第62話 静江の復讐
1億円を受け取るのに、獣影館を舞台にする必要はない。もっと戌井が有利な方法で受け渡すこともできたし、煙幕装置のような大がかりな仕掛けも必要なかった。
この方法を採用したのは、ひとえに獅子丸静江の復讐を手伝うためだ。
時刻は、白狼が獣影館に現れた時点まで遡る――
みんなの視線が白狼に釘付けになった瞬間、静江はぎゅっと目をつむり、閃光手榴弾を落とした。あらかじめ耳栓をしているので音の衝撃も最小限で済む。それと同時に猫屋敷から渡された小型スイッチを親指で押し込むと、煙幕発生装置が起動する。
夫は驚いた拍子に静江を突き飛ばした。転びそうになるがどうにか踏みとどまり、静江は注射器を取り出す。辺りには煙が立ち込めており、目撃者はいない。
当初は包丁で刺すつもりだった。煙が晴れた時に夫が死んでいても白狼のせいにすればいい。だが松鷹の遺体が手に入り、猫屋敷がその遺体からワイルドショットを生成してくれたので予定を変更することにした。
静江は夫にドラッグを盛られたせいで娘を失った。ドラッグで意識が朦朧としていなければ絶対に目を離したりしなかったのに。そもそもなぜ夫がそんなことをしたのか、殺す前に聞き出さねばならない。ワイルドショットには判断力を低下させる効果がある。それは身にしみてわかっている。
静江の望みは普通に幸せな家庭を築くことだった。完璧でなくてもいい。静江自身は完璧に家事をこなすが、それは自分には主婦の才能があり、その才能を発揮するのが好きだったからだ。でも夫や娘には完璧を求めてはいない。ただ愛すべき2人がいるだけで幸せだった。
静江はひたすらに純粋だった。両親に、特に母親に過保護と言えるくらい愛情深く育てられたからだろう。今思えば、父親は仕事が上手くいかなかったり、人間関係でトラブルが起きると『家庭が安らげないから集中できない』などと言って全てを母親のせいにしていた。母は疑うことを知らず、『お父さんは良い人よ』と言い続け、娘の静江もまた同じ思考パターンを刷り込まれていた。誰かを責めるよりまず自分を責めてしまうのだ。
両親には何不自由なく育てられたから感謝はしているけれども、現実と向き合うことを教えてくれず、自己否定的な思いを抱かせたという意味では善意の毒親とも言えるかもしれない。
静江は今、初めて怒りを覚えている。人間の悪意に真っ向から向き合わねばならない。これはきっと自分の人生に必要な覚醒だったのだろう。娘を失った後では何もかも遅いけれど。それでも、悪の元凶を絶つことがせめてもの償いだ。
静江は煙の中を毅然とした足取りで進み、腰を抜かした獅子丸慎吾に後ろから抱きついた。
「ひっ。私に触るんじゃない!」
「暴れないで。私よ、あなた」
獅子丸慎吾が大人しくなった瞬間、静江は彼の首筋に注射器を突き刺した。ワイルドショットをたっぷり体内に流し込んでやる。
獅子丸慎吾は痛みを覚えて静江を突き飛ばした。
「私に何をした!?」
「あなたが私にやったことよ。なぜ私にドラッグを盛ったの?」
「なんのことだ! いや違う……知っていたのか? 知っていたのにどうして……そうか、わかったぞ。動物園で私を殺そうとしたのはお前だ。松鷹と黒鶴を懐柔して暗殺を企てた。なんてやつだ。この卑劣な魔女め――」
薬が回るのに少し時間がかかる。静江は彼の言葉を遮った。
「教えて。あなたは娘を愛していたの?」
「娘……娘ならここにいるじゃないか。フハハハ! 娘がいるぞ。こんなに小さくて可愛い……私のお気に入りだ」
獅子丸慎吾の様子がおかしくなった。何かに抱きついているようだが、煙が濃くてぼんやりとした影にしか見えない。
「何……? 何を言ってるの? 娘がここにいる? ここにいるのは人狼の剥製ばかり――」
静江は戦慄した。恐ろしい真実に気付いてしまった。
「あなた……娘を剥製にしたの? 詩織は……人狼だったの?」
皆既月食の夜は誰もが人狼になる可能性を秘めている。夫は娘が人狼になったことに気付いたのだろう。こっそりRJを食わせ、母親に人狼だとバレたら嫌われるぞ、とでも口止めしていたのかもしれない。
「詩織……? 違う。この子の名前はアマラだ。ああ……こんなに小さくて可愛い獣はお前だけだ。よしよしよし」
世界最小の人狼・アマラ。獅子丸慎吾はその希少性に目を付けて、詩織を剥製にしようと思い立った。ただコレクションに色を付けるためだけに。自分の娘を!
