕りにしなければならない。殺すだけでよいなら一人でやるつもりだったが、それでは『黒き月』の壊滅に繋がらない。それどころか、有力な情報への糸口を遮断してしまうことになる。
しかしその方が簡単だ。戌井は自分の高校で事件が起きるのは気に喰わなかったが、他の『黒き月』のメンバーが別の場所で活動を続けようと知ったことではない。生け捕りにするのは難易度が高いし、警察や特殊部隊を頼るのは戌井にとってもリスクがある。なぜ自分がそこまで気を回さねばならないのか?
戌井ならそれができるからだ。やれるのにやらないというのは、どこか筋が通らない気がする。しっくりこない。少しでもそう感じた時点で、戌井にはやらないという選択肢はなくなる。
「人狼専門の特殊部隊を動かしたい」と、戌井は言った。
シルバーストーム部隊。略称ST。
シルバーストームとは、その昔、人狼には銀の弾丸が効くと言われたことから『銀の嵐のように人狼を一掃する』という意味で名付けられた。出どころは知らないが、人狼に銀の弾丸が殊更に効くというのは迷信だ。肉体を損傷すればどんな弾丸でも痛い。
「俺が犯人を挑発して獣化させてやる。その後はSTの出番だ」
「戌井くんはただの一般人です。そんなことさせられません」
「預言者が囮になるよりはいい。他に適任者もいない」
「犯人がわかっているなら、次の満月を待てばよいのでは? 占い先を変更します。占いで確定すれば、あとはSTが何とかしてくれますから」
戌井にとっても悪い話ではなかった。少なくとも次の次の満月まで余命が延びる。だが、彼は首を振った。
「犯人がいつ動き出すのかわからない。満月の夜まで大人しくしている保証はないだろ? その間に君を襲うかもしれない」
「短期間であれば臨時の護衛を付けられます。私が襲われる分には問題ありません」
「君の他にも獲物候補がいたとしたら?」
その可能性には気付かなかったらしく、日和は目を見開いた。
「確かに……発覚してないだけで、他にもいじめられている子はいるかも」
「それが満月の夜まであと数日続く。彼らのうちの誰かが襲われる可能性もある」
日和はうなずいた。「戌井くんの言う通りです。STに連絡してみます」
「ここで電話してくれ。何かあれば俺が代わりに話すから」
日和は電話をかけた。このカフェでは席と席がほどよく離れていて、よほど大声を出さなければ会話を聞かれる心配はない。それでも口元を手で隠しながら、いっそう声を潜めて、先ほど話した内容をSTに伝えている。
彼女は「はい」「すみません」「それはそうですけど……」「でも」とか言うたびにしかめっ面になっていく。日和はいったん電話を保留にしてから、首を横に振った。
「筋は通っていますが、根拠が弱すぎると言われました。占いの結果を待つようにと」
「代わってくれ」
「相手はSTの隊長さんです。大丈夫ですか?」
「問題ない」
「私、コードネームはサニーと言います。電話で呼ぶ時はそれでお願いします」
預言者は人前に出る時には、変装してコードネームを名乗っている。預言者サニー。それが公の名だ。
「わかった」
戌井は彼女のスマホを受け取り、通話を再開した。
「お電話代わりました。サニーの友達です」
「お遊びもほどほどにしなさい。余計なことはするんじゃない。事態を悪化させるだけだよ」
STの隊長は女性で、名は赤熊楓と言った。低音の力強いハスキーボイス。ニュースで活躍を見ていたが、敵には回したくない相手だ。
「今日の20時」と、戌井は言った。「結城高校から一番近い、二丁目公園に犯人を呼び出します。今から約束を取り付けに行くので日時が確定次第、改めて連絡させていただきます」
「あんた、何を言って――」
「準備を進めておいてください。あなた方が来なければ高校生が一人死にますので。それでは」
「ちょっ――」
戌井は相手の返事を待たずに電話を切った。
「お前、怖いものないの?」雉真が呆れ顔で言った。
「学校に戻ろう」戌井は立ち上がった。