第8話 黒き月の人狼①
満月の夜まで、あと11日。
「なあ、日和さんの靴、いつ渡すんだ?」雉真がささやき声で言った。
朝になってから、靴を見つけたというメッセージを雉真に送った。彼も気になっているだろうから早めにすっきりさせてやろうと思ったのだ。雉真が帰った後、グラウンドをもう一度探してみたら運良く見つかったということにしておいた。
「もう椅子の上に置いた」戌井は言った。
今朝は早めに学校へ来て、ローファーの入ったエコバッグを日和の椅子の上に置いておいた。ローファーは土塗れだったので手洗いしてある。
「それじゃあ、お前が見つけたってわからねえじゃん。俺、言いたくてうずうずしてるのに」
「付箋を入れてある。今日の放課後、駅前のカフェで会おうってな」
「さらっとそういうことするよな、お前。俺だったらだいぶ気合い入れねえとできねえぞ」
「お前も来い」
雉真は決まり悪そうに後頭部を撫でた。
「あー……お前と2人きりの方がいいんじゃねえか? 俺は何の役にも立ってねえし」
「そんなことはない」
戌井は昨日の出来事を綴ったスマホのメモ帳に目を落とした。
「靴がないことに気付いたのはお前だ。お前がいなければ俺は何も気付かなかった。それにあそこまで熱心に探すこともなかった」
「そ、そうか?」
「お前がいた方が日和さんも心強いだろう」
「そこまで言われちゃあ行くしかねえな。ほんとは用事があったんだけど……」
「いや、用事があるなら来なくていい」
「おぉい! そこはもっと粘ってくれたほうが嬉しいのに。まあ、1時間くらいなら問題ないぞ」
ちょうどその時、日和が教室に入ってくる。うつむいているので長い黒髪が顔にかかり表情が見えなかった。日和は椅子の上にあるエコバッグに気付くと、髪を耳にかけた。驚いている横顔が見える。彼女はエコバッグの中身をのぞいて、なぜか真っ先に戌井と雉真の方を見た。雉真が親指を立てる。彼女はエコバッグを両手でぎゅっと抱きしめると、ちょこっとお辞儀をして小走りで教室を出ていった。
戌井は英語の小テストのために英単語帳を睨みつけることにした。しばらくすると日和が教室に戻って来る。席に着いたタイミングでなんとはなしに日和の方を見る。彼女もこちらを見ていたようだ。ばっちり目が合ってしまった。
敵対関係にあるはずなのに、日和がはにかみながら微笑んでくる。
思いがけなく戌井はホッとした。雉真に思い詰めて自殺をするかもと聞いてから心配していたのだ。それでつい笑みを返してしまった。どういうわけか日和は頬を染めると、すぐに顔をうつむけてしまう。
☂
駅前のカフェ『リバーブ・リトリート』は天井が高く、古いレコードジャケットや楽器が壁を飾る落ち着いた空間だ。木目調の床と暖色系の照明が温かみを醸し出し、大きな窓からは柔らかな午後の光が差し込んでいる。友人同士で会話を楽しむ者が多いが、その声はバックに流れているピアノの音に紛れている。ピアノの音と人の声は周波数帯が似ているため、周囲の会話をマスキングする効果があるのだ。仕切りが付いているボックス席もあり、読書をしたり、勉強したりする人でも話し声を気にせず作業に没頭できる環境になっている。
日和は一番奥のボックス席に座っていた。戌井と雉真がやって来ると彼女は立ち上がって頭を下げる。
「お二人ともありがとうございます」
「いえいえ。いいですよお礼なんか。当然のことをしたまでです」
雉真は急に敬語を使い始めた。
「当たり前のことではありません。今日はお二人に奢らせてください。このお店、モバイルオーダーできますのでお好きなドリンクをお選びいただければ。フードも好きなだけどうぞ」
「そこまで気を遣わなくてけっこうですよ。一番辛いのは日和さんなんですから」
「なぜ敬語なんだ?」
戌井はたまらず突っ込んだ。
「だって、日和さんが敬語使うから合わせた方がいいかなって」
「私は尊敬するある方の真似をして、常に敬語を使うようにしているだけです。お二人は普通に喋っていいですよ」
「へえ。尊敬する人って誰だろう。フリーザ様かな?」
「奢らせてくれないのですか? ころしますよ」
「うわっっ」
「冗談ではありませんよ。今度こそ何かお礼をしないと私の気が済みません。……特に戌井くんには」
「今度こそって、どういうことだ? 受験当日の事件のこと?」
「ご存知なのですか?」
