第63話 中間テスト
1週間ほど学校を休んでいた男子生徒が中間テスト初日に現れた。
教室には一瞬、驚きと戸惑いが広がった。学校には体調不良と届け出ていたものの、傍から見ると戌井の精神状態はどこか不安定で、少し近寄りがたい印象を与えているのかもしれない。実際は人類のほとんどより強靭なメンタルの持ち主であるが。
戌井の頭の中は漢字や古語でいっぱいだ。席に座ると瞑想して集中力の回復に努める。
雉真が後から教室に入ってきた。戌井は目を開けると、「ノート、ありがとな」と彼に言った。
「いいってことよ。もう命狙われてないのか?」
「ああ」
「で、命狙われるってどゆこと?」
「もう忘れた」
「そうだと思った」
雉真はいつも通りだ。彼もウォールナットの人狼に襲われて死にかけていたが、突然、自分の友人も人狼ではないかと不安を感じている様子はなさそうだ。戌井は雉真の爽やかな笑顔をまじまじと見つめた。
「どうした? そんなに俺を見つめて」
「お前を見ると、日常が戻ってきたって感じがするな」
雉真は「何だそれ」と微妙な表情を浮かべた。
「俺は日常の象徴じゃねえのよ」
今日のテスト科目は国語と日本史だ。テストが終わると戌井と雉真は軽く答え合わせをする。
「ああ~……倭の五王、出ると思わなかったな。あんなん覚える気しねえって」
「讃・珍・済・興・武だ」
「すっげー! お前、倭の五王の名前全員言えんじゃん。どうやって覚えたんだ?」
「ロシアン・ルーレット」
「お前も冗談とか言うんだな。いや……ガチか?」
戌井は集中力を使い果たして脳がふわふわした心地になっていた。雉真に尋ねられるまま、余計なことを喋ってしまいそうだ。そこで話題を変えることにする。
「明後日テストが終わったら、夕食に焼き肉でもどうだ? 日和さんと猫屋敷さんも来る」
「いいねえ。もちろん行く。おかげで残りのテストも頑張れそうだ」
「あと俺の父親だと自称する男とその娘も来るが、気にしないでくれ」
「どういうこと!?」
☂
その日の午後は静江と会う約束があった。獅子丸慎吾の顛末を詳細に聞いておく必要があるからだ。
ちょうどお昼時だったので戌井と日和、猫屋敷と静江の4人はファミレスに集まった。
「夫は自ら命を絶ったわ」と、静江は淡々と言い、日和に向かって謝った。
「ごめんなさいね。これから食事なのに」
「いえ、ニュースを見て知っていますので」
「どうやったんだ?」戌井が訊いた。
「夫の悪事は何もかも明るみになった。ワイルドショットの秘密と犯罪組織との関わり、そして人狼である私の娘を誘拐するため、妻にドラッグを盛ったことも。世間のバッシングから逃れるために彼は行方をくらまし、次に見つかった時にはドラッグを大量摂取した挙句、毒を煽って死んでいた」
戌井はしばし考えてから言った。
「その筋書きを書いたのは誰だ?」
「ブラスターさんよ」
「なぜ奴がそこまでやるんだ?」
「ワイルドショットの被害にあったのはジャンキーだけじゃない。その親の中には有力者もいた。たぶん、ブラスターさんは彼らに恩を売りたかったんじゃないかしら」
「でも……そんな恐ろしいことをするなんて。あのブラスターさんが……」
具体的にどんな恐ろしいことをしたのか、戌井は想像してみた。大量の薬物は静江が打ったワイルドショットのことだから、ブラスターはただ、意識朦朧としている獅子丸慎吾の前に毒の入ったお酒でも置いて立ち去ったのだろう。
「あなた、ブラスターさんとはどういう知り合いなの?」
日和の言葉に違和感を覚えたのか静江が尋ねた。
「私は……」
日和はそこで逡巡したが、意を決して言った。
「預言者です」
「あら。それなのに人狼の手助けをしているの? それはどうして?」
「戌井くんに出会って、人狼にも良い人がいると知ったから」
日和は自分の両手を見つめた。
「私の手はずっと前から血に塗れていました。自分の占いで罪もない人狼を殺めていたのに、見て見ぬふりをしてきただけです。娘さんの死は私にも責任があります」
「しょうがないよ。それが社会に与えられた役割だったんだから」猫屋敷が言った。「ひよりんはルールに反してでもあたしたちを助けようとしてくれた。奇跡みたいな存在だよ」
「その通りよ」
静江は日和の手をぎゅっと握った。
「自分を責めないで。自分を責めていいのは、何かを実際に改善できる時だけよ。責任の所在は正しく見極めなければならない。私は、娘が生きられなかったのは差別的な社会のシステムのせいだと思ってる。人狼と共存する社会なら獣化した人狼の剥製なんて認められなかったし、ワイルドショットも作られなかった。私……残りの人生をかけてこの社会を変えたいの。もしそれが実現できたら、娘を霊媒してその景色を見せてあげたいから」
静江は猫屋敷の方に視線を向けた。
「猫ちゃんの人工肉の研究は社会を変える突破口になると思う。猫ちゃんが研究に集中できるよう身の回りのお世話をさせて。社会を変えるなんて御大層なことを言って、こんな小さなことしかできないけれど……」
「ううん、そんなことない! あたし、生活力ないから凄く助かるにゃ」
猫屋敷は嬉しそうに体を揺らした。
「こんなこと言っていいかわからないけど、ママができたみたいで嬉しい」
「詩織への愛は変わらない。猫ちゃんを養子として迎えても」
「静江さん……」
2人は親子のように抱き合った。日和はそれに感化されたのか、心なし戌井に寄り添ってくる。
「私と戌井くんは悪い人狼の討伐をします。人工肉を開発しても、人狼への恐怖心を取り除かないと共存は難しいですから。戌井くん、お手伝いいただけますか?」
「俺のせいでむしろイメージが悪くなっている気がするな」
「そんなことないにゃ~。SNS見たけど、白狼をダークヒーロー扱いする人達もいるよ。獅子丸慎吾はとんでもない悪党だったし、金持ちから1億円をふんだくるのはやっぱり爽快だもんね。白狼が逃亡中に車をそっと持ち上げて、事故を防いでいる映像もバズってるし」
戌井はSNSで白狼に関する話題を確認してみた。好意的な見方をする者もいれば、やはり人狼だからと批判する者もいる。
「人間は気まぐれだな」
「今の社会は大きな川みたいなもので、誰にもその流れを制御できない。政治家にもね」猫屋敷が言った。「みんなただ漠然と漂っているだけ。どこに向かっているかはわからない」
「それなら、いくら頑張っても意味なんかないんじゃないか」
「人間は感情的な生き物だから、流れを変えられるのは物語だけ。これを一番上手くやっているのは聖書だね。人工肉の研究、人狼による人助け……小さなことを積み重ねれば、いつか大きな物語になって人の心を動かせる。私はそう信じたいな」
戌井はファミレスの窓から空を見上げて、ふと自分の将来のことを考えた。戌井の望みはただ平穏に暮らすことだけだ。社会を変える、とか大きな目標を掲げるのは性に合わないが、自分にできる範囲で小さな貢献をするのも悪くない。
平穏に暮らす、とはただのんびり過ごすことではない。いかなる脅威も排除できるように、日々鍛錬を怠らず、爪と牙を研いでおく必要がある。人間を襲う人狼たちを退治することで、過去に培った技術を忘れないでいられる。自分にもメリットがあるということだ。
「リスは森を作る、か」
窓から視線を外して日和を見ると、彼女はそうそうと小さく頷いていた。