だが詩織のそばにはほとんどいつも静江がいた。静江がいない時には獅子丸慎吾が面倒を見ていたので、そのタイミングで娘が失踪すれば自分の過失になってしまう。だから彼は静江にワイルドショットを盛って判断能力を奪い、静江が目を離した隙に娘を誘拐することにしたのだ。
そして、そして――獣化した詩織を………………
静江は吐き気を催しそうになって口元を押さえた。だがなんとか込み上げてくるものを呑み込んだ瞬間、何かがぱちんと切れた。静江は懐から包丁を取り出すと、獅子丸慎吾につかつかと歩み寄った。
獣のように飛びかかって刺そうとした時、誰かに手首を掴まれる。
「おやめなさい」ブラスターの声だ。「娘さんの前で父親を殺すなんて」
静江と獅子丸慎吾のやり取りを聞いていたのだろう。ブラスターは液晶パネルに搭載されたサーモグラフィカメラでこちらの姿をはっきりと見ているのだ。
「邪魔しないで。あなたには関係ない。この男を生かしてはおけない」
「彼はドラッグでハイになっている。今、刺しても何の苦痛も感じずに死にますよ。それで満足ですか?」
「……」
「ワイルドショットのことが明るみになれば、彼は全てを失うでしょう。認可を受けていない薬物をばら撒き、犯罪組織と関わりがあったとなれば長期の服役は免れませんね」
「……どうせすぐ出てくるわ。彼は司法関係者の大物と知り合いだし、莫大な財産は残っているもの」
「おやおや、私も知り合いは大勢いますよ。獅子丸慎吾に恨みを持つ人間たちも知っています。ワイルドショットで被害を受けた子供たちの親の中には有力者もいる」
「……それで、どうするというの?」
「先ほども言った通り、獅子丸慎吾はこの後すべてを失う。ショックを受けた彼は薬物を大量摂取し……そんな人間に起こるべきことが起きる。ま、後は私に任せておきなさい」
「……っ! どうして……あなたは人狼の敵なんでしょう? 娘は人狼だった。誰も……誰も同情なんかしない」
「私にとって人類は2種類しかありません。生者か、死者か。私は死者の方が好きですねえ。亡くなった娘さんに凄惨な光景は見せたくありません。剥製も遺体の一部ですから、娘さんを霊媒することも可能ですよ」
静江は包丁を落とした。ブラスターはそれを拾い上げると、アマラ――詩織の剥製に抱きついている獅子丸慎吾の後頭部を包丁の柄尻で強く殴った。ドサリと鈍い音がする。ブラスターが詩織から獅子丸慎吾を引き剥がしてくれると、静江は少し落ち着きを取り戻した。
「本当に……娘を霊媒してくれるの?」
「もちろん! ですがもっと落ち着いた状況の方が良いでしょう。質問は3つだけです。何を質問すべきか、よく考えて決めてください」
煙の中で、ブラスターは獅子丸慎吾を肩に担いで去っていった。