「特定されたんだ」戌井が言った。
「そうです。あの時のお礼もまだしていません。戌井くんにはいつも助けられてばかり。それなのに私…………」
日和は二つ折りにしたエコバッグを大切そうに胸の前で抱きしめた。
「あ、このバッグ、戌井くんのですよね。お返しします」
「どうも」
「さあ、さあ、戌井くん。紅茶かコーヒーか、どちらがお好きですか?」
日和が身を乗り出して自分のスマホを戌井の顔面に押し付けてくる。このカフェのアプリでメニューを選ぶと注文できるようだ。以前戌井がお礼のランチを断ったので、押しを強くすることにしたらしい。
「アイスティーで」
「なるほど紅茶がお好きなのですね」
「コーヒーも好きだ」
「それは興味深いですね。人狼には毒も薬も効かないのでカフェインを摂取しても効果はありませんが」
「香りが好きなんだ。あと俺は――」
人狼じゃない、と言おうとしたが雉真が先に反応した。
「ちょ、ちょっと待って? 人狼? 戌井が?」
日和はしまったと言いたげに口元に手を当てた。
「いえ、まだ確定はしていませんので」
「まだって。何か疑わしいところでもあったのか?」
「それは……」
あの日のことを詳細に語ろうとすれば日和が預言者であることが雉真にバレてしまう。戌井の経歴をつぶさに調べたり、DNA鑑定ができたのも、預言者としての捜査権を行使したおかげだ。
預言者は人狼に狙われやすい立場ゆえ、できる限り正体を隠さねばならない。日和はなんと説明しようか考え込んでしまっている。
「子供の頃、病気の影響で髪が白くなったと自己紹介で言っただろう?」戌井が言った。「病弱だったにしては運動神経が良すぎると言うんだ」
「それは俺も疑問に思ってたわ。だけど喘息持ちでもスポーツ選手になった人はいるし、全くありえない話ではないだろ。それより着替えの時に見たけど、お前の体傷だらけだったよな。手術痕じゃなくて明らかに命のやり取りをしたような傷だ。あとやたら喧嘩強いし。そっちのほうが気になるぜ」
「ハワイのストリートで鍛えられたからな」
「はあ? やっぱこいつ怪しいわ。預言者に占ってもらうか?」
「私が預言者です」
戌井は驚いた。せっかくフォローしてやったのに正体をバラしてしまうのか。
「戌井くんはまたそうやって私をさり気なく気遣って……」
「預言者の安全を守ろうとしただけだ。人間側だからな」
「戌井くんを人狼呼ばわりしておいて、私が何のリスクを負わないのは間違っています。雉真くんには真実を話します。第三者のご意見も伺いたいですし」
その前に日和はスマホの通知を見て、モバイルオーダーで注文したドリンクをカウンターまで取りに行った。3人ともアイスティーを頼んだ。日和は受験当日に起こったことを詳細に雉真に話した。
「というわけです。雉真くんはどう思いますか? 戌井くんのこと……」
「うーん……怪しすぎて逆に怪しくねえようにも見えるけどな。大体、人狼なら預言者だとわかった時点で見捨てるだろ。普通」
「それはもう言った」
「命がけで人狼から守ったのに、人狼だと疑うなんて。そりゃないぜ日和さん」
「うう……」
「でもそんなことが言えるのは、俺が人狼に襲われた経験がないからだよな。日和さんはたぶん一度や二度じゃないんだろ?」
「小学生の時、友達だと思っていた子が人狼でした。面白いものを見せるからって、人気のない場所に連れ込まれて襲われたんです。あんなに仲が良かったのに別人みたいで。私はその時……」
日和のコップを持つ手に力が入った。彼女は声を震わせて続ける。
「兄を失いました。また別の人狼事件では父が亡くなりました。2人とも人狼から私をかばって死んだんです」
雉真は沈黙した。予想を超えて深刻な話題にどう反応すればいいのかわからないのだろう。
一方、戌井はますます日和のことがわからなくなっていた。彼女は間違いなく人狼を憎んでいる。戌井を人狼だと疑っているならば、もっと容赦なく対応してもよいはずだ。もし戌井が同じ境遇なら対象とは距離を取り、淡々と満月の夜に占っていただろう。命の恩人だからといって関係ない。普通は復讐心の方がより勝る。
だがあの階段の踊り場で日和はまさに混乱を極めていた。預言者の仕事を優先し、不意打ちで戌井を追い詰めることもできたはずなのに、彼女にはそれができなかった。人狼を憎みながらも、優しすぎて割り切れない性格なのだろう。だからこそ戌井の方も、日和を憎み切れないどころか何となく放っておけない気持ちにさせられるのだった。
「戌井くんのことは信じたいです。でもどんなに優しい人でも占っておかないと安心できなくて……でも雉真くんの言う通り、恩を仇で返す行為ですよね」
「あ、いや、それは――」
「むしろ生ぬるいくらいだ」と、戌井は言った。「俺は人間だが怪しい点があるのは認める。君の立場なら気に病む必要はない」
「で、でも! 腹が立ってはいないのですか?」
「少しも気にしなかったと言えば嘘になるが。こうして話してみて君のことはわかったから。俺を占うことで安心できるなら……」
戌井は自分が理屈に合わないことを言おうとしていると思って言葉を切った。だが、彼は常に率直にものを言うのだ。
「そうすればいい。占った後でも友達にはなれる」
「友達に……」
日和の琥珀色の瞳が静かに揺れ、温かな光をたたえながら、まるで宝物を見つけたように戌井を見つめた。
自分がそんなことを口走るとは意外だった。平穏に暮らすために人とはなるべく関わりを持たないようにするつもりだったのに。これもタイムリミットのせいだ。戌井は普通の高校生活というものが、具体的に何なのか本当はよくわかっていなかった。よくわからないが漠然とした憧れだけがあり、とにかく学校に通おうと努力してきたのだ。勉強と部活に励めば普通の高校生らしくなると思っていた。だが残り11日しかないと知った時に、彼は自分の本当の望みに気付いたのだ。
戌井は友人が欲しかった。長期的に見れば友人は時に厄介な存在になるかもしれないが、どうせあと11日しかないのだから恐れるものは何もない。このタイムリミットさえも逆手に取り、彼は残された時間で人生を存分に豊かにしてやろうと思った。友人を作るのはその第一歩だ。
「フッ……」と、雉真が言った。「まさかこんな話になるとはな。日和さんが思ったより元気そうで良かった。問題が解決したわけじゃねえけどな。また何かやられたら俺達が相談に乗るから、遠慮なく頼ってほしい」
「ええ、お二人がいてくれてとても心強いです」
それまでどこか遠慮がちだった日和が初めて月明かりのように柔らかな笑みを浮かべた。雉真はその表情を見て固まってしまっている。
「それにしても誰が靴を隠したりなんかしたのでしょう?」
「入学してまだ間もないのに、行動力高すぎて怖えんだよな」
「中学の時に嫌がらせしてきた子なら何人かいましたが、彼女達も今は新しい環境に慣れるのに精一杯でしょう。まあ入学前から裏サイトで悪口を書き込んでいたようですが」
「ああ、そうか。昨日それを見て傷付いた顔をしていたんだな?」
「下駄箱の中にQRコードの書いた紙があって、それが裏サイトに繋がっていたみたいです。私の悪口が色々書かれていましたが、靴については一言も言及がなかったんです。私に嫌な思いをさせたいなら、靴を隠したことをあえて書き込むものだと思いませんか?」
「けっこう冷静に分析しているな」
「こんなことではへこたれません。人狼を捕まえれば、それで私の価値は証明できますから」
猿渡日和の凛とした強さ。それはきっと預言者としての責任感と誇りによって生まれたのだろう。
「とりあえず裏サイトで書き込みしている人たちは警察を通じて全員特定しましたが、やはり中学の時に一緒だった子ですね」
「よ、預言者を敵に回すもんじゃねえな……」
彼女はなかなか強かだ。雉真はアイスティーを一口飲んでから言った。
「じゃあこういうことか? 靴を隠した奴と裏サイトで悪口言ってる連中は別の人物。裏サイトの方は中学からの同級生たちだと判明しているが、入学早々、物理的な嫌がらせをするとは考えにくい。それに発言内容から靴隠しの件も知らない。つまり靴隠し犯は単独で日和さんに手の込んだ嫌がらせをしているってわけだ。かなり気味が悪いな……」
「何か普通のいじめとは異なる不気味さを感じます。捕まえたい気持ちはありますが、犯人の手がかりは他にありませんし。次の嫌がらせを待つしかないでしょう」
「嫌がらせを待つって何?」
「犯人ならわかっている」
それまで静かに話を聞いていた戌井が言った。
「「え?」」
日和と雉真は顔を見合わせ、それから2人同時に戌井に視線を向ける。
「待つ必要はない。こっちから攻めるんだ。今すぐにな」